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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Derrick Harriott
アーティスト特集
Derrick Harriott(デリック・ハリオット)Text by Harry Hawks
過去50年以上に渡り大成功を収めたシンガー、プロデューサー、レコード・ショップ経営者として彼は全てを目撃してきた...彼は全てを体験し、彼の音楽は世界中に知れ渡って彼のもとに帰ってきた。
Derrick Harriott
本名 Derrick Clinton Harriott
出生 1939年2月6日
出身地 ジャマイカ キングストン 
関連アーティスト
1939年2月6日、5人兄弟の末っ子として生まれたデリック・ハリオット(Derrick Harriott)は幼少期をデューク・ストリート周辺で過ごし、彼の叔父が校長を務めていた近所のエクセルシオール高校で教育を受けた。彼にとって最初の音楽の思い出は1947年にジャマイカで1日に4時間も放送していたラジオ"ZQ1"を聴いていたことだった。デリックお気に入りのシンガーはビリー・エクスティン(Billy Eckstine)、ナット'キング'コール(Nat 'King' Cole)、サラ・ヴォーン(Sarah Vaughan)、インク・スポッツ(The Ink Spots)などのアメリカ人アーティスト、「偉大なるシンガー」ジミー・タッカー(Jimmy Tucker)、Julian Ifla、「歌の上手い」エドマリーン・アンドリアン(Edmarine Andrian)などのジャマイカ人アーティストたちだった。デリックの叔父、「偉大なるテナー歌手」サミュエル・パウエル(Samuel Powell)もまたラジオでパフォーマンスをしていた。デリックは教会で歌い、彼の兄弟の一人は定期的にテナー・サックスを吹いており、彼の成長期は音楽に浸り、生涯に渡る関係が始まったのだった。

デリックはパレス・シアターのステージ・ショーに出演するようになり、"ヴェレ・ジョンズ・ジュニアーズ・オポテュニティー・アワー"タレント・コンテストへの出場を決意した。「私は他のアーティストたちより上手でなければならなかったんだ...」このショーは本格的であり「もしここで合格できたら、世界のどこへ行っても認めてもらえるのさ!」そしてデリックのソロ・パフォーマンスに対する観客の反応は上々だった。しかし彼は「のちにバニー・アンド・スカリー(Bunny & Skully)として知られた」シムス・アンド・ロビンソン(Simms & Robinson)を見て感動し、彼らのシェリー・アンド・リー(Shelly & Lee)の物まねは「会場をマッシュ・アップさせた」そうだ。そして1957年彼はクラウド・サング・ジュニア(Claude Sang Jnr.)とコンビを組み、サング・アンド・ハリオット(Sang & Harriott)として共にパフォーマンスを行った。2人は次々と予選を勝ち抜き決勝に進出、'I'm In Love'を歌い2位を獲得した。彼らの得意分野はサウンドシステムから流れてくる一番ホットなリズム・アンド・ブルースの曲をカヴァーすることで音楽好きのオーディエンスの心を掴んだのだった。「出たばかりのR&Bの曲と共に現れ、お客を驚かせていた!彼らはうなっていたよ!」

この2人の最初のレコーディング'Lollipop Girl'はスタンレー・モッタズ・レコーディング・スタジオ(Stanley Motta's Recording Studio)での自主制作アセテート盤で、「ピアノだけでリズムを取っていた」とのことでデリックはその後サンダーバード・サウンド(Thunderbird Sound)という「金曜夜の仕事終わりのセッションを開催していた地元の団体」でその曲のダブを録音した。そこの観衆たちは'Lollipop Girl'をとても気に入り、サンダーバードのディージェイにその曲のプレイをさせ続けたほどで、この曲は地元で伝説となった。その時期、誰もが認めるトップ・サウンドシステムだったサー・コクソン(CS Dodd)とデューク・リード(Duke Reid)はこのことをすぐに耳にしないわけがなかった。この2つのサウンドシステムはアメリカ産の"国外"レコードを好んでかけていたが、'Lollipop Girl'はとても人気があり、コクソンは高価な外国のレコードをサンダーバードとこのレコードのコピーために交換したという。デューク・リードも負けじとコクソンがプレイをしていたミズパ・ホールの向かいにあったガイアティー・シアターでこの曲をプレイしていた時のことをデリックは回想した。「なんと銃が火を吹いたんだ!銃はコクソンしか持っていないという噂だった」しかしコクソンの技師たちはそのアセテート盤を盗み、このオリジナル盤からコピーを作っていたのだ。「'Lollipop Girl'は多くの問題を起こしたよ」

