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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑King Tubby
アーティスト特集
King Tubby(キング・タビー)Text by Harry Hawks
別称ザ・ダブ・インヴェンターは1950年以降の音楽制作過程に変革をもたらしただけでなく、音楽の聞き方や価値観までも変えた人物である。
King Tubby
本名 Osbourne Ruddock
出生 1941年1月28日
死没 1989年2月6日
出身地 ジャマイカ キングストン 
関連アーティスト
オズボーン'キング・タビー'ラドック(Osbourne 'King Tubby' Ruddock)は1941年1月28日キングストンに生まれ、ダウンタウンのハイ・ホルボーン・ストリートで育った。カラバー小学校を卒業後、キングストンのナショナル・テクニカル・カレッジで電気について学んだ。高校を離れると母親宅の裏庭にあった納屋でラジオやその他の電子機器、変圧器の修理を始め、さらにはアローズ(Arrows)、エンペラー・フェイス(Emperor Faith)、エル・ターロ(El Toro)といったキングストンのサウンドシステムのためにアンプを製作するようになった。

タビーは1957年に初めて自身のサウンドシステムを製作。地元の結婚式や誕生日パーティーでアメリカのジャズやリズム・アンド・ブルースをプレイすることで、音楽と電気に詳しい彼の評判は広まっていった。60年代後期になると2トラックの録音機材を購入し、ドロミリー・アヴェニュー18番地の自宅のベッドルームに、ダブ・プレートのカッティングを行なう機材や自作のミキングボード、さらにはジャズ・アルバムのコレクションと一緒に設置。タビーはこの部屋をミュージック・ルームと呼んだが、バニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)はきちんとしたレコーディング・スタジオが必要とする機材はすべて揃っていたと認める。

他のプロデューサーのリズムを"リメイクすること"や"ヴァージョンとして使うこと"はキングストンにおける音楽競争の中で必然であり、人気曲のインストゥルメンタル楽曲や他のヴォーカル・バージョンがこの音楽シーンの一部を築いたともいえる。ヴォーカルのない"リズム"ヴァージョンに管楽器やオルガンが時折、追加されるようになったことは当然ともいえる次の発展形態だった。故意的に作られた楽曲中のスペースはディージェイたちがリズムで自由に'しゃべる'スペースを与え、彼らはオリジナル楽曲の歌詞に合わせてレスポンスするまでになった。アメリカのラジオDJのようにレコードを紹介するだけでなく、ジャマイカのディージェイたちは楽曲を通して「リズムに乗る」権限を与えられ、それは独自の"トースティング"いうスタイルへと発展。1968年タビーはエワート'U ロイ'ベックフォード(Ewart 'U Roy' Beckford)を迎え入れ、Uロイがマイクを握るタビーのホーム・タウン・ハイファイは"ヴァージョン"をプレイする流行を作り、この頃からタビーのサウンドシステムは成功し始めたと本人は思い出を語っている。

ラドルフ'ルディー'レッドウッド(Rudolph 'Ruddy' Redwood)が'You Don't Care'もしくはキング・タビーが'On The Beach'のヴォーカルを抜いて特別なミックスを制作したという話は何度もされてきた。カール・ゲイル(Carl Gayle)とのインタビューでタビーは彼がデューク・リード(Duke Reid)のためにテスト盤をカッティングしているときに"事件"が起きたと話した。当時、タビーはデューク・リードに雇われトレジャー・アイル(Treasure Isle)スタジオの機材やダブ・プレートのカッティング・マシーン、アンプのメンテナンスも行っていたが、スパニッシュ・タウン出身のラドルフ'ルディー'レッドウッドが初めてヴァージョンをプレイした男だとバニー'ストライカー'リーは断言する。

「 ルディーはダブを切っていて、スミシー(Smithyはトレジャー・アイルのエンジニアだった*Byron 'Baron/Smithy' Smith)が俺たちと話していたばっかりにヴォーカルを乗せ忘れたんだ。俺たちは彼を止めるつもりだったんだが、ルディーは'いいや、続けよう'と言った。終わったときにB面はリミックスされてヴォーカルが入っていた...俺はよくスパニッシュ・タウンのルディーとステレオ(Stereo*Seymour Williams)を訪ねていた。月曜日になって俺は'タビー、知ってるか?俺たちがデュークのスタジオでミスしたこと?とんでもないミスだよ。なんたってみんな気に入ってるんだから'と言ったんだ。スパニッシュ・タウンはマッシュアップさ!誰の楽曲だったかは覚えていないが彼らがプレイしていたのはアルトン・エリス(Alton Ellis)かジョン・ホルト(John Holt)。彼らは歌の入ったヴァージョンをプレイしては2番をプレイするんだと言ってね...当時ヴァージョンなんてなかったから...2番をプレイするとみんなは一緒にリズムに合わせて歌ったもんさ...確か5回か10回はプレイしたんじゃないかな。開場は大盛り上がり、ジャマイカ風に言うと現場をマッシュアップしたってことさ」バニー'ストライカー'リー

