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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Derrick Morgan
アーティスト特集
Derrick Morgan(デリック・モーガン)Text by Harry Hawks
人格と身なりがクールの典型であるデリック・モーガンのストーリーはジャマイカン・ミュージックの発達が70年代中盤に起こした嵐により世界を魅了した現象のことを詳しく述べている。
Derrick Morgan
出生 1940年3月27日
出身地 ジャマイカ クラレンドン 
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片田舎のクラレンドンで1940年3月27日に生まれたデリック・モーガン(Derrick Morgan)は5歳の時、キングストンへと引越しヴァインヤード・タウンで育った。彼はAllman Town Primary、Kingston Seniorに通い、Grantham and Model Privateスクールでは毎週金曜日に学校が主催するコンサートで歌っていた。デリックは「歌が上手かった」にも関わらず、「レコーディングすることは考えもせず」学校を離れた後はキングストンのWelfare Departmentで「経理をしていた」。網膜が徐々に縮退する特性を持つ遺伝性のある慢性的な目の病気、網膜色素変性を持って生まれたデリックの視力は年を重ねるごとに落ちてしまった。視力の低下がオフィス・ワークを諦めなければならず「私は歌を歌うことに決めた」。

デリックが「最初に1番を取った」のは1957年、Vere Johns Junior's Opportunity Hourに始めて出演し、リトル・リチャード(Little Richard)に影響された歌い方で'Long Tall Sally'と'Jenny Jenny'を歌った時だった。彼は直ちにジャマイカ一の2人組のコメディアン、ビム・アンド・バム(Bim And Bam)の専属シンガーとしての地位を勝ち取った。彼らはデリックをリトル・リッチー(Little Richie)と改名し、彼はステージ・ショーのために「ジャマイカ全土の劇場を興行し」、「ビム・アンド・バムが喧嘩を起こしたときにはバムとしてステージに上がっていた」という。先のことは誰にも分からないというが、「私はデューク・リード(Duke Reid)がオーディションをやっていると聞きつけ、彼のところへ行きレコーディングをする」までデリックはビム・アンド・バムと2年間を共にした。彼はデューク・リードのために'Oh My'と'Lover Boy'の2曲を録音したがデュークはその2曲をトレジャー・アイル・タイム(Treasure Isle Time)ラジオ・ショーとサウンドシステムのみでアセテート盤または参考用の盤として特別なもの扱いとしてプレイした。「彼はその2曲を私がリトル・ワンダー(Little Wonder)のために録音するまでリリースしようとはしかったのだ。本当に初めにリリースしたのは彼らのレーベル、スミス(Smiths)のために録音した'Fat Man'だった」サンバをベースにしたこの楽曲は大変ヒットし、その後「6曲録音したが、デュークは私を連れ戻した、だから私は彼と、ミリセント・トッド(Millicent Todd)とデリック・アンド・パッツィー(Derrick & Patsy)として録音を始めた」

「それから私はプリンス・バスター(Prince Buster)と出会い、仲良くなり、バスターのためにレコーディングを始め」、彼らの作品はデリック・モーガンをジャマイカで最も人気のあるパフォーマーとして確立させた。「私が中国系ジャマイカ人のレスリー・コング(Leslie Kong)が所有するビヴァリーズ(Beverleys)のために活動するまで、プリンス・バスターと私はいい友達だったが、1962年私の'Forward March'リリースがされた後、彼は私に向けた楽曲'Black Head China Man'を書いた」

「デリック・モーガンとプリンス・バスターは 'They Got To Come'という楽曲を録音し、その後デリックがビヴァリーズのために録音したレコード'Forward March'が原因で衝突したんだ。'Forward March'のソロは似ているが、ちゃんと聴いてみると2つの異なったソロになんだ。プリンス・バスターはそれに腹を立てて、バスターはデリックが彼のソロを盗みビヴァリーズのチューンに使ったと言ったんだよ。レスリー・コングは中国人だからバスターはこう歌った」バニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)

"You done stole my belongings and give to your chiney man
お前は俺の財産を盗んで、お前の中国人にやっちまった
God in heaven knows, he knows, that you are wrong
天国にいる神様は知ってるぜ、お前が間違ったことをやってるってな
Are you a chinaman?
お前は中国人か?
Are you a Blackman?
それとも黒人か?
It don't need no eyeglasses to see that your skin is black...
お前の肌の色はめがねをかけないでも分かるぜ"
プリンス・バスター'Black Head Chinaman'

「そしてデリックは中国語でイントロが始まる'Blazing Fire'でそれに応え、"がたがた騒ぐな、俺はお前よりも優れているんだ"と歌い、しばらくの間その戦いは続いたが、そのライバル関係が長期間レコードを売る手助けもしていたんだ!」バニー'ストライカー'リー