1958年クラウド・サング・ジュニアはケーブル・アンド・ワイアレス(Cable & Wireless)に雇われたためジャマイカを後にしバルバドスへ向け旅立ち、デリックはのちにハーサン・アンド・ヒズ・シティー・スリッカーズ・バンド(Hersang & His City Slickers)を組織するクラウドの兄弟ハーマン・サング(Herman Sang)、モーリス・ウィンター(Maurice Winter)、ユージン・ドワイヤー(Eugene Dwyer)とともにデリックがリード・ヴォーカルを取ったジャイヴィング・ジュニアーズ(The Jiving Juniors)を結成。ジャマイカのオーディエンスたちがジャイヴィング・ジュニアーズを愛したのは'Over The River'や'Rockin' Robin'で聴かせた美声だけなく、彼らが熟達したショーマンだったからだ。彼らの十八番はコースターズ(The Coasters)の'Young Blood'でユージンは「俺の娘に手を出さないほうが身のためだぜ!」と間奏の最中に叫びながら銃を発砲し、いつも暴れていたという。

その翌年デリックはニューヨークに向けて旅立ち、数々の異なった業種で働いていたものの、歌手としてのキャリアを続ける時間を作っていた。'Lollipop Girl'はジャマイカで絶大なヒットを記録し続け、一流のプロデューサーとなったデューク・リードはデリックにこの曲を再度レコーディングするために帰国するように言ったのだった...そしてこの時のリズムはピアノだけではなかったのだ!デリックはその時すでにクリスマスのために帰国することを決めており、他にキングストンに戻るきっかけが欲しかった。同じくクラウド・サング・ジュニアもバルバドスから帰国しており、この2人は1960年のクリスマスのすぐ後にケン・クーリ(Ken Khouri)のフェデラル・レコーディング・スタジオ(Federal Recording Studio)を訪れ、そこでデューク・リード・アンド・ヒズ・グループ(Duke Reid and his Group)の演奏と共に新曲'My Heart's Desire'と'Lollipop Girl'を再録音した。それからデューク・リードのトレジャー・アイル・サウンドシステムはアセテート盤に録音した'Lollipop Girl'の再演をリリースが予定されていたクリスマスより前の一年の中で最も良い時期にプレイしたのだ。すでにチャートで上位に食い込んでいた'My Heart's Desire'とともに'Lollipop Girl'はナンバー・ワンまで一気に駆け上った。ジャイヴィング・ジュニアーズはまたクリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)のレーベル、R&Bとサー・コクソンのためにも録音をした。「あの時代こんな感じの曲が流行っていた。例えばクランシー・エックルズ(Clancy Eccles)の'River Jordan'とかメロー・ラークス(Mellow Larks)の'Time To Prey'とかね」そしてデリックとクラウドは1961年に魂のこもった曲を録音した。'Over The River'はドッド氏のオール・スターズ(All Stars)レーベルからリリースされ、ハーサン・アンド・ヒズ・シティー・スリッカーズ・バンドにより提供された音楽をまとめたジャイヴィング・ジュニアーズに功績が贈られた。