ジャマイカには「もし何か間違いが起きたら思い悩むな、この災難を強みに利用して何か新しいことを創造せよ。創造力を持って何か開拓することは素晴らしい発展となる」ことを意味する「どんなに駄目なこともスタイルとなりえる」という表現がある。ヴォーカルがほとんどないリズムだけのアセテート盤はまさにダブの創世期で、タビーはトレジャー・アイルから借りた2トラック・テープを使い人気リズムのインストゥルメンタル・ヴァーションを制作し始めた。ヴォーカルはほとんど削ったが、リスナーが何の歌かすぐに認識できるほどだけのヴォーカルはいつでも残した。自身の運営したホーム・タウン・ハイファイのためにもダブを制作、タビーは他のサウンドシステムにもアセテート盤のカッティングを行った。彼のミュージック・ルームに隣接された風呂に卵の箱を貼り付け、声の録音を行なうブースを設けると彼の評判はさらに広まった。そしてアセテート盤で行っていたこの実験がレコード盤となるのは時間の問題だった。

ジャマイカ音楽史においてリズムの重要性はどう強調して説明しても大げさだということはありえない。タビーはダブとして知られるようになる音楽の発展に貢献した第一人者だった。録音用語ではダブとはこれまで、コピー、ダビング、録音の上に音を重ねることを意味した。しかし、レコードの購入者が、ヴォーカルと楽器演奏のほとんどが削られ、基礎となるベースとドラムを残した新しいダブという音楽の意味を見出すまでに時間はかからなかった。

ダイナミック・サウンズ(Dynamic Sounds)のバイロン・リー(Byron Lee)が1972年、16トラックのレコーディング・スタジオへと新設すると、タビーはダイナミックのスタジオBにあった4トラックの機材を購入。その機材にはタビーを世界への舞台へと飛躍させたミキシングボード、MCIコンソールも含まれていた。また、このミキシング・ボードにはダイナミックのエンジニアだったリンフォード'アンディ・キャップ'アンダーソン(Lynford 'Andy Capp' Anderson)がすでにダブを実験的に試していたという歴史も刻まれていた。

1975年秋、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ(Bob Marley & The Wailers)が公演をおこなったキングストンのナショナル・アリーナでプレイをしてからジャマイカのサウンドシステムとしてタビーのホーム・タウン・ハイファイの評判は最高のものとなった。これまでに幾度なく警察からの襲撃があったが同年の末、セント・トーマスの郊外で開催されたダンスを再び襲撃されサウンドシステムは破壊され、タビーのホーム・タウン・ハイファイが二度とプレイすることはなくなるも、キング・タビーは'ザ・ダブ・インヴェンター(The Dub Inventor*ダブの発明者)'として、国際的に驚くべき現象として認知される音楽をウォーターハウスのスタジオから生み出していった。音楽愛好家なら最初にダブの収録されているB面を再生するようにレコード店の店員に訪ねるだろう。なぜならダブこそが存在しえる最も刺激的な音楽だからである。

何百ともいうレコードがタビーのウォーターハウス・スタジオで録音・ミックスされたが、最盛期でもキング・タビーが実際にレコードのプロデュースを行うことはなかった。キングストンのレコーディング産業もそんな彼のスタンスを理解するようになり、彼が自分のレコード・レーベルを持つこともなかった。プリンス・ジャミー(Prince Jammy)、フィリップ・スマート(Phillip Smart)、パット・ケリー(Pat Kelly)といったほかのエンジニアたちがタビー同様にミキシング・ボードのコントロールを担った。

