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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Little Roy
アーティスト特集
Little Roy(リトル・ロイ)Text by Harry Hawks
「タファーライはどうやって音楽が作られるべきか、レコードにして売るかというもっともな見本であり、現在もそうである。おそらくビジネスの中で一貫してその信念を貫いている世界にたった1つのレーベルであろう。メッセージがその音楽の中に存在している」デイヴ・ヘンドリー
Little Roy
本名 Earl Lowe
出生 1953年
出身地 ジャマイカ 西キングストン ウィットフィールドタウン
関連アーティスト
1953年西キングストンのウィットフィールド・タウンで生まれたアール'リトル・ロイ'ロウ(Earl 'Little Roy' Lowe)は幼かった12歳の頃から、かの有名なブレントフォード・ロードに足を踏み入れ、そこでクレメント'コクソン'ドッド(CS Dodd)のために'I Am Going To Cool It'をレコーディングした。このデビュー・レコーディングはヒットには至らず、アールの活動拠点はオレンジ・ストリートのプリンス・バスター(Prince Buster)の下へと移った。彼は'It's You I Love'と'Reggae Got Soul'という2曲をプリンスのためにレコーディングしたが「特に何も無かった」という。しかしプリンスは彼に"リトル・ロイ"というステージ・ネームを与えた。それは若者だった「私がバスターのために歌い始めたのが14歳だったから...」ということと、当時の彼の背丈から来ているのだという。セント・アンドリュー・テクニカル・ハイスクールで建築を学ぶ為の奨学金をもらい、そこに18歳まで在学し勉学に励んだものの音楽への関心の方が強くなるばかりだった。

よって彼はキングストンのプロデューサーたちの下を訪ね続け、アールの次の行き先はウォルトン・パーク・ロードにある、自身のレーベル、マタドール(Matador)とシンジゲート(Syndicate)の一連のヒット曲で成功を味わっていたロイド'ザ・マタドール'デイリー(Lloyd Daley)のロイズ・ラジオ・アンドTV(Lloyd's Radio and TV)だった。ロイド・デイリーは才能のある多産なプロデューサーであり「彼の楽曲は名曲ばかりだ。彼は自分の楽曲をテープに録音するのが得意だった...彼の楽曲は全てノイズが混じらず、とても綺麗だった」とリトル・ロイは彼のことを回想した。彼らが行った最初のレコーディング、1969年の'Bongo Nyah'は「ものすごいヒット」になり、ラスタファリアンという宗教を支持した最初のレコードの1枚だった。それに続いた'Without My Love'も「また大ヒット」し、'Keep On Trying'も「またよく売れた楽曲」で、'Hard Fighter'は裏面に、その功績がヒッピー・ボーイズ(Hippy Boys)に贈られている、ドラムとベースの"ブードゥー"ミックスを録音した最初のレコードの1枚という「マタドールにとって重要な楽曲」だった。ロイド・デイリーはロンドンのパーマー(Palmer)兄弟と提携しリトル・ロイのレコードはパマ(Pama)の子会社からイギリスでリリースされ非常に人気を博した。1971年「...私はデニス・ブラウン(Dennis Brown)とリロイ・シブルス(Leroy Sibbles)と共に'Righteous man'と、'Nyah Medley'の2曲を歌った。この2曲がマタドールで私が録音した最後の楽曲だった」という。

レコード・プロデューサーたちから受ける待遇への不満がますます高まり、リトル・ロイはタファーライ・シンジゲート(Tafari Syndicate)を立ち上げ、プロデュースとモーリス'スコーチャー'ジャクソン(Maurice 'Scorcher' Jackson)と彼の兄弟メルヴィン'マンチー'ジャクソン(Melvin 'Munchie' Jackson)と共にレコーディングしたレコードのリリースし始めた。マンチーはリトル・ロイと同じくウィットフィールド・タウンのエリア出身だったが「彼が誰だか知ってはいたが、私が学校を離れたあとヴィル(Ville)という私の友人の1人が彼を紹介してくれ」、1971年にキングストンに戻るまでニューヨークのロイド'ブルワッキー'バーンズ(Lloyd Barnes)の下で働いていた。

