Jah Lloyd(ジャー・ロイド)Text by Harry Hawks
70年代を牽引したディージェイ、そしてレコード・プロデューサーの1人であるパット・フランシス別称ジャー・ロイドジャー・ライオンは今も過小評価されたままである...
Jah Lloyd
本名 |
Patrick Lloyd Francis |
出生 |
1947年8月29日 |
死没 |
1999年6月2日 |
出身地 |
ジャマイカ セント・キャサリン ポイント・ヒル |
関連アーティスト |
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1947年8月29日、セント・キャサリン教区のポイント・ヒルで生まれたパトリック・フランシス(Patrick Francis)は1959年、希望を持った多くの若者と同じくキングストンを目指し、悪名高きトレンチ・タウンのゲットーに身を寄せた。'イージー・スナッピング(Easy Snapping)'の名でも知られるセオフィラス・ベックフォード(Theophilus Beckford)やエリック'モンティ'モリス(Eric Monty Morris)などのミュージシャンやアーティストに囲まれたパットはシンガーになることに刺激を受けた彼はイーグルス(Eagles)と呼ばれるグループを結成し1966年にスタジオ・ワン(Studio One)で'What An Agony'を録音した。1969年にもメディエーターズ(Mediators)のメンバーとしてマイティ・ダイアモンズ(Mighty Diamonds)のメンバーとなるフィッツロイ'バニー'シンプソン(Fitzroy 'Bunny' Simpson)と'Darling Here I Stand'をスタジオで録音し、その年の後にルーピー・エドワーズ(Rupie Edwards)のために録音した'Look Who A Bust Style'で成功を収めた。そうして彼は急成長を見せるルーピーのサクセス・レコーズ(Success Records)のショップとレーベルのための2年間セールスマンとして働いた。
ルーピーのセールスマンとして仕事をしたパットはキングストンのレコード業界では皆を知っていた。レコーディングのためリー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)にアプローチするもビッグ・ユース(Big Youth)の作品に刺激を受けたパット・フランシスは歌うことよりもディージェイするべきだと決意したのだった。アップセッターズ(Upsetters)の名でクレジットされた'The Lama'などをスクラッチのもとで録音すると彼はリー・ペリーのもともと店だったチャールズ・ストリート36番地で自身のレーベル、ティーム(Teem)での制作も開始、彼のディージェイ作品はジャー・ロイド(Jah Lloyd)としてクレジットされた。ティーム最大のヒットになったのがレゲエで最も人気があり、幾度となくヴァージョン化されてきた。ホレス・アンディ(Horace Andy)が歌ったビル・ウィザーズ(Bill Withers)の'Ain't No Sunshine'とデルロイ・ウィルソン(Delroy Wilson)がアインズリー・フォルダー(Ainsley Folder/A.Folder)のために録音した決定曲'Have Some Mercy'としても有名なシーンリー・ダフス(Shenley Duffus)がウィリアム・ベル(William Bell)によってスタックス(Stax)に残された傑作'I Forgot To Be Your Lover'をカバーした作品 'To Be A Lover'がそれらに挙げられる。スクラッチはジャー・ロイドと'The Lama'を制作した後、これらのリズムを使ってもいいように手渡していたことから1975年彼はこの二つのリズムを起用しマイティ・ダイアモンズの美しい'Shame And Pride'と一緒にティームからリリースした。そしてその年、ジャー・ロイドはマイティ・ダイアモンズをチャンネル・ワン(Channel One)のジョ・ジョ・フーキム(Joseph Hookim)に紹介したのだった。そうして「歴史が築かれていった」と彼らは言う。
1976年初頭、ロンドンを拠点にするアイランド・レコーズ(Island)との国際的な流通契約を得たリー・ペリーはディージェイ・アルバムを制作しようと決めた。当時、ルーピー・エドワーズとの録音で人気の波に乗っていたジャー・ウーシュ(Jah Woosh)がリー・ペリーの最初の選択肢だったが、ジャー・ロイドを呼び寄せるとジャー・ライオン(Jah Lion)と名付けた。思慮深いLP盤「Colombia Collie」の完成には数週間が費やされた。リリースされると当時の恐ろしい雰囲気を捉えたこのアルバム作品はイギリスのレゲエ・アルバムチャートに数ヶ月間入り続けた。しかし、アルバム・カバーの裏面に載せられたブラック・アーク(Black Ark)で撮られたリー・ペリーの写真を理由に多くの人はジャー・ライオンがリー・ペリーのディージェイ名であると勘違いした。当時一番のディージェイの1人としての評価を確立する絶好の機会を失った彼のマイク時の堂々とした存在感と腕前は結果、それに値するような知名度や称賛が向けられることはなかった。
彼の制作スキルも別格で、プロデューサーとしてジャー・ロイドの作品は絶えずほめ称えられ、高く評価されてきた。彼はジャマイカのレーベル、ティームと国際的なイギリスのヴァージン(Virgin)傘下にあったフロント・ライン(Front Line)を通して、彼が努力して得た自主性を守り続けた。1979年に、レヴォルーショナリーズ(Revolutionaries)によって制作されプリンス・ジャミー(Prince Jammy)がミックスしたティームの一流リズムのダブ・コレクションがロンドンのグリーンスリーブス・レコーズ(Greensleeves Records)にライセンスされた。グリーンスリーブスの初期リリースの一つとされる「Gold Mine Dub」はレーベルの評価を高めただけでなく、現在一部では過去の物として誤って捉えられているダブ・ミューックの確立を後押ししたのだった。
1999年6月2日、パトリック'ジャー・ロイド/ジャー・ライオン'フランシスはキングストンで悲惨にも銃弾に倒れた。
2020/01/17 掲載