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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Jah Thomas
アーティスト特集
Jah Thomas(ジャー・トーマス)Text by Harry Hawks
この"ジャマイカのミュージック・メーカー"は素晴らしいレコードを作る才能を持った指折りのディージェイというだけでなく、寛大さと影響力を持ち他のアーティストたちの素晴らしいレコード制作を組織することが出来る...
Jah Thomas
本名 Nkrumah Manley Thomas
出生 1995年8月27日
出身地 ジャマイカ キングストン 
関連アーティスト
1955年8月27日、本名エンクルマ・マンレー・トーマス(Nkrumah Manley Thomas)、ジャー・トーマス(Jah Thomas)は自身の歴史を重んじる家族の間に生まれた。エンクルマと彼の兄弟ケニヤッタにとって成長期は生易しいものではなかった。なぜなら「その頃はアフリカの名前は笑われた」からだが、現在そういった名前は正当に、尊敬を受けている。彼らの父親Kenyutte Thomasは家で家族のために歌い、後にはジャー・トーマスの母親ヴィラ・クレメンティーナ・ファーガソンは「金を貸してくれ、私にセッションをさせてくれた」そうで、彼の家族との絆は将来ジャー・トーマスの前に立ちはだかる音楽の奮闘に大いに役立つこととなった。

エンクルマはキングストン2のロックフォート地区で生まれたが12歳の時彼はトレンチ・タウンに移り住みトレンチ・タウンとローズ・タウンの間で育った。Trench Town Comprehensive Evening Instituteで学業を終えたあと、彼はキングストンにあったフォード社のディーラーの1人が始めたガレージで仕事を始め鉄板工と溶接工を学んだ。「私はよくパネルを打つときに歌い、ディージェイをしていたのだ。みんなは私のことをジューク・ボックスと呼んでいたよ...歌ってディージェイをすることで私はより幸せだった」

彼が最初に聴いたサウンドシステムはローズ・タウンのプリンス・デルロイ(Prince Delroy)とドクター・ハイ・ファイ(Doctor Hi Fi)で、彼は2つのサウンドでしゃべっていたブルプス(Bullpuss)と呼ばれていたディージェイに影響を受けたことを思い出した。ジャー・トーマスはキングストン、ペイン・ランドのバーニング・スピア(Burning Spear)というサウンドからダンスホール・ディージェイの美学を学び始め、ソウル・インペリアル・ハイ・ファイ(Soul Imperial Hi Fi)、後に良く知られるようになるレイ・シンボリック(Ray Symbolic)、キング・スターガヴ(King Sturguv)、キラマンジャロ(Killamanjaro)などの地元のサウンドシステムで「あるリズムがかかると私はコントロール・タワーに向かって行きマイクを取った」という。

「私はウォルトハム・パーク・ロード付近で評判を高め、人々は私を囲み、インスピレーションをくれた。サウンドでよくかかっていたらその曲がヒットした証拠だったから私のヒット曲の多くは最初にダンスでかかったものだ」ジャー・トーマス

ジャー・トーマスがレコーディングを始めたのは1976年、オジー・ヒバート(Ossie Hibbert)のためで、彼の最初のヒット・レコードはアルヴィン'GG'ラングリン(Alvin Ranglin)のためだった。GGはよく新しいアーティストを探すために月曜にオーディションを開き、ベース奏者のエロル'フラバ'ホルト(Flabba Holt)がジャー・トーマスを聴いたとき彼は「こいつはいいかんじだ」と決めたのだという。翌日GGはジャー・トーマスをチャンネル・ワン(Channel One)レコーディング・スタジオに連れて行き、ローウェル'スライ'ダンバー(Lowell 'Sly' Dunber)をドラムに、またロビー・シェイクスピア(Robbie Shakespeare)をベースにフィーチャーしたレヴォリューショナリーズ(Revolutionaries)をバックに付けジャー・トーマスは'Things & Time'の新しいカットの上に'Midnight Rock'を録音した。次の年からジャー・トーマスはジョー・ギブス(Joel Gibson)、チャンネル・ワンのフーキム兄弟(Joseph Hookim)、ハイ・ノート(High Notes)を運営するソニア・ポッティンジャー(Sonia Pottinger)など数あるプロデューサーたちのためにヒット曲を作り続け、70年代が終わりを迎える頃にはヘンリー'ジュンジョ'ロウズ(Henry ‘Junjo’ Lawes)のために録音した。1979年の5月、ジャー・トーマスは自身の大ヒットが生まれた後 自身のレーベル"ミッドナイト・ロック(Midnight Rock)"を始めた。

「'The Girls Them Love Me'のあと私は自分で自分をプロデュースできると分かり、レーベルの最初の曲はジュンジョが私にくれた'My Conversation'のカットに乗せた'Cricket Lovely Cricket'だった」ジャー・トーマス

ジャマイカン・ミュージックが70年代のルーツをベースにしたスタイルから移行をし始めるとともに、ジュンジョ・ロウズがカットしたユニークス(Uniques)の'My Conversation'がダンスホール革命で最も重要なリズムの1つということを証明した。ジャー・トーマスのアルバム「Dance On/Pon The Corner」は1979年にリリースされ、最初期のダンスホール・アルバムの1つとなった。同年バリー・ブラウン(Barry Brown)、ジュニア・キーティング(Junior Keating)、リトル・ジョン(Little John)、リトル・トゥウィッチ(Little Twitch)、トント・メトロ(Tonto Metro)、シュガー・マイノット(Sugar Minott)、ジョニー・オズボーン(Johnny Osbourne)、マイケル・パーマー(Michael Palmer)、トリスタン・パーマー(Triston Palmer)などを含むずらりと並んだ印象的なアーティストたちと共にジャマイカの"ダンスホール"をじかに録音したレコードをプロデュースし始めた。