彼らの成功とは裏腹に1962年ジャイヴィング・ジュニアーズは解散し、デリックはドニー・エルバート(Donnie Elbert)のカヴァー'What Can I Do'を、自分のガール・フレンドを親友に取られてしまうというストーリーでより親近感が沸く歌詞に変え初のソロ録音をフェデラルで行った。彼はこの曲のアセテート盤をロード・クー(Lord Koo)のサウンドシステムに持っていき、ディージェイのイッキー・マン(Icky Man)にその曲をかけさせた結果観客はその曲をディージェイ以上に気に入り「彼はターンテーブルからこの曲をはずすことが出来なかった!」のだという。コクソンとデューク・リードの経験をもとにデリックはこの曲を直ちにリリースせず、ロード・クーや一流のサウンドシステムに配り、曲を特別にかけさせることでプロモーションと曲の需要を高めていった。そしてのちにデリックは自身のレーベル、クリスタル(Crystal)でこの曲をリリースしたのだった。自分用のレーベルを発足させたシンガーたちのさきがけの一人だったデリックの頭に浮かんできたアイデアは「占い師とその水晶だった...水晶(クリスタル)はとても透明だということを意味する」ということだった。彼の初リリースはすぐさまトップ・ファイブ入りを果たし、ヒット曲に次ぐヒット曲となったのだった..."ジャマイカン・ヒット・パレード"において'I Care'は第2位を獲得、'Sugar Dandy'は第3位を獲得し、それからというものデリック・ハリオットには振り返る過去が無くなった。

1966年にはデリックは自身のレコード・ショップをオープン。ビーストン通りに程近いキング・ストリートの125番地に構えられた"デリックズ・ワン・ストップ(Derrick's One Stop)"は彼のエクセルシオール高校の級友だったネヴィル・フー・ロイ(Neville Foo-Loy)が以前所有していた建物で、のちにそこにアクエリアス・レコード・ショップ・アンド・レコーディング・スタジオ(Aquarius Record Shop and Recording Studio)を作ることになるハーマン・チン・ロイ(Herman Chin Roy)が運営をしていた。デリックがキング・ストリートの86番地と別の通りの脇に引っ越したのは1968年のことで、その頃過ごした時間は素晴らしく良い方向に作用したと振り返った。「たくさんのやり取りがあった」という。ウェイラーズ(Wailers)の店はキング・ストリートの127番地に位置し、リー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)はチャールズ・ストリートの36番地、そしてクランシー・エックルズはオレンジ・ストリートの122番地に店を構えていた。「彼らは一直線に私のもとに来たもんだ...」 ワン・ストップは超有名店だったため、キングストン中のトップ・プロデューサーやアーティストたちの新作を網羅していた。

「私はいまだにそれらのレコードを傷一つないコンディションで持っているよ」またデリックはそのレコードを自身のミュージカル・チャリオット・ディスコ(Musical Chariot Disco)でプレイし宣伝したのだ。彼はエル・スージー・ア・ゴー・ゴー(El Suzie A Go Go)と共にステージ・ショーのプロモーションを始め、彼のミュージカル・チャリオット・ディスコは前グラス・バケット(The Grass Basket)という名だったVIPクラブ(The VIP Club)やモーリンズ・ロードのソンブレロ・クラブ(The Sombrero Club)でプレイするようになった。VIPクラブではウェイラーズが定期的にフィーチャーされ「その頃ビデオ・カメラを持っていればよかった」またザ・チョーゼン・フュー(The Chosen Few)は「ステージ・ショーを行っていたグループで一番おしゃれな服を着ていた」という。

