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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Aston 'Family Man' Barrett
アーティスト特集
Aston 'Family Man' Barrett(アストン’ファミリー・マン’バレット)Text by Harry Hawks
ヒッピー・ボーイズ、アグロヴェーターズそしてアップセッターズの1人として文字通り数千のジャマイカのヒット曲で演奏した伝説的なベースギタリスト、編曲家、レコード・プロデューサーであり、レーベルディフェンダーズ、FAM'Sとコブラのヒット・レコードをプロデュースした。ファミリー・マンはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの驚くべき国際的なキャリア全体における音楽の方向性を形作った必要不可欠な存在として世界的に知られている。
Aston 'Family Man' Barrett
本名 Aston Francis Barrett
出生 1946年11月22日
出身地 ジャマイカ キングストン 
関連アーティスト
1946年11月22日にキングストンのダウンタウンでアストン・フランシス・バレット(Aston Francis Barrett)として誕生したアストンはプレイボーイとして知られ、10代にも関わらず父親になったことから"ファミリー・マン(Family Man)"というあだ名が付いた...そしてその後に続く長い年月、彼はその名前以上の期待に応えた。青年の頃彼は溶接工として生計を立てていた...有名なジャマイカの婉曲法で溶接は所帯持ちの男性にとってぴったりの職業なのだという...ご存知だっただろうか!

「ああ...23人娘がいて18人息子がいるだけさ...俺は家族思いの人間なんだ。俺は41人の家族に恵まれてる。そして23人の孫がいるんだ。そして2人のひ孫もな」アストン'ファミリー・マン'バレット(Aston ‘Family Man’ Barrett)

バレットの家族は伝説的なサックス奏者であるヴァル・ベネット(Val Bennett)と同じヤードに暮らし、スカタライツ(Skatalites)は時折そこでリハーサルを行い、アストンと彼の兄弟であるカールトン(Carlton)はこのバンドの演奏に熱心に耳を傾けていた。元々、アストンはジャイヴィング・クラッカーボールズ(Jiving Crackerballs)として知られるハーモニー・グループでヴォーカル兼ピアノを担当していたが、彼はシンガーとして成功しないということをすぐに悟り、このグループでバスを担当していたことから彼はベースギターの道を選んだ。彼は溶接場でアップライト・ベースのように演奏する初めての自分専用のギターを作り、カールトンはそれに合わせ、空のペンキの缶を叩いていた。この兄弟はよくスタジオと自宅から程近いナイト・クラブに出入りし、そこで彼はスカタライツのロイド・ブリヴェット(Lloyd Brevett)やロイド・スペンス(Lloyd Spence)、クリフトン'ジャッキー'ジャクソン(Clifton 'Jackie' Jackson)ら一流ベース・プレイヤーの影響を受けた。アストンは彼らのベース・ラインを聴いては自分用に即興でアレンジしていた。

バレット兄弟が大ブレークを果たしたのはある夜、ヒッピー・ボーイズ(Hippy Boys)のリズム隊がライブに現れなかった時だった。このグループのヴォーカリストだったマックス・ロメオ(Max Romeo)は、「気が乗らなかった」が彼らはこの兄弟にその場を託し、この兄弟はそのパフォーマンスで彼らに大きな感銘を与えたその時から、ヒッピー・ボーイズのリズム隊に定着した。彼らの最初の録音は1968年、ロイド'チャーマーズ'タイレル(Lloyd Charmers)のために、ユニークス(Uniques)のバッファロー・スプリングフィールド(Buffalo Springfield)の'For What It's Worth'のカヴァーのバックを務めたときだった。この楽曲は再構築され、'Watch This Sound'と名前を変え、キングストンではウィンストン・ロウ(Winston Lawe)のレーベル、トランプ(Trump)から、イギリスではトロージャン(Trojan)からリリースされ大ヒットになった。この兄弟は当時駆け出しだったプロデューサーのリー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)とバニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)のセッションで定期的にプレイを始めた。

「ファミリー・マンが兄弟の"カーリー(Carlie)"とプレイした最初の楽曲はスリム・スミスの'Watch This Sound'だったな。彼らはオルガンを弾き始めたグレン・アダムス(Glen Adams)とギターを弾き始めたレジー(Reggie)と組んでいたんだ。ファミリー・マンとカーリーはアップセッターズ(Upsetters)とアグロヴェーターズ(Aggrovators)だったって訳さ...」

「カーリーとファミリー・マン...この兄弟はしばらくの間、俺のリズム隊のメンバーだったんだ。彼らは60年代から始めて、みんなは彼らのことを"バニー・リーと彼の間違ったコードを弾くミュージシャンたち"なんて呼んでいたよ。俺はよく、"レコードを買う奴らはコードなんて知らないんだ!"なんて言っていたよ。だが、俺らがヒットを出し始めると、みんな、彼らや当時彼らと共にプレイしていたハックス・ブラウン(Hux Brown)なんかの大物ミュージシャンを使い始めたんだよ」バニー'ストライカー'リー