「ダンスでよく耳にするリリックがあった...ある男がイギリスのダンスで私に近寄りこう尋ねてきた。"最初はタバコだ...次にウィードをねだり...その次にライターだ"だから私はこう言った"お前はジョーカー・スモーカーだ"と。そしてこのリリックをトリスタン・パーマーに渡した。私は楽しみのためにやっていた!私の周りにいた友人たち全員をレコーディングしていた」ジャー・トーマス

このダンスホール形成の時期に友人と共に制作した2つの作品はダンスホール・アンセムの名曲として知られるようになった。それは1981年にリリースされたトリスタン・パーマーの「Entertainment」と1982年のアンソニー・ジョンソン(Anthony Johnson)による「Gun Shot」だ。

「私は自分でリズムを作り、"Heavenless"のカヴァーがあったが、それがダンスをマッシュ・アップしているのを見た。ある土曜の夜ジャミーズ・スーパー・パワー(Jammys Super Power)と共にコックバーン・ペンでやっていたダンスに行った。そこで発砲事件が起き警察とルード・ボーイズたちがダンスをマッシュ・アップしているのをみてこれについて曲を書かなければいけないと気付いた。次の日早速作業を初め、私の彼女が"エンターテイメントは楽しみの形のひとつだ..."と言い、私たちはトリスタン・パーマーと共にこの曲をレコーディングした...同じセッションでヴォイシングとミキシングをしたのだ!'Entertainment'は私が作曲した曲の中で一番の曲だ。この7インチはいまだにブランニューのように売れる。

1981年私はイギリスにいてどこもかしこもマイケル・プロフェット(Michael Prophet)の'Gunman'だった。どこへ行ってもこの曲がかかっていてからガン・チューンが必要だと自分に言い聞かせた。アンソニー・ジョンソンが私のために歌い始め、私はラブ・ソングはもう充分作ったと言ったのだ!"ガンショット"チューンをやってくれと言ったのだ!そして直ちにヒットした...」ジャー・トーマス

ミッドナイト・ロックのダンスホール・レコードにリズムを乗せたのはルーツ・ラディックス(Roots Radics)だった。ラインナップはセッションによって様々だったが、中心メンバーはドラマーのリンカーン'スタイル'スコット(Lincoln 'Style' Scott)、ベーシストのエロル'フラバ'ホルト、リズム・ギターにエリック'ビンギー・バニー'ラモント(Eric 'Bingy Bunny' Lamont)、リード・ギターにドワイト・ピンクニー(Dwight Pinkney)、ベテランのピアニストのグラッドストーン・アンダーソン(Gladstone Anderson)、オルガン奏者のウィンストン・ライト(Winston Wright)、キーボード奏者のワイクリフィ'スティーリー'ジョンソン(Steely & Clevie)、パーカッションのボンゴ・ハーマン(Bongo Herman)とスカイ・ジュース(Sky Juice)といった面々だった。ジャー・トーマスはキング・タビー(King Tubby)のドロミリー・アヴェニューのスタジオでヴォイシングとミックスに移る前は常に自身の初めてのレコードを録音したフーキムのチャンネル・ワン・スタジオを使用してリズムを創った。

「私はほとんどルーツ・ラディックスを使っていた。私はセッションの前に彼らに報酬を支払っていたから、ポケットの中に金がある彼らはより良い演奏をした!あるセッションで10の違うリズムを創り、そのうちの7つはヒットしたんだ...それは私がスライ&ロビー(Sly & Robbie)を使い始める前のことだった...

私は4人のホーン奏者をオーケストラのように使っていた...ディーン'ヤング・サックス'フレイザー(Dean Fraser)、デイヴィッド・マデン(David Madden)、'チコ'ハミルトン('Chico' Hamilton)そして'ナンバ'ロビンソン('Namba' Robinson)だ...また私はバルナバス(Barnabas)、ピーター・ケミスト(Peter Chemist)、ソルジー(Soldjie)、マキシー(Maxie)らと共にチャンネル・ワンを使用していた。バニー・トム・トム(Bunny Tom Tom)が私の始めての楽曲をミックスし、キング・タビーのところでタビー、サイエンティスト(Scientist)、アメリカに移り住む前のプロフェッサー(Professer)とともにヴォイシングをしたものだ」ジャー・トーマス

トップ・ディージェイだったにもかかわらず、ジャー・トーマスはピーター・メトロ(Peter Metro)、アーリーB(Early B)、ランキン・トーヤン(Toyan)などのディージェイの録音を嫌がることは無かった。

「当時もしダンスで競争があったら、私はそれを録音したかった。アーリーBも同じようにだ!昔はよくキラマンジャロ・クルー全員をスタジオに呼んでレコーディング・セッションをしていた」ジャー・トーマス

ジャー・トーマスは現在も音楽ビジネスで活躍し、ミッドナイト・ロックの7インチ・カタログの再発を続け、自身の多くのヒット曲を"スペシャル"としてキングストンのサウンドシステムのためにカットし続けている。彼はまた大きな成功を収めているシンガー、ダヴィル(Da’ville)として知られるオーヴィル・トーマス(Orville Thomas)Sの父親でもある。ジャー・トーマスとダヴィルの音楽はダンスホールを破壊し続ける...
2012/10/01 掲載 (2012/10/11 更新)
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