1975年、アイランド・レコーズ(Island)はオーガスタス・パブロ(Augustus Pablo)の'Cassava Piece'をヴァージョン化したジェイコブ・ミラー(Jacob Miller)の'Baby I Love You So'をイギリスでリリース。もともと、B面だった'King Tubbys Meets Rockers Uptown'をA面に変更にして大々的なプロモーションを行ったほどだった。そうしてやっとだが、ダブという音楽が到来、その重大さや遅ればせながらもダブの「意味」を説明するような記事がメインストリームの音楽雑誌などで見られるようになった。

プリンス・ジャミーがミキシングボードをコントロールするようになりスタジオが新たな時期を迎えると、タビーはエンジニア業やダブのカッティングといった仕事から身を引き、もっと利益になる電気関係のビジネスに集中するようになった。スタジオの予約はこれまで以上になった。70年代も終わりに近づくと、タビーはラジオ・ディージェイのマイケル'マイキー・ドレッド'キャンベル(Michael 'Mikey Dread' Campbell)と彼の革新的なラジオ番組「Dread At The Controls」で定期的に活動を行った。マイキーが自身のレーベル、ドレッド・アット・ザ・コントロールス(*ラジオ番組と同名)でプロデュースを開始した際もタビーは制作を一緒に行ない、DATC(*ドレッド・アット・ザ・コントロールス)やフォーティ・レッグ(Forty Leg)からリリースされた'Parrot Jungle'、'African Anthem'、'Robber's Roost'はタビーのエンジニアとしての技術が凝縮された最後の録音となった。

ブレントフォード・ロードのスタジオ・ワン(Studio One)はレゲエの崇高な発祥地として適切に評価され、その一方でオズボーン'キング・タビー'ラドックのドロミリー・アヴェニューに構えられたスタジオは永遠にダブの発祥地として知られ続けられる。まさに、キング・タビーがミキシングボードをその手で楽器に変えた場所である。その音楽、ダブ・ミュージックが同じサウンドを奏でることは二度とないだろう...

デジタル期

キング・タビーによる80年代の音楽は70年代の作品と同等に評価されることはないがその音楽は細部にわたって創造性に富んだものだった...

ダブという驚くべき現象は過去の産物となり、人にとって刺激的なものとして見られなくなった。もっと音楽の表面的な側面がメインストームで消化されるようになったのだ。タビーは彼の小さな4トラックスタジオが終焉を迎えたことに気付き、1985年彼の作業場とスタジオ機材のアップデートを始めた。ドロミリー・アヴェニューの庭で行なわれる建築作業の指揮を取る中、録音を行なった回数は極めて少なく、ダブ・プレートのカッティングと電気系の仕事を中心にしていた彼は32トラックからなるジャマイカ屈指のスタジオ、そして天井の高さにある独特なヴォイシングができるロフトの建設を計画していた。

選挙の準備期間中はキングストンのゲットー地区の一部にとって、決して安楽な時期ではなかった。発砲音がウォーターハウスに鳴り響き、警報頻度の多さに地元の住民はファイアハウスと呼んだほどだ。政治不安、それにともなった危険性、雰囲気は一つとなり、レゲエ・ミュージックの一流スターを生み出すことになった。トタン、ブロックに、くぼみだらけの路地によってできた迷路から創造に花が咲いたのだ。タビーは運営自体をアップタウンに移すのではなく悪名高きゲットーのスタジオを最新にすることを選び、批評されることもあったが、彼は本当に地元のコミュニティーを信じ、愛し続けた。人々はダウンタウンにある彼のスタジオにしぶしぶ出向いたといわれているが、タビーには新しい施設が地域の人々を引き付け、再建に手を貸してくれるという確信があった。ウォーターハウス出身であるという原点が地元や住民に投資しようという後押しになった。事実、彼は音楽が社会変革に必要となる力になると信じていたのだ。

サイエンティスト(Scientist)からミキシングボードのコントロールを託されたウィンストン'プロフェッサー'ブラウン(Winston 'Professor' Brown)は1986年アメリカに電気を学びに行くことになるが、キング・タビーのもとを離れる前にアナログとデジタル期のギャップを器用に繋げていた。こうしてタビーは自身のレコード制作を始めるも彼は他の人たちにインスピレーションを与え、珍しくも人目につかないようにすることを好んだ。自分自身の稀に見る功績を認知されるよりも、ヘア・ドライヤーや波型変圧器を修理することが彼にとって重要だったのだ。最後の弟子となったバントン(Banton)、ファットマン(Fatman)、ピーゴ(Peego)はタビーのスタジオを飛び立ち、1985年下半期にウェイン・スミス(Wayne Smith)の'Under Me Sleng Teng'でデジタル革命を起こしたともとキング・タビーの弟子であるプリンス・ジャミー(*のちにKing Jammyとして認められる)とダンスホール界で負けを劣らず争った。