バスターが言っていたデリックが彼から盗んだ"財産"とは、実はホーン奏者の'デッドリー'ヘンドリー・ベネット('Deadly' Henry Bennett)と'Forward March'でソロを演奏していたレスター・スターリン(Lester Sterling)であり、「それが分裂を生んだ」とデリックは説明した。

プリンス・バスターはロンドンを拠点にするレーベル、ブルー・ビート(Blue Beat)のオーナー、エミルEシャリット(Emil E Shalit)を1963年にジャマイカに招いた。最新また一流のジャマイカ産のレコードをイギリスでリリースするライセンス契約をしたことにより彼のブルー・ビートは即時にジャマイカ国外に住むオーディエンスにジャマイカ音楽を一般化させる大変大きな役目を担った。エミルが本国へ帰国するとき、デリックはロンドンまで彼に付いて行ったが「私は天候が好きになれず」、その6ヵ月後デリックはキングストンへと戻り、プリンス・バスターのもとで直ちに'Poison Ivy'という楽曲を録音した。デリックが海外へと行っているときにストレンジャー・コール(Stranger Cole)がパッツィーと活動を始めたため、デリックは自身のいとこであるイヴォンヌ(Yvonne)とレーベル、プレジデント(President)のためにデリック・アンド・イヴォンヌ(Derrick and Yvonne)として'Meekly Wait'を録音した。

デリックはプロデューサーとしてただ1人エミルEシャリットのレーベル、ブルー・ビートと契約を交わした。レスリー・コングのビヴァリーズ・レコーズはロンドンでクリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)のレーベル、アイランド(Island)からリリースされたが結果として、レスリー・コングはデリックを雇うことはしなかった。ビヴァリーズとの活動を再開が可能になるには、当時の財務大臣エドワード・シアガ(Edward Seaga)が間に入り、1965年ロンドンにいるエミルEシャリットに手紙を書きデリックとの契約を解く必要があった。デリックはデリック・モーガン・アンド・ザ・ブルース・ブレンダーズ(Derrick Morgan And The Blues Blenders)としてすでにクレメント'コクソン'ドッド(CS Dodd)のスタジオ・ワン(Studio One)のために録音をしていたが、「私はいつもレスリー・コングの元へ戻っていたよ、なぜなら彼1番金を払ってくれたからな」という。デリックは歌を歌っただけでなくビヴァリーズのためにアレンジ、リハーサル、プロデュースそしてオーディションを行っていた。

「デリック・モーガンはシンガーだったが、彼はビヴァリーズのためにアーティストも選別していたんだ。彼に会いに行き、彼がピアノを弾いてシンガーの歌声を聴くんだ。もし彼が歌声を気に入ればスタジオに招待されレコーディングをする。これが歌うこと以外でデリックがやっていたことだ。昔はデリックと共にスタジオに多く行っていたし、彼がリハーサルをやっていたシンガーがデスモンド・デッカー(Desmond Dekker)、ジョージ・デッカー(George Dekker)...誰でもだな。デリックがビヴァリーズの動かしていた男だ」

「ボブ・マーリー(Bob Marley)はその時期から活動を始め、デリック・モーガンはジャマイカン・ミュージックに本当に強い影響を与えた。俺たちが彼のことを"King of ska"と呼ぶのは彼がビヴァリーズでボブ・マーリー、デスモンド・デッカー、さらにはメイタルズ(Maytals)を発掘したからだ。彼はオーデションで1度メイタルズを落としたことがあるんだが、彼はそれが間違いだったと気付き彼らの元へ行き、活動を始めたって訳さ。はっ、はっ、はっ...誰でもミスはするってことが分かっただろ。いまだに俺たちたちの中では笑い話さ。彼はトゥーツ(Toots)のことをポコマニアのシンガーみたいで聴けないとまで言ったんだぜ!」バニー'ストライカー'リー

彼のビヴァリーズでのセッションはデリック・モーガンにプロデューサーとしての実力を確立させ、ジャマイカン・ミュージックがスカからロックステディへと移り変わる時彼は自身のレーベル、ホップ(Hop)をスタートさせたのは「みんな自分たちの色を押し出したかったからだ」という。「ロックステディはスカからの素晴らしい変化」でありデリックのレーベル、ホップでは彼のサウンドがロックステディという音楽を完全に明確なものにしたリン・テイト&ザ・ジェッツ(Lynn Taitt & The Jetts)を起用していた。デリックはこの非常に優れたミュージシャンの功績にすばやく気付いた。「彼がジャマイカン・ミュージックをスカからロックステディへとぐるりと変えてしまった男だ」という。ホップまたはレーベル、デリック・モーガンからの最初のリリースは大ヒットとなった。「最初にリリースしたのはロイド&ディーヴォン(Lloyd & Devon)の'Red Bumb Ball'だった。あの楽曲は大ヒットし、そのおかげでさらにできるようになった」'Red Bumb Ball'のベース・ラインは結果的にジャマイカン・ミュージックで最も繰り返し使われるリズムになり、デリックはこの"Bumb Ball"が本当は何を意味していたのか説明した。「"Bumb Ball"は"ボール"の意味だった、遊ぶための"ボール"だ、空に向かって放ることができるボールのことだったのだ」トリックとリンは1966年から1968年までのレコーディングで親密に活動をした。「リン・テイトがほとんどのベース・ラインを決めていたが、歌うことの合間に私がアレンジを施していた」という。

