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トップ特集・オリジナルコンテンツレーベル名鑑Beverleys
レーベル特集
Beverleys(ビヴァリーズ)Text by Harry Hawks
1962年から1971年までの間ビヴァリーズ・レコーズはキングトンの音楽シーンを引率したレーベルの一つであり、レスリー・コングはジャマイカ産の音楽を世界的なステージへと紹介した最初のレコード・プロデューサーたちの一人だった。
Beverleys
設立 1961年
設立地 ジャマイカ キングストン 
設立者
Leslie Kong
プロデューサー
関連アーティスト
関連レーベル
「彼はスカの時代から第一線にいて60年代と70年代、チャートにランクインする音楽を多く作ったが、若者達は本当のビヴァリーズ(Beverleys)を知らない」バニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)

シャッフルとブギーから、スカを通り、ロックステディそしてアーリー・レゲエに至るまでレスリー・コング(Leslie Kong)のビヴァリーズ・レコーズは60年代のほぼ10年間を通しジャマイカ音楽において確固たる力を持っていたが、中国系ジャマイカ人のレスリー・コングはレゲエの発展においての先駆者としての役割を担ったとしてのそれ相応の敬意と栄誉を稀にしか受け取っていない。

「今までに一番国際的にヒットした曲を作っていたのはビヴァリーズだって知っているか?俺には何で彼がそれに対する評価を受けていないのか分からない。彼はまだ褒め称えられていない...」バニー'ストライカー'リー

コングはファッツ(Fats)、セシル(Cecil)、「カトリックの司祭だった」もう一人の兄弟、そして1933年に生まれたレスリーの4人兄弟で、セシルとロイド(Lloyd)と共にレスリーはキングストンのオレンジ・ストリートの135A番地でビヴァリーズ・レコード・ショップとアイス・クリーム・パーラーを営んでいた。1961年若きジェームス・チェンバーズ(James Chambers)は'Dearest Beverley'という曲を書き、オレンジ・ストリートへ行きレスリー・コングに歌ってみせた。彼はこの若者の歌と明らかなタレント性に感動し、「グリーンウィッチ・ファームのブリセット・ハウスという場所を借り、そこで彼らはリハーサルを行い」、彼はジェームス・チェンバーズをジミー・クリフ(Jimmy Cliff)と名付けレコーディング・スタジオへと連れて行った。'Dearest Beverley'と'Hurricane Hattie'はキングストンではビヴァリーズ、ロンドンではアイランド(Island)から1962年に続けてリリースされ、レコードは大ヒットを記録した。ジミーとレスリーは続けて活動を共にし'King Of Kings'、'Miss Jamaica'、'One Eyed Jacks'などを含む数曲もの非常に成功を収めたヒット曲を生み出した。同年の暮れレスリーはデスモンド・デッカー(Desmond Dekker)として知られるデスモンド・ダクレス(Desmond Dacres)の'Honor Your Mother And Father'、'King Of Ska'等のヒット曲、'Judge Not'と'One Cup Of Coffee'の2枚のシングルをビヴァリーズからリリースした1人の若者、オレンジ・ストリートの135A番地にロバート(またはボブ)マーリー(Bob Marley)としてやってきたボビー・マーテル(Bobby Martel)を録音し始めた...

デリック・モーガン(Derrick Morgan)がビヴァリーズで活動を始めたとき、以前の雇い主だったプリンス・バスター(Prince Buster)から怒りを買ってしまい、バスターはデリックの裏切りを単刀直入に歌った痛烈な'Black Head Chineman'を録音した。

「お前はチャイナ・マンか?それともお前はブラック・マンか?お前の肌の色はサングラスをかけなくても黒だと分かる...」Black Head Chinaman/プリンス・バスター

「プリンス・バスターと私は私がビヴァリーズのために彼の元を去るまで良い友だったが、1962年の'Forward March'の後、彼は'Black Head Chinaman'という私についての曲を書いた」デリック・モーガン

デリック・モーガン中国語で"静かにしろ。俺がお前より優れていることを知るがいい"と曲を紹介し歌い始める'Blazing Fire'でバスターに応戦し、くじけることなく、才能豊かなデリックはビヴァリーズのために歌い続けただけでなく、レスリー・コングのためのチーフ・スカウトと共同プロデューサーとなった。

「彼に会いに行くと、彼はピアノを弾き、歌を聴いているんだ。そして彼が気に入るとスタジオに連れて行きレコーディングをするって訳だ。これが歌を歌っていないときのデリックの仕事だ...デリックがビヴァリーズを支えていた男だ。デリックが曲をプロデュースしていたと言っていいだろう、なぜなら彼こそがプロデューサーだったからだ...彼とレスリー・コングが曲を作っていたがレスリー・コングはコントロール・ルームに座り、気に入らなければそれを伝えるというだけだったんだ!」バニー'ストライカー'リー

ビヴァリーズ・レコーズの60年代を通しての国内外での成功は驚異的なものの何でもなかった。デスモンド・デッカー&ザ・エーシズ(Desmond Dekker & The Aces)の'007'は1967年7月にはイギリスのトップ20の14位まで上り詰めた。それは高貴な国際的な高みに到達した最初のジャマイカ産のレコードだったが、これは始まりに過ぎなかった。抜け目のないビジネスマンは常に全体像を見ているようにレスリー・コングはイギリスのアイランドでリリースするため、はじめにクリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)と自身のライセンス契約を結んでいた。1967年、彼はロンドンでグレラム・グッダルと共にレーベル、ピラミッド(Pyramid)を設立しビヴァリーズの音源をリリースし、その2年後彼は当時イギリスを引率するレゲエ・レーベルだったトロージャン(Trojan)レコーズと活動を始めた。