アルヴァ'レジー'ルイス(Alva 'Reggie' Lewis)をギター、ロイド'チャーマーズ'タイレルとグレン'カポ'アダムス(Glen 'Capo' Adams)をキーボード、カールトン'カーリー'バレットをドラム、アストン'ファミリー・マン'バレットをベースに擁したヒッピー・ボーイズは新しいレゲエのリズムの自他共に認める達人になった。彼らは時折ヒッピー・ボーイズ、時折アグロヴェーターズ、時折アップセッターズとして数え切れないヒットのバックを務めてきたが、クレジットされないこともしばしばあった。彼らはまた'Dr No Go'や'Reggae Pressure'など自身のインストゥルメンタル楽曲のヒットを多くソニア・ポッティンジャー(Sonia Pottinger)のレーベル、ハイ・ノート(High Note)に残している。彼らがハイ・ノートに残したアルバム「Reggae With The Hippy Boys」はジャマイカとイギリスで大いに売れ、現在非常に高価な、また非常に高い評価を受けるコレクターズ・アイテムになっている。

1970年初頭、バレット兄弟はジェームス・ブラウン(James Brown)が1968年にキング(King)からリリースした'Say It Loud I'm Black'のリメイク、セルフ・プロデュース作品'Black Progress'のバックとしてボブ・マーリー(Bob Marley)に起用された..."俺たちは自分たちのために物事を行う権利を要求する(we demand the right to do things for ourselves"というリリックのこの楽曲は元々ゴムのスタンプでパワー・レコーズ(Power Records)と押されたブランク盤でリリースされていた。そして同年の夏、ウェイラーズ(Wailers)、ボブ・マーリー、バニー・リヴィングストン(Bunny Wailer Livingston)、ピーター・トッシュ(Peter Tosh)は一連のレコーディングでリー'スクラッチ'ペリーと活動を始め、このレコーディングは結果的にジャマイカ音楽を未知の領域へといざなって行くのだった。 'Duppy Conqueror'、'Small Axe'、'Man to Man'、'Soul Rebel'などのレコードにおけるリズムの基礎は偏在するバレット兄弟を擁したスクラッチのアップセッターズによるもので、彼らはこの音楽をより発展させた。スクラッチは"黒人であること"とウェイラーズの楽曲の生々しさを強調することでこの全く新しいサウンドを作り上げ、バニー・リヴィングストンはウェイラーズの国際的なブレークにアップセッターズがどれほど重要だったかを後年思い返した。

「よし...教えてやろう。ファミリー・マン、カーリー・バレット、レジー、グレン・アダムスがアップセッターズだった。この兄弟と音楽をやり始めた時から本物の国際的な評価を受け始めたのだ」バニー'ウェイラー'リヴィングストン

1971年、ウェイラーズは辛らつにスクラッチと袂を分け、アストンとカールトン・バレットも脱退し、"ウェイラーズ・バンド(Wailers Band)"の中核のメンバーになった。

「俺たちのミュージシャンたちは自分たちのベストを尽くしていいものを作ろうとしていた。そして納得のいくものを作り上げたんだ!彼らはウェイラーズ・バンドになり、それからロビー・シェイクスピア(Robbie Shakespeare)が参加し、ボブのためにプレイし始めた。ロビーはファミリー・マンの生徒の1人だったんだよ、知ってるかい...」バニー'ストライカー'リー

1972年の暮れ、ロンドンのアイランド・レコーズ(Island Records)のクリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズにジャマイカでアルバムを録音させるために4,000ポンドの前金を支払った。アルバムのレコーディング用に充てるために前金を支払うのは音楽ビジネスのやり方では基本的なものだが、ジャマイカ人グループに対するこれほどの委託金と資金的な約束は前代未聞だった。ウェイラーズはその委託金を「Catch A Fire」のテープをアイランドに"届ける"ことで返済し、アイランドのこのアルバムに対するマーケティング戦略は見事だった。イギリスにおいてレゲエはほんの少しのポジティブな評価しか受けていなかったが、クリス・ブラックウェルは、ウェイラーズとレゲエを"真の"アンダーグラウンドであり、真剣なまでの反逆の音楽であるという謳い文句でレコード購入者、特に当時影響力を持っていた学生の観衆たちに訴えかけたのだ。そしてそれが成功した!ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズはUKロック報道陣たちの人気者になり、雑誌、インタビュー、写真は全ての音楽紙にフィーチャーされ、"プログレッシブ"ミュージックの拠点だったBBCのテレビ番組The Old Grey Whistle Testでこのグループは'Concrete Jungle'と'Stir It Up'の素晴らしいパフォーマンスを披露した。

