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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Boris Gardiner
アーティスト特集
Boris Gardiner(ボリス・ガーディナー)Text by Harry Hawks
たとえ彼のベース・ギターが20年以上に渡ってレゲエ音楽の心臓として鼓動していたとしても比較的無名な人物としてその名をとどめてきた、ボリス・ガーディナーが音楽的にその他大勢の名高いパフォーマーを凌ぐ貢献をしてきたのは紛れもない事実だ。
Boris Gardiner
本名 Boris Gardiner
出生 1946年1月13日
出身地 ジャマイカ キングストン 
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ボリス・ガーディナー(Boris Gardiner)は1946年1月13日生まれ、3人兄弟の末っ子として誕生した。父親は配管技師でボリスは幼少期をローリングトン・タウンで過ごした。しかし彼が13歳のときに両親が離婚、父親と共にヴァインヤード・タウンに移り住んだ。17歳にして心臓病である頻脈と診断され、いくらかの時間を病院で過ごした。しかし、診断から一年以内に彼はリード・シンガーとしてデラノ・スチュアート(Delano Stewart)、リチャード・エース(Richard Ace)、そしてリチャード・モス(Richard Moss)のいるリズム・エーシズ(Rhythm Aces)に加入、バンドは観光客を中心にジャマイカ北海岸沿いのホテルやクラブで演奏していた。

リズム・エーシズはまたキングストンにおける初期のレコーディング・シーンのパイオニアで、1962年から1963年の間に'A Thousand Teardrops'、'Wherever You May Go'、'Oh My Darling'、'Please Don't Go Away'そして'Christmas'をクリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)のR&Bレーベル、'Joy Bells For Independence'をスタジオ・ワン(Studio One)、'Together'をリンドンOポッティンジャー(Lyndon O. Pottinger)のレーベル、ゲイフィート(Gayfeet)にて録音。しかしながらこれらのレコードの人気を裏目に、バンドは報酬に恵まれず解散。その後ボリスは当時既に人気の高かった14人編成オーケストラで、サックス奏者のヴァル・ベネット(Val Bennett)も参加していたケズ・チン&スーヴェニアーズ(Kes Chin & the Souvenirs)に加入。スーヴェニアーズもまた北海岸沿いで観光客を主に演奏し、ボリスはまたリード・シンガーを担当していた。じきにバンドにおいてギターを弾くようになったボリスはその後ベーシストへと昇進した。彼の優れたギター・プレイを聴ける初期の作品は、'Memories Of Flora'、彼の作曲した'Don't Speak To Me Of Love'で、これらはプレミア・レコーズ(Premiere Records)から発売されたLP「Let's Have A Red Stripe Party」に収録されている。

1964年に複数のバンド・メンバーがカリブズ(Caribs)加入のために脱退していくと、スーヴェニアーズは解散、ボリスはカルロス・マルコム(Carlos Malcolm)のアフロ・キューバンズ(Afro Cubans)への加入を誘われた。当時アフロ・キューバンズはカルロス・マルコムのトロンボーンとパーカッションを中心に構成され、デリック・ハリオット(Derrick Harriott)がリード・シンガー、カール'キャノンボール'ブライアン(Carl 'Cannonball' Bryan)がサックス、ピアノにはトレヴァー・ロペス(Trevor Lopez)、ウィンストン・ターナー(Winston Turner)がトランペット、ドラムにはフレディ・キャンベル(Freddy Campbell)、オードリー・ウィリアムス(Audley Williams)がべース、スチール・ギターそしてピアノを担当していた。ボリスは歌うだけではなく、パーカッションの演奏、さらにはボサ・ノヴァやチャ・チャを踊っていた。後にオードリー・ウィリアムスが脱退すると、カルロス・マルコムがベースを弾き始めるもうまくいかず、ボリスに歌とダンスをゆったりやらせる替わりにまたベースを弾かせることにした。

ボリスは楽譜の読み方にも長け、その後すぐに速読も十分にたんのうするようになっていき、さらにはバンド・メンバーの全パートの楽譜を書くようになっていった。1966年、アフロ・キューバンズはバハマに渡り、その後1年間フリーポートとナッソーの間を演奏しながら行き来した。バンドは次にニュー・ヨークへ移動、その地でボリスは音楽家の収入だけではやっていけず、他の仕事もしなければならないことを悟った!その後彼はさらに北上し、トロントのClub Jamaicaで活動していたレスリー・バトラー(Leslie Butler)のハウス・バンドに加入するものの、厳しいカナダの冬はボリスには寒すぎた。彼はキングストンへ帰郷、クロス・ロードに新しくできたクラブ、The Broncoでレジデントを務めるトリオに加入した。

ブレントフォード・ロードにあるコクソン(CS Dodd)のスタジオ・ワンでセッション・ミュージシャンとして働き始めたボリスは、ジャッキー・ミットゥー(Jackie Mittoo)やフィル・キャランダー(Fil Challender)等と共にプレイし、おびただしい数の名リズムとともに基盤を築き上げていった。彼は後にクラシックとして名を残す数々の名ベース・ラインと共に、全く同じ役割をボンド・ストリートにあるデューク・リード(Duke Reid)のトレジャー・アイル(Treasure Isle)でも果たした。実際、多数のボリスのベース・ラインはレゲエ音楽においてリズム隊の語彙集として君臨する。またボリスはフリーランスとしても、ロイド'マタドール'デイリー(Lloyd 'Matador' Daley)、フェデラル・レコード(Federal Records)、ソニア・ポッティンジャー(Sonia Pottinger)のレーベル、ハイ・ノート(High Note)で、そしてデリック・ハリオットのクリスタライツ(Crystalites)の一員としても活躍した。