それと同時期のキングストン、ビヴァリーズ・レコーズはめったにジャマイカのチャートから漏れることはなかった。1968年、デスモンド・デッカー&ザ・エーシズは'Intensified Festival '68'でフェスティバル・ソング・コンテストに優勝し、その翌年トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ(Toots & The Maytals)が'Sweet & Dandy'で優勝、デスモンド・デッカー&ザ・エーシズの'(Poor Me) Israelites'は新しいレゲエのリズムの推進と共に1969年4月のイギリスでナンバー・ワンを獲得し、このレコードはそれからアメリカのチャートの上位にランクインした。これらはジャマイカ音楽にとって重大な躍進だった。イギリスのジャマイカ人コミュニティのみでヒットしていた'It Mek'は1969年6月のイギリスの国際チャートで第7位まで上り詰めた。そしてヒット曲はその後も続いていった...

「デリック・モーガン、ジミー・クリフ、デスモンド・デッカーはビヴァリーズのビジネスの中核だった。それからケン・ブース、BBシートン&ザ・ゲイラッズ(BB Seaton & The Gaylads)メロディアンズ(Melodians)の'Rivers Of Babylon'と'Sweet Sensation'、パイオニアーズ(Pioneers)の'Long Shot Kick The/De Bucket'なんかもだ...要するに何でもだ!」バニー'ストライカー'リー

パイオニアーズの'Long Shot Kick The/De Bucket'、ジミー・クリフの'Beautiful World, Wonderful People'、メロディアンズの'Rivers Of Babylon'と'Sweet Sensation'、メイタルズの'Monkey Man'は全てイギリスのチャートにランクインした。ゲイラッズの'There's A Fire'、ブルース・ラフィン(Bruce Ruffin)の'Dry Up Your Tears'、ケン・ブース(Ken Boothe)の'Freedom Street'はレゲエ市場では人気だったが不可解なことにチャートに入らなかったが、ハックス・ブラウン(Hux Brown)のダイナミックな猛烈なギターに代表されるビヴァリーズの迫力あるサウンドはクロスオーヴァー・レゲエですぐに認識されるサウンドになった。

レスリー・コングの音楽の人気は全て浸透性と説得力があり、1970年にはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ(Bob Marley & The Wailers)がビヴァリーズで録音を始め、'Soon Come'、'Soul Shakedown Party'、素晴らしい'Caution'を含むシングルの一連と共に国際的にブレイクを狙った。レスリー・コングの「The Best Of The Wailers」というタイトルのアルバム・リリースの決断が、このグループとの激しい衝突へと導いてしまった。バニー・リヴィングストン(Bunny Wailer)はウェイラーズの"ベスト"はこれからで"Best Of"とはアーティストが死んでからリリースされるものだとしてこのタイトルは使われるべきではないと主張した。度重なる予言で、バニーはもしレスリー・コングがこのアルバムをリリースしたら彼は死ぬと宣言したが、レスリー・コングは既に手遅れであることを彼に伝え、アルバムはリリースの準備が出来ていた。レスリー・コングは1971年の8月9日、突然襲われた心臓発作によりこの世を去った。

「彼は早くに亡くなり、彼の兄弟であるセシルがレーベルを継いだが彼には興味が無かった。レスリーには息子がいたが、彼もまた興味が無かった。ワーウィック・リン(Warwick Lyn)は彼と共に働いていたが、レスが無くなってからダイナミック・サウンズで働くようになった...」バニー'ストライカー'リー

レスリー・コングは国際市場に有意義のある食い込みを果たした人物の1人だが、彼のプロ意識の高い音楽の価値は、彼の予期しない死後、人気を保てなかった。60年代の初めから終わりまで、また70年代初期に最も定期的に成功を収めたプロデューサーの1人だった彼のスターを見つける的確な才能、彼の知性、1度はキングストンの音楽階層において特に上位のポジションを保証されたプロダクションの無比の才能と共にトップクラスのヴォーカリストとセッション・ミュージシャンの雇用を啓発したということは40年という時間の中で忘れられてしまっているように見える。レスリー・コングがなぜジャマイカ音楽史の絵の中から消されてしまったのか理解し難い。彼の作品が"時代遅れ"と考えられているか、彼の洗練され完璧なプロダクションのテクニックがジャマイカン・ミュージックの知覚的なイメージになったものと一致しないのと関係があるのかもしれない。

ビヴァリーズ・レコーズは最近のリヴァイバルやリイシュー・レーベルなどでもリリースが特別多いわけでもない。今までにリリースされているコンピレーションは彼の他のプロダクションを犠牲にし、もっとも成功した2人のアーティスト、デスモンド・デッカーとメイタルズに集中している傾向がある。長く記憶に留まり、スタイルとファッションの気まぐれをものともせず、ジャマイカの"多くの部族から1つの国民に"という格言のあかしとしてどうどうと立っている彼の作品が的確にコンパイルされたシリーズと考慮深く注解が付いたコレクションが必要である。しかしそれは早急に、より幅広くでなければならない。
2012/09/13 掲載 (2014/04/15 更新)
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