ロックステディがスカのビートにうって変わり、デリックはこの新しいビートと共にキングストンで最も優れたレコード・プロデューサーの一人としてこれまでになかった最も人々の記憶に残るロックステディのレコードを作り出した。彼自身が歌った'Solomon'、ルディ・ミルズ(Rudy Mills)との'Long Story'、そしてキース・アンド・テックス(Keith & Tex)との'Tonight'と'Stop That Train'をプロデュースした、奇跡のようなセッションがウェスト・インディーズ・レコーズ・リミテッド(West Indies Records Limited)で起こった。どうも'Stop That Train'は当時大ヒットには至らなかったようだが他の3曲は爆発的な売り上げをみせ、この4曲は今日のジャマイカン・ミュージックを形成する一部分になった。この極上ともいえるセッションに参加したのミュージシャンは、ドラムにジョー・アイザックス(Joe Isaacs)、ローレル・エイトキン(Laurel Aitken)の兄弟であるボビー・エイトキン(Bobby Aitken)がベース、「ジャッキー・ジャクソン(Jackie Jackson)だったはずだったが」唯一無二のギターリスト、リン・テイト(Lynn Taitt)、そしてオルガンをウィンストン・ライト(Winston Wright)が担当した。「こんなセッション忘れられるわけないだろ!」最初のテイクを採用するものは誰もいない。デリックはスタジオでの勤勉さで有名になった。'Walk The Street'と名前を変え歌い上げたザ・タムズ(The Tams)の'You Might As Well Forget Him'のオリジナル・レコーディングに満足できなかったデリックはリン・テイトをスタジオに呼び戻し再度この曲をレコーディングしたという。そしてこの曲は彼のリリースの中で最も有名なものの一つとなったのだ。

クリスタル、ムーブ・アンド・グルーブ(Move & Groove) からのヒット曲、またデリックズ・ワン・ストップレーベルのゴム製スタンプが押された数千枚のレコードはとどまるとことを知らなかった。ロックステディからレゲエの移行期は数年前自身がやってのけたロックステディのレコーディングと同じ方法を使いその時代を代表する曲といえるザ・キングストニアンズ(Kingstonians)の'Sufferer'や'Singer Man'を含むリリースで楽々乗り切った。セルジオ・レオーネ(Sergio Leone)の西部劇、スパゲッティ・ウェスタンに影響を受けた、自身の"Don't Look Back"リズムを使用した'The Overtaker'や'The Bad'などのヒット曲もあった。'Psychedelic Train'では「ホース・マウス(Leroy "Horsemouth" Wallace)がドラムを叩いたのだ...小さなヴァイブスは見事に機能したのさ!」そしてジャマイカ国内で大ヒットしただけでなく、イギリスのスキンヘッズたちの間でも流行ったようにジャマイカン・ミュージックはついに生まれ故郷のキングストンから定期的に世界のポップ市場をにぎわせるまでになった。

今まで受賞した3つの賞に加えデリックは1970年スイング・マガジン(Swing Magazine)により年間のトップ・プロデューサーに選ばれ、彼が歌い上げたザ・ワットノウツ(The Whatnauts)の'Message From A Black Man'はこの先10年間をこの音楽が進んでいく方向を決める先がけ的な曲だった。黒人の歴史は再度調査、探求され始めジャマイカ音楽がもたらした功績もまた研究され日の目を見ることになったのだ。デリックの過去の作品カタログはそれらのリリースの多数を辿る上では最適だった。"レベル・ロック"精神を心に持つ若手プロデューサーたちから今でこそ"アップタウン"のプロデューサーとして見られているが、デリックのルーツを基礎とした作品はどこをとっても多くの若手の成り上がり者と同じく挑戦的であり妥協を許さなかった。彼はキング・タビー(King Tubby)のウォーターハウスのスタジオ・サービスを利用した最初期のプロデューサーでもある。「タビーズは事件だった!彼がレコードを触ったら、それはもう聞き逃すことなんて出来ないさ。本当にいい物があった...テープを全部タビーの所において来たもんだ」デリックは伝説のアーティスト、デニス・ブラウン(Dennis Brown)とデニスのデビュー・アルバム「Super Reggae & Soul Hits」を共に制作しキング・タビーのダブ・ミックスを2曲フィーチャーした...それは当時前代未聞の出来事だった。

