Youth Promotion(ユース・プロモーション)Text by Dub Store Sound Inc.
ゲットーの不遇な環境に苦しんでいる若者達に活躍の場を与える目的で設立されたプロダクション。
Youth Promotion
設立 |
1979年 |
設立地 |
ジャマイカ キングストン |
主要スタジオ |
Cahnnel One Studio Youth Promotion Studio |
設立者 |
Sugar Minott |
プロデューサー |
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エンジニア |
Barnabas Peter Chemist Scientist Soljie |
関連アーティスト |
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関連レーベル |
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オーナーであるシュガー・マイノット(Sugar Minott)は、5年間活動したスタジオ・ワン(Studio One)を離れ、ゲットーの不遇な環境に苦しんでいる若者たちに活躍の場を与える目的でブラック・ルーツ(Black Roots)とユース・プロモーション(Youth Promotion)という2つのレーベルを設立し、同時にサウンドシステムの運営も開始した。
若手の育成と同時に自身の曲も積極的に制作していったシュガーの同レーベル初のアルバム、「Black Roots」や、「Ghetto Ology」は国際的なヒット・アルバムになり、彼の長いキャリアの中でも代表作に挙げられる程の完成度を誇った。また、80年の血塗られた選挙の煽りを受けて一時的にユース・プロプロモーションの活動の場をイギリスに移したシュガーはラヴァーズ・ロックに傾倒し、イギリスで絶大な人気を誇った。81年の帰国後からは他のアーティストのプロデュースに力を入れるようになり、ジュニア・リード(Junior Reid)とテナー・ソウ(Tenor Saw)を筆頭に、ニッティ・グリッティ(Nitty Gritty)、バリー・ブラウン(Barry Brown)、トリスタン・パーマー(Triston Palmer)、リトル・ジョン(Little John)、マイケル・パーマー(Michael Palmer)、ヤミ・ボロ(Yami Bolo)といったアーティストがシュガーの下で活躍した。中でもジュニア・リードの'Original Foreign Mind'やテナー・ソウの'Lots Of Sign'、バリー・ブラウンの 'Im Not So Lucky'は大ヒットを記録し、ユース・プロモーションのサウンドシステムはジャミーズ(Jammys)、ブラック・スコーピオ(Black Scorpio)、キラマンジャロ(Killamanjaro)と並ぶ人気サウンドシステムとなった。
"Sleng Teng"革命が起きた85年以降も様々なアーティストを手掛けたシュガーはゲットーの若者たちから絶大な支持を受け、上記のアーティスト達以外にもトニー・レベル(Tony Rebel)や当時駆け出しのDJとして活動していたガーネット・シルク(Garnett Silk)といった後にジャマイカを代表する歌い手となる若者たちに活動の場を提供した彼とユース・プロモーションの功績は計りしれないものがある。
2007/07/25 掲載 (2014/04/21 更新)