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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Prince Jammy
アーティスト特集
Prince Jammy(プリンス・ジャミー)Text by Harry Hawks
「タビーのところにジャミーという名前の新しいエンジニアがいるんだ。やつはヤバイよ!」
Prince Jammy
本名 Lloyd James
出生 1947年10月26日
出身地 ジャマイカ モンテゴ・ベイ ウォーターハウス
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本名ロイド・ジェームス(Lloyd James)は1947年10月26日、ジャマイカに北海岸に位置する町モンテゴ・ベイに生まれた。そして1956年、キングストン、ウォーターハウス地区のドロミリー・アベニューへと両親が自宅を構えたことから移り住んだ。

「俺が学校を卒業したときに母親が俺の為に仕事を探してくると言ったんだ。そして彼女が街に出てチンズ・ラジオ・サービス(Chin's Radio Service)を訪ねると、彼らは'分かった...俺を見習いにしてあげよう'と言ったんだ。俺はその前からタビーのところに出入りしていたから少しの経験はあったんだけど」ロイド・ジェームス

伝説のアイヴァン・チン(Ivan Chin)はチンズ・ラジオ・サービスのオーナーだっただけでなく、自身のレーベル、チンズ(Chin’s)からジャマイカにおける最初の録音であるメント・ミュージックのリリースを行なった先駆的なレコード・プロデューサーの1人である。チャーチ・ストリートに構えられたチンの作業場と設備はロイドにとって彼が一生向き合うことになる電気、音楽、サウンドシステムへの情熱を追求する手助けとなった。ロイドは空き時間の多くを親友だったオズボーン'キング・タビー'ラドック(Osbourne 'King Tubby' Ruddock)の自宅があったドロミリー・アベニューの18番地で過ごした。ロイドが'ジャミー(Jammy)'というニックネームをキング・タビーの兄から付けられたのもこの頃のことだ。そして、バニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)に'プリンス・ジャミー(Prince Jammy)'と威厳ある肩書きを付けられた。

ジャミーが最初のサウンドシステムを構築したのは1962年のこと。2つのスピーカー・ボックスからなる基本的なセットで、彼は地元のパーティーや結婚式でプレイをした。その活動も徐々に大きくなりリジー(Lizzy)とカーリー(Carly)という名のディージェイを雇い、彼らは定期的にチョコモ・ローンやリーディ・ローンといった場所でプレイし、ジャミーのサウンドはしばしキング・タビーズ・ホーム・タウン・ハイ・ファイ(King Tubby's Home Town Hi-Fi)とクラッシュを行うようになった。

60年代も終わりに近づくと、タビーはダブを制作するためにカッティング・マシーンと2トラックの録音機器をドロミリー・アベニュー18番地の自宅の寝室に導入。ジャミーはタビーのもとで働くためにチンズを辞めることに。彼の電気に関する知識とキングストン音楽界の権力層はタビーを音楽シーンの最前線に飛躍させる助けとなっただけでなく、タビーがエワート'Uロイ'ベックフォード(Ewart 'U Roy' Beckford)をホーム・タウン・ハイ・ファイに誘ったのもジャミーの援助があったからだ。

ジャミーの彼女だったアイリス(Iris*現在の妻)が彼女の母親と生活をともにするためにトロントへと移住すると、1970年にジャミーも短期間を過ごすつもりでカナダへと旅立った。彼はキングストンを離れる際、タビーに"2週間"で戻ってくると伝えたがジャミーはトロントに定住することになった。

ジャミーは兄弟に彼のアンプをカナダへと送るように頼みそのアンプを他のサウンドシステムを制作するために使った。また、彼はジョージ・ブラウン・テクニカル・カレッジで電気について学び、レイクショア・ブールバールの自宅地下にレコーディング・スタジオを設置し、初めての作品であるナナ・マクリーン(Nana McLean)の'Single Girl'を録音。さらに、ジャミーは訪ねてくるデニス・ブラウン(Dennis Brown)、エロール・ダンクリー(Errol Dunkley)、スコッティー(Scotty)、デルロイ・ウィルソン(Delroy Wilson)などといったジャマイ人アーティストたちがレコードのヴァーションで歌う'デモ'の録音を開始したのだった。

1972年、キング・タビーはドロミリー・アベニュー18番地にある自宅の4トラックのミキシング・スタジオを設備。'ダブの発明家'としてその評価を確立していった。彼の専属エンジニアだったフィリップ・スマート(Phillip Smart)が1975年の初頭にニューヨークへ移住すると、ジャミーがチンズ・ラジオ・サービスの同僚だったパット・ケリー(Pat Kelly*多くのソロ作品やテクニクス:Techniquesでの活動でよく知られる)が一時的にその役割を担った。タビーはジャミーに手紙を書き、キングストンに戻ってくるようにと尋ねるも当時彼はトロントでの生活を心地よく感じていた。この年の末にジャミーは"1、2週間"滞在するためにジャマイカへと戻った。