タファーライ最初のレコーディングの2枚はヘプティック(Heptic)、「ヘプトーンズ(Heptones)とデイヴィッド・マッケンジー(David Mackenzie)というDJが所有していたレーベルからリリースされた。私が最初にレコーディングした楽曲は'Mr T'だった」という。タファーライからの最初のリリースはキーボードにタイロン'オルガンD'ドウニー(Tyrone 'Organ D' Downey)を迎えてアストン'ファミリーマン'バレット(Aston ‘Familyman’ Barrett)がアレンジを担当したスタジオ・ワン(Studio One)のためにジャッキー・ミットゥー(Jackie Mittoo)が演奏した'Autumn Sounds'のカヴァー、'Free For All'という忘れることの出来ないインストゥルメンタル楽曲だった。このレーベルはまたデニス・ブラウンの名曲'Set Your Heart Free'、ヘプトーンズの'Forward On A Yard'と'Revolution'、ウィンストン・スコットランド(Winston Scotland)の'Prophecy Rock'と'Zion Fever'などをプロデュースした。リトル・ロイは在学中にラスタファリアニズムに興味を持ち、タファーライ・シンジゲートは良心的ではないプロデューサーたちからの逃避だけではなくラスタファーライのメッセージを伝える手段でもあった。

「私はこの眼でラスタを何度も見たことがあった。今はエチオピアに住んでいるデシ(Desi)という名前の兄弟がセラシを神だと我々に説いた。私は聖書を読み始めデシが正しいことを知った。それからというのも私は"男性"であることを主張する歌を歌うのをやめた。私が今論じているのはピュアなインスピレーション...そこでやってくるのは勢力争いのようなものだ。同じプロデューサーたちのために歌わなければ、自分の名前を覚えてもらえない。もし正当にやりたいのなら、純粋に戦っていかなければならない。彼らに合わせることも必要なのだ...これは自分たちの"中"にいる神が与えてくださった論証のようなものであり、創造主たちでは対処してくれないものだろう」アール'リトル・ロイ'ロウ

メルヴィンとモーリスの母親はキングストンの病院、刑務所、キングストン地区ワシントン・ガーデンのコーレイヴィル・アヴェニュー17番地にある"パッキン・ハウス(Packin' House)"と呼ばれる彼女が所有する家屋に食料と飲料の供給する契約を結んでいて、"パッキン・ハウス"はタファーライ・シンジゲートのヘッドクォーターとなった。

「全てはパッキン・ハウスで起こったのだ。リール・トゥ・リールのテープ・レコーダーからサウンドシステムまでありサウンドのヴォイシングも出来た。とても実験的だった...たくさんのヴァイブスがあった。スタジオには届かなかった素晴らしい曲もパッキン・ハウスで誕生した...しかしそのほとんどはリール・トゥ・リールを使ってリハーサルをしただけだった。我々はそこへ集まり、チャリスを吸って朝から晩まで歌を歌った。食料と飲み物で溢れ、音楽のためのスペースが取り囲んだ私たちにとっては快適な環境だった。マンチーはそこのリーダーだった...彼は多くの人々を魅了できる人間だった」アール'リトル・ロイ'ロウ

リトル・ロイの最も有名な楽曲の1つ'Prophecy(Taxi)'は1972年にリリースされた。オリジナル楽曲だったが「ブラッカ・モーウェル(Blacka Mowell)のリズムの上にヴォイシングをした!ブラッカはセッションで同じ夜に2つのリズムを作った。'Many River To Cross'を改造した物とそのリズムを作り、その1日か2日後に彼はそのリズムを持ってやって来た。彼とモーリスは契約を交わし彼はそのリズムを使ってモーリスのカットを売り出した」'Prophecy'はレゲエ史で最もヴァージョン化されるリズムの1つとなった。その後に続いたのが'Tribal War'で「大ヒットし金が転がり込んできた!」が、完全に芸術的で財政的にコントロールをしていたにも関わらずタファーライ・シンジゲートはジョージ・ノックス(George Nooks)とジョン・ホルト(John Holt)がリリースしたこの楽曲のカヴァー・ヴァージョンで問題を抱えていた。「このカヴァーで私は一度も当然の報いを受けていない!ラジオDJは1度も私のヴァージョンをプレイしないが、曲自体はヒットしている。他のヴァージョンの物は多くプレイされていたが、私のヴァージョンはそれ以上に売れていた。あれはレコード・ショップで最も早く売れたレコードだったがチャートにはそれが見れ取れなかった。デニス・ブラウンが'Tribal War'ベースを弾いた事実を知っているか?」

リー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)はしばしばタファーライ・シンジゲートと共に活動を行った。「アップセッター(Upsetter)はマンチーの良き友だった。私はハンプトン・クレセントに住み、リーはカーディフ・クレセントに住んでいた...家を3つ挟んだ距離だ。彼はランディーズ(Randys)で我々と共に'Tribal War'のヴォイシングをした。'Tribal War'は彼がエンジニアを担当した。ブラック・アーク(Black Ark)でセッションをした。'Jah Can I Count On I'のリズムはプルート・シャーヴィントン(Pluto Shervington)のニュー・キングストンのスタジオで出来あがったがヴォイシングとミキシングはブラック・アークで行った。私はまた、オリジナルがアップセッターからリリースされた'Don't Cross The Nation'をイワン・ガーディナー(Ewan Gardiner)と共にやった...あれは彼自身のプロダクションからリリースされた」