レゲエ産業の本質すべてを変えたジャミーの実験的なデジタル革命。弟子だったジャミーが師であるキング・タビーを超えたかのようにも思えるが実際は違った。ジャミーは目の前に現れる敵を打ち負かすことで忙しく、タビーがデジタルでありながらもジャミーのものとはまったく違うサウンドでダンスホール・シーンに現れたことに猛威を感じていた。表面的な相似点が明確にあったことも事実だが、レゲエにおけるコンピューター・テクノロジーの到来に関して多くの議論、そしてレゲエに終止符を打ったとの批判がなされてきた。しかし現在、批評家たちはこういった議論から身を引き、これらの評論家たちは黄金期と呼ばれる70年代と比較し「すべてのレゲエは同じに聞こえる」と言及する。80年代の音楽はまさにこれまでジャマイカから生まれた音楽と同様に刺激的で重要であり、こういった初期のデジタル音源のレコードが現在、収集家たちの市場で高額取引されていることはそれらの音源が持ち合わせる本当の価値を示唆していると言えるだろう。

タビーの新しいレーベル、ファイアーハウス(Firehouse)から放たれたジャマイカ初のNo.1ヒットは怒りを露にしたアンソニー・レッドローズ(Anthony Red Rose)の'Tempo'だった。ダークでひきしまったこの録音はゲットー、キングストン11の陰気な緊張感が詰め込まれ、世界的に"ウォーターハウス"スタイルとして知られるようになる無表情で単調な歌唱スタイルが特徴だ。

「俺たちにとって次の大ヒットになったのはレッドローズが歌った'Tempo'を制作した時。それは俺たちにとって大ヒットだった。大切なナンバーワンの楽曲だ!」ノエル'ファントム'グレイ(Noel Gray)

これらの新しい録音はタビーの原点に忠実なものであった。ウォーターハウス(Waterhouse)、ファイアーハウス、キングストン11(Kingston 11)、トーラス(Taurus)といったレーベルからリリースされ、若者のヴォーカリストたちやしばしコーネル・キャンベル(Cornell Campbell)、ジョニー・クラーク(Johnny Clarke)、グレゴリー・アイザックス(Gregory Isaacs)といったベテランによって若者向けに制作された。多くの楽曲がサウンドシステムでプレイされるための特別仕様で、歌の歌詞はキングストンのサウンドシステムで起きている抗争を映し出したものだった。

ジャミーが去った1985年、ノーマン・マンリー中学校からの古い友人だった'プロフェッサー'から「キング・タビーが音楽を知っている奴を自分の横に置きたがっている」というメッセージを受け、ノエル'ファントム'グレイはキング・タビーのもとで活動を始めた。

「俺がいえることはタビーが最高のプロデューサーで最高の人間だってこと...名前も知られていない若手、新人みんなの歌をタビーが試してリリースしたんだ...彼はゲットーで多くの若者を助けていた、わかるか?」ノエル'ファントム'グレイ

自身のリズムを制作するためにタビーはファイアー・ハウス・クルー(Fire House Crew)を起用、ヒット曲が次々と輩出された。

「俺たちは彼らを向かい入れて制作を始めて、多くのヒット曲を出した。1989年までヒットの連発、俺たちは音楽業界で調子がよかった。それから'King Tubbys Present Sound Clash Dub Plate Style'っていうアルバムを出したんだ。サウンドボーイを"キル"するアルバムで、世界中で4万数千枚売ったよ。45回転盤のように売れたんだ」ノエル'ファントム'グレイ

「King Tubbys Present Sound Clash Dub Plate Style」がジャマイカのチャート、イギリスのレゲエ・チャートでNo.1を獲得していた1989年2月6日、タビーはデュハニー・パークの自宅の外で撃たれ死亡、犯人は現金、ジュエリー、タビーが許可を得て所有していた銃器を盗んで逃走した。その後、タビーの娘が運営を続けたが、タビーの手引きなしに組織の活動は結局停止することになり、ソニック・サウンズ(Sonic Sounds)のネヴィル・リー(Neville Lee)が買収。今もタビーを殺した犯人は逮捕されていない。









2017/10/25 掲載
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