「俺は彼の兄貴を知ってたんだ...コメディアンだった。デニスはバイロン・リー(Byron Lee)のステージ・ショーで'Solomon'を歌っていた。彼は自分が"でかい男"だと言う小さな若者だった。『俺はこの町のでかい男だ』と。漂っていたヴァイブスで私たちは友達になった。彼の始めてのレコーディングは'Obsession'というタイトルの曲だったが'Lips Of Wine'に変えたんだ」

この時期デリックは以前ザ・フェデラルス(The Federals)のリード・ヴォーカルを取り、ディージェイ、スコッティ(Scotty)としてシーンに舞い戻ったデイヴィッド・スコット(David Scott)と共にデリックのファウンデーション・ロックステディ・リズムの一連を使い、親密に活動をしていた。スコッティの'Draw Your Brakes'は影響力の強い映画「Harder They Come」でジミー・クリフ(Jimmy Cliff)演じるアイヴァン(Ivan)がキングストンに到着したときのオープニング・シークエンスのバックでかかっていた。スコッティは'Riddle I This'、'Sesame Street'やデリックの美しいリズムをとことん使用した見事なアルバム「School Days」をヒットさせた。デリックはビッグ・ユース(Big Youth)を含む有名ディージェイたちとも親密に活動を行った。「私は彼を探したんだ。彼のことは耳にしていた...ビッグ・ユースと名乗る男だ。私は彼をいくつかのショーでフィーチャーしたよ」またユースはのちにムーブ・アンド・グルーブの宣伝用の写真を自身のレーベルであるネグサ・ナガスト(Negusa Nagast)またの名をキング・オブ・キング(King Of King)で使用した。フェデラルス最大のヒット曲'Penny For Your Song'のヴァージョンにUロイ(U Roy)の素晴らしいスタイルを乗せた'Penny For Your Dub'などIロイ(I Roy)、Uロイ共にミュージカル・チャリオットの魅力的な曲をサンプリングした。「...あれはトップ・ファイブにランクインした。私はUロイを尊敬していた。彼を忘れることは出来ないさ。実はIロイは私を訪ねてきたんだ...彼は私のリズムで踊りたがっていた」

1973年、デリックはコンスタント・スプリング・ロードに位置するツイン・ゲート・プラザのアップタウンに店舗を移転させ、その頃街でささやかれていた言葉は"おい、やつは出世したぞ!"だった。その頃キング・ストリート沿いの店舗は3度も強盗に入られ、デリックの店は閉店を余儀なくされた。デリック本人がキング・ストリートにいたときにも1度強盗に入られたのだ。「男が店を襲ったとき私は店の裏にいた...私が出て行ったら男は走って逃げたのさ!でも暴力はなかったよ」デリックは今日まで音楽を作り続けている。50年経った今彼はいまだに精力的に活動中である。ジャマイカ音楽発展の中核としてデリックは謙虚に「この音楽に注目してくれる人々がいるということを知れるのは良いことだ」と述べた。彼のライヴ・パフォーマンスはステージ上のパフォーマンスと雷のごとき速さのシャッフルのデモンストレーションにバックアップされた見事なヴォーカルでいまだ多くの若い男性たちの見本となり続けている。それはまるでジャイヴィング・ジュニアーズの頃となんら変わりがないように見えるのだ!デリックの音楽ビジネスへの関与はビジネスがほぼ存在をしていなかったとき時代にまでさかのぼる。

ジャマイカ音楽の歴史の中で永続的に人気のあるレコードの責任者として、彼のカタログは業界の中で最も優れているヒット・カタログのうちの一つである。デリックは最近ダブ・ストア・レコーズ(Dub Store Records)との特別契約を交わしとびきり上等な彼のグレイテスト・ヒッツを集めた7インチ・シングルのシリーズを再度発売することを決めた。時代を超越したデリック・ハリオットと彼のミュージカル・チャリオットにこの先もスポットライトが当たり続けることは間違いないだろう。
2016/04/15 掲載 (2016/04/15 更新)
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