「俺は帰ってきて、母親と兄弟たちに会って、タビーの建てたスタジオを見たんだ。そして俺はこれこそ俺は望んでいたすべてだと気が付いた」ロイド・ジェームス

ジャミーがカナダに戻ることはなかった。彼はタビーのもとでエンジニアとしての役割を果たし、スタジオでの仕事に集中した。また、タビーはジャミーが自身のアイディンティーを確立することを許した。彼の最初のセッションはタビーの常連だったバニー'ストライカー'リーとのものだった。

「コーネル・キャンベル(Cornell Campbell)だったと思うな...当時の素晴らしいアーティストさ。バニー・リーはヤバいリズムを持ってた。フライング・シンバルに、ワンドロップに、ホーン...俺はホーンとハーモニーが好きだったな。彼はすごいヴァイブスを持った男だった...いつだって勢いのあるパワーをくれる。俺はストライカー・リーのそんなパワーでスタートしたんだ...彼は誰でも驚きに仕上げてしまうんだ...彼は素晴らしい革新者さ。俺が初めてミックスしたダブもバニー・リーだった...俺のスタイルが確立されるまでそう長くはかからなかった。自然だったんだ...俺は本を読んで自分自身に教え、エンジニアリングのコースを取り始めた。ヨーロッパやアメリカからたくさんの本を買って、当時はよく読んだ。そうして俺はある特定のテクニックを生み出した。俺がやっているほとんどが自然だったんだ」ロイド・ジェームス

そうしてジャミーはドロミリー・アベニューのスタジオで重要な役割を担うようになった。声の録音、編曲、ミキシング、ダブを制作するためのカッティング・マシーンの操作である。ジャミーが初めてキングストンで手掛けたのはウォーターハウスに住むマイケル・ローズ(Michael Rose)で、'Prayer To Jah'として知られるヴィヴィアン'ヤビー・ユー'ジャクソン(Vivian "Yabby U" Jackson)の'Prayer To Jah' リズムにのせた新曲'Born Free'を録音、ロンドンの偉大なるファットマン(Fatman)の傘下レーベル、ボス(Boss)から"プレ・リリース"としてリリースされた。この成功に後押しされたジャミーはリズムの制作を始め、彼のレーベル、ジャミーズ(Jammys)からジョー・ギブス(Joe Gibbs)のスタジオでヤビー・ユーと永遠の人気リズム'Shank I Sheck'をアップ・デート制作した'Zambia'をデビュー作としてリリースした。

ジャミーは1977年に2つのアルバム・プロジェクトに乗り出した。一つがザ・トラベラーズ(The Travellers)で、もう一つはマイケル・ローズがリード・ボーカルを務めたブラック・ユフル(Black Uhuru)だ。両グループとも地元で活動していたハーモニー・グループが集り自然と活動がスタートした。ブラック・ウフルのデビューLPとなった「Love Crisis」はジャマイカでジャミーズからリリースされ、イギリスではサード・ワールド(Third World)からリリースされた。この作品はジャミーにとって初のLPリリースだったことでも知られる。ザ・トラベラーズの「Black Black Minds」はロンドンのパラダイス(Paradise)から希少プレスで発売され、一握りのレコーディングを行なうも、彼らは音楽ビジネスから去って行った。その一方、ブラック・ユフルは国際的な現象を巻き起こすまでに飛躍したのだった。

「ブラック・ユフルとのこれら楽曲一連は、本当の意味で俺にとって初めての楽曲集なんだ...」ロイド・ジェームス

タビーが新しい見習いとしてトラベラーズのホープトン・オヴァートン'サイエンティスト'ブラウン(Overton 'Scientist' Browne)を迎え入れたことは、タビーのもとでのエンジニア業から身を引くこと、そして自身の音楽制作に没頭させることを可能にした。1982年頃、母親宅の一室に簡単にでも編集が出きるようにと2トラック・テープの機材を設置、その後新たに4トラック・テープのレコーダーを録音とミックスために購入した。この頃、ジュニア・デルゲイド(Junior Delgado)、シュガー・マイノット(Sugar Minott)、ヒュー・マンデル(Hugh Mundell)、ジョニー・オズボーン(Johnny Osbourne)といったアーティストたちの上質なルーツのレコードを製作した。しかし、1985年にウェイン・スミス(Wayne Smith)の'Under Mi Sleng Teng'をリリースしてからというもの彼に前進以外はなかった。ジャミーはコンピューター・テクノロジーを基にしたレゲエの発展において重要な人物になり、レゲエ・ミュージックの形式ならびに内容に決定的な革新をもたらした。



2018/05/02 掲載
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