「ブラックウェルは賢く、トラフィック(Traffic)、キャット・スティーヴンス(Cat Stevens)、フェアポート・コンヴェンション(Fairport Convention)など他とは一線を画したアーティストたちで成功を収めた方法でウェイラーズを売り込んだ...メインストリームのロック・ミュージックとは異なったものとして...そしてボブは通な大学生にどんぴしゃりな人物だった」イアン・マッキャン(Ian MaCann)

オリジナルのウェイラーズはピーターとバニーがこのグループを脱退した1975年1月に公式に"解散"した。ボブ彼は自身の新しいバッキング・シンガーとしてマーシャ・グリフィス(Marcia Griffiths)、妻であるリタ・マーリー(Rita Marley)、ジュディ・モワット(Judy Mowatt)からなるIスリーズ(I Threes)を募り、またファミリー・マン、カーリーとアール'ワイヤー'リンド(Earl 'Wire' Lindo)をキーボードに加え、彼らはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ(Bob Marley & The Wailers)として知られるようになった。このグループは同年の夏に'Trench Town Rock'で2つの凱旋的なロンドンのコンサートを開始、アイランドはクリスマス・シーズンに「Live At The Lyceum」のアルバムをリリースした。リュケイオンのコンサートでのスローで激しく沸き返る'No Woman No Cry'の演出はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズにとって極めて重要な、待ち焦がれた国際的なヒット・シングルを与え、またキングストンのゲットーのサウンドとレゲエ・ミュージックの力を更に広い世界にもたらした。70年代の残り、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズはひたすら、また絶えず活動し、彼らの音楽とメッセージは前進、上昇し、更なる深み、また更なる領域に達した。1980年4月ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズは今日伝説になっている、現在のハラレ、ソールスベリーで行われたZimbabwe Independence Day Concertで、また6月には100,000人のファンたち、このグループ史上最も多くのオーディエンスを集めたミランのSan Siroスタジアムでプレイした。

しかしファミリー・マンはこの時期にどうやってか、時間を見つけて最高級のレコード・セレクションをプロデュースした。この中にはアストン・バレットのレーベル、ディフェンダーズ(Defenders)からのただ1つのリリースになったヴィヴィアン'ヤビー・ユー'ジャクソン(Vivian 'Yabby U' Jackson)による真の名曲'Love Thy Neighbors'、FAM’Sからナイヤビンギを中和させた'Distant Drums'、コブラ(Cobra)から猛烈なインストゥルメンタル'Eastern Memphis'、タフ・ゴング(Tuff Gong)から'Work'と'Guided Missile'、FAM'Sから両A面で、'Trouble On The Road Again'から'Trouble Dub'、さらに'Feel Alright'から'Dub Feeling'へと変身したウェイラーズのWail N Soul M作品の素晴らしい2枚のリミックスなどがある。ファミリー・マンは決して多産なプロデューサーではなかったが、大きくはないが、完璧に構成されたカタログはミュージシャンとしての彼の活動と同等にどの点をとっても重要である。

1981年5月11日、がんによるボブ・マーリーの早すぎる死と、1987年4月17日のカールトン・バレットの殺害の後、ファミリー・マンは強く、屈することは無かった。ウェイラーズ・バンドはラインナップに幾度も変化はあったものの、活動を続け、ファミリー・マンは今、このグループでボブ・マーリーと共演した、ただ1人のメンバーになった。マーリー一家との有名な訴訟事件やアイランド・レコーズの支払われていないとされるローヤリティーの問題を抱えているにも関わらず彼は現在もウェイラーズ・バンドを引き連れて世界を回っている。彼は「ビジネスにおいては本来与えられるべきものは得られない...交渉したものだけだ」と皮肉っぽくコメントし、ファミリー・マンは「レゲエ・ミュージックを通してボブ・マーリーの魂を生かし続けて」いる。2014年夏、ウェイラーズ・バンドはツアーを行い、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのコンピレーション・アルバム「Legend」の全曲を披露している。「Legend」の世界的な売り上げは30年前にリリースされてから、およそ2,400から2,500万枚を売り上げている...

「俺はただ音楽をプレイするだけだ...そして音楽を作り続ける。俺はレゲエの創造者の1人なのさ」アストン'ファミリー・マン'バレット

参考文献:
Naoki Ienaga: Interview with Bunny 'Wailer' Livingston Kingston, Jamaica 19th October 2012
Noel Hawks & Jah Floyd: Reggae Going International 1967 to 1976 The Bunny Striker Lee Story Jamaican ecordings Publishing 2012
David Katz: People Funny Boy The Genius Of Lee 'Scratch' Perry Payback Press 2000
Ian McCann: The Complete Guide To The Music Of Bob Marley Omnibus Press 1994
Timothy White: Catch A Fire The Life Of Bob Marley Elm Tree Books 1983
2016/11/30 掲載
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