1969年、デリックは再度イギリスへ渡り、ロンドンでパーマー(Palmer)兄弟に加わり、彼らの組織であるパマ(Pama)のレコードをプロデュースするようになった。「わしは彼らのクラブというレーベルの責任者だった。彼らはヒット曲を多く生み、'Moon Hop'や'Seven Letters'なんかはイギリスの国内チャートにも名を連ねたが、私がプロデューサーとして知られることはなかった。私はバニー・リーのためにも多くプロデュースをしたが、私の名は記載されなかった。'Wet Dream'は私の'Hold You Jack'リズムを使用したが、それでおしまいだった。才能があったのはいつも私だ!デューク・リードでさえも、私はアーティストやミュージシャンたちにも物のやり方を随分教えたものだ」鼓舞するような'Moon Hop'は不運なことにイギリスのチャートの上位には届かなかったが、パマのライバルであったトロージャン(Trojan)レコーズから'Skinhead Moon Stomp'と変名されリリースされたピラミッズ(Pyramids)またをシマリップ(Symarip)のカヴァー・ヴァージョンにはなかった、重大なスマッシュ・ヒットになりえただろう。

1970年にジャマイカに帰国したデリックがリンフォード'アンディ・キャップ'アンダーソン(Lynford 'Andy Capp' Anderson)のために再演した'Fat Man'は、アンディ・キャップが'Pop A Top'の出所を明かしたことことにより、ダブ・ミュージック革命の基礎を構築するのに一役買ったのだ。デリックはまたホップのためにマックス・ロメオ(Max Romeo)の'Let The Power Fall On I'などにみられるレゲエ・ミュージックが進んでいったルーツ・アンド・カルチャーの方向性を反映したヘヴィーなヒット曲の数々も録音した。

デリックは「いくらかレコーディングをした」カナダへと移住する「1975年までは住む場所が一定ではなかった」という。1979年に彼はアメリカへと移り住み10年をそこで過ごした。デリックは1989年までイギリスの地を踏むことはなかった。彼の次のにとった音楽的な行動は「古きよき物に立ち返る」という決断であり、ヴェテラン・アーティストとして初めてステージに立ったのは「ある男が私にショーをやらせてくれた」というロンドンのShady Groveクラブだった。「このクラブは夜9時で満員の状態だった!私がオールディーズのショーの第一人者だということを、誇りを持って言うことができるし、そして今は誰もがやるようになった...ましてや杖をついて歩くエンターテイナーたちもだ!」そしてデリックはレゲエのリヴァイバル界でのお気に入りのアーティストとしての地位を確固たるものとした。

「デリック・モーガンはまだ"持っている"んだ。彼が出演する全てのショーで持っていっちまうからな。そうだ...彼がアメリカにいたあるとき、彼らはデリックをブラック・ユフル(Black Uhuru)のオープニングとして起用したんだが、デリックがステージを終えると客は会場から出て行っちまったんだ!デリックがどこへ行こうが、みんなは彼のことが好きなんだ!でもデリック・モーガンの前にパフォーマンスをしないといけないぜ」バニー・ストライカー・リー

最も歴史的に評価をされる時というのは何かと見直されるときだが、現存する人々の記憶の中に残っているときでさえ、その事実は現行の考え方に順応するように徹底的に変えられてしまう。時折、デリック・モーガンなどの男たちへの評価となると、ひとしきりの集中的な記憶喪失が起こっているようにも見えないでもない。シンガーとして知られている彼と彼のヒット・レコードの長いリストに肩を並べられるのはジャマイカン・ミュージックの歴史の中で限られた小数だけだが、プロデューサーとアレンジャーとしてのシーンの裏側での彼の功績はどこをとっても重要で影響力がある。敬意こそがこのジャマイカン・ミュージック創造の父へ贈られなければならないものなのだ。

参考文献:

Noel Hawks: Interview with Derrick Morgan London/Kingston 17th July 2003
Noel Hawks & Jah Floyd: Reggae Going International 1967 to 1976 The Bunny 'Striker' Lee' Story Jamaican Recordings Publishing 2012
2018/01/24 掲載
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