'Elizabethan Serenadfe'はもともとロナルド・ビンジ(Ronald Binge)により作曲され、1951年、マントヴァ二ズ・オーケストラ(Mantovani's Orchestra)によって最初に演奏された。そして18年後、ボリスは同曲のアップデート版、'Elizabethan Reggae'を編曲することになる。当初、手違いによりバイロン・リー(Byron Lee)がプロデューサーとしてクレジットされていたが、後に改訂された。'Elizabethan Reggae'はジャマイカ発で初めて国際的に成功したレコードの1枚であり、イギリスの国民的チャートの14位を記録した。そしてその春にボリスはプロモーションの為にイギリス・ツアーを行った。当時、ハリー'ハリーJ'ジョンソン(Harry Johnson)と作業を共にしていたボリスはボブ&マーシャ(Bob & Marcia)によるもう1つの初期国際的ヒット'Young Gifted and Black'のベース・ラインも手がけ、こちらは1970年3月、同イギリス国民的チャート第5位にまで登り詰めた。バイロン・リーはボリスのデビュー・アルバム「Reggae Happening」のプロデュースとリリースを手がけたが、後にボリスはブロンコス(Broncos)のセッションとライブ活動に集中するためにジャマイカに戻った。

その頃のブロンコスにはキーボードにキース・スターリン(Keith Sterling)、ギターにハックス・ブラウン(Hux Brown)が在籍しており、彼らのパフォーマンスはとても圧倒的だった。このことからCourtney Manor Hotelの支配人、ロバート・レイク・ジュ二ア(Robert Lake Junior)はバンドにBronco Clubを離れ、彼の元で働くように説得した。ブロンコスはこれを期にボリス・ガーディナー・ハプニング(The Boris Gardiner Happening)となり、パーティはもとよりホテル、託児所、さらには政治運動の場でも演奏した。ポール・ダグラス(Paul Douglas)がドラムに雇われ、ティンガ・スチュワート(Tinga Stewart)がリード・ボーカルに選出された。さらにはバイロン・リーのドラゴネアズ(The Dragonaires)、ロイド・パーク(Lloyd Park|)のウィー・ザ・ピープル(We The People)と並び、バンドは急速にジャマイカ最高のライブ・バンドとしての名声を獲得していった。ティンガは楽曲''で1974年に行われたFestival Song Contestで優勝、そしてバンドを離れていった。ボリスはそれからアール'シックスティーン'デイリー(Earl Sixteen Daley)を迎え入れ、彼をリード・シンガーの座に着かせ、彼はその後ボリス・ガーディナー・ハプニングを最近のジャマイカのトップ・チューンを「キャバレー仕様」にアレンジすることに長けた「観光客向け」のものだったと振り返った。

アストン(Aston)とカールトン(Carlton)のバレット(Barrett)兄弟は1972年にベーシストとドラマーとしてボブ・マーリー(Bob Marley)のウェイラーズ(Wailers)で演奏するためにリー・ペリー(Lee Perry)のアップセッターズ(Upsetters)を脱退していた。スクラッチ(Scratch)は直ちにこの"ダイナミック・デュオ"の代わりを探さなければならず、ボリスをアップセッターズの一員として迎え入れた。アール・シックスティーンはボリス・ガーディナーのことを、カリプソから極めて複雑なソウルまでどんなスタイルの音楽も演奏することが出来る先天的な才能を持った「当時最も素晴らしいベーシストの1人」だったと信じていた。ボリス・ガーディナーはブラック・アーク(Black Ark)において、深くダークな生々しいルーツ・レゲエのリズムの形作ったことで自身の名を知らしめた。彼のベースのパートはいつでも素晴らしいものだったが、節度がありボリス・ガーディナーによる広範囲に渡るアップセッターズのレパートリーはジュニア・マーヴィン(Junior Murvin)の'Police & Thieves'や伝統的な「Heart Of The Congos」のLPなど数え切れない名作を含んでいる。

80年代の中期、レゲエ・ミュージックはデジタルに移行しテクノロジーが主流となった。当時を体験した多くの者たちは、ボリス・ガーディナーを含む才能溢れるミュージシャンたちの時代は終わったと感じていた。それは誤解であり、よりリラックスしメローなホテルの客たちのためにボリスがボリス・ガーディナー・ハプニングとして演奏してきた多くの年月は彼の最も大きなクロスオーヴァー・ヒット'I Want To Wake Up With You'へとつながっていった。このスローでセンチメンタルなバラードは1986年7月のイギリスの国際チャートで第1位を獲得した。これに続いた'You're Everything To Me'も同じ系統の楽曲でその年の秋に第11位になった。その後のボリスによるお祭り気分なレコード'The Meaning Of Christmas'は国際チャートの上位には食い込めなかったものの、季節の定番曲となった。

自身の長いキャリアにおいてイギリスのチャートで3つの主要なヒットを経験したボリス・ガーディナーは不可解なことにいまだに表舞台に出てこない。どんな最新のヒット・メーカーたちであろうとプロのミュージシャン、またプロデューサーとしての彼の居場所は後ろ側で、彼のアレンジと音楽の演奏能力は彼らのつかの間の成功をしっかりと支える土台となった。彼の現在の多大なる貢献と定番化された永続的に安定したベース・ラインはジャマイカ音楽のサウンドを発展させていくことつながり、レゲエは何十年にも及ぶ彼の傑出した貢献抜きでは乏しいものになっていたといっても過言ではないだろう。

参考文献
Noel Hawks: Interview with Earl Sixteen London 8th January 2003
David Katz: People Funny Boy The Genius of Lee 'Scratch' Perry Payback Press 2000
2019/09/13 掲載
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