タファーライ・シンジゲートに関わった全員は絶え間ない練習とリハーサルをしたが、リトル・ロイが回想する限り控え目にレコーディングを行った。「多すぎる楽曲はアーティストにとっていいとは思わない。楽曲という物は上手くまとめられ他に変えられない物であるべき」で彼は兄弟のイアン(Ian)とロック(Rock)と共にトゥエルブ・トライブス・オブ・イスラエルのためにライブ活動へ移行していった。イアンの本名はイワン・ガーディナーで「私と彼は同じ学校へ通っていた...我々はリー・ペリーのために'Don't Cross The Nation'を歌った」が、タファーライには深く関わってはいなかった。イアンはまたグレン・ブラウン(Glenmore Brown)のヴォーカル作品のコンピレーション「Boat To Progress」にリトル・ロイとクレジットされている'Father's Call'も歌った。

「イワンはシンガーというよりもミュージシャン気質だった。彼はハーモニーというものを知っていた」しかしイワンは「約2年前に死んだ...私と彼は同い年だった」ロッキー(Rocky)またはロックとして知られるアンソニー・エリス(Anthony Ellis)はスタジオ・ワンでヘプトーンズと共に'Love Me Girl'と'The Ruler'を歌ったが「他の楽曲は日の目を見なかった」という。彼はトゥエルブ・トライブス・オブ・イスラエル(Twelve Tribes Of Israel)のメンバーで、ロイは「もしトゥエルブ・トライブスに自分ささげるなら他の活動は出来ない」と回想した。彼はリトル・ロイと共に'Ticket To Zion'、'Hah Can Count On I'や'Working'を歌った。「私にはキャリアがあったが、私たちが歌い始めた時はトゥエルブ・トライブスのようだった...リトル・イアン・ロック(Little Ian Rock)だからな。私たちはもっともトゥエルブ・トライブスのために無償でショーをした。3人というのは象徴的な数で、私たちは小さな自分たちを高めることよりも神が使ってくださる楽器のひとつになる決意をした」

80年代ロイは音楽ビジネスから身を引いていた。彼はアメリカに住んでいたが「多くのレコーディングをする気が起きなかった」という。しかし彼はレコーディングをしなくても「楽曲はいつもここにあった」と正確に指摘した。リトル・ロイは自身の信念に忠実であり続け、1980年にハーマン・チン・ロイ(Herman Chin Roy)のアメリカでのレーベル、セレクション・エクスクルーシブ(Selection Exclusive)からリリースされた自身を説明とも言える'Long Time Rock Steady'を含む一握りの素晴らしい12インチ・レコード以外は威厳のある沈黙を守り続けてきた。

ロンドンに移住後リトル・ロイは控え目ながらもレコーディングを再開し、1991年にはアルバム「Live On」をリリースした。ロイは「曲作りを続け、自分のベストなものを作る」ことをやめようとせず、1996年にはエイドリアン・シャーウッド(Adrian Sherwood)のオン・ユー・サウンド(On U Sound)レコーズよりLP「Long Time」をリリースした。2005年、「Children of the Most High」が高い評価を受けたが、2011年の秋、ニルヴァーナ(Nirvana)のアルバムに収録されている楽曲'Battle for Settle'でプリンス・ファッティーアンド・ザ・ミュータント・ハイ・ファイ(Prince Fatty and the Mutant Hi-Fi)とコラボレートしたとき、彼は全く新しいオーディエンスを獲得した。

リトル・ロイのサウンドは現在もレコードがリリースされた当時と変わらず献身的であり刺激的、気持ちを高揚させ、彼の哀愁の漂う、記憶に残る楽曲はメッセージが理解されるのならばその音楽は申し分ないという事実を証明し続けている。「我々は再び上っていく時をただ待っている。今ヴァイブスが証明しているようにタファーライの楽曲たちは生き残っている。作品は力強くタイミングはいつもいいということを我々は知っている...」ダブストア(Dub Store Records)一同は彼のプリンス・ファッティーとの最新作がきっかけとなり、より多くの人々がこのジャマイカ音楽の偉人の作品に興味を持ってもらえることを願っている。

参考文献:

Interview with Little Roy London 1st November 1995
Interview with Little Roy London 22nd July 1999
Dave Hendley: 'Little Roy - Ian & Rock and the Tafari Syndicate' Blues & Soul No. 237 October 1977
2013/01/17 掲載 (2013/01/22 更新)
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