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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Max Romeo
アーティスト特集
Max Romeo(マックス・ロメオ)Text by Harry Hawks
マックス・ロメオのその的を外れない才能が伝えるのはジャマイカの明らかな苦難だけではなく、それに匹敵するほど熱烈で確信的なもっと楽しい側面であり、それらをもって彼は彼の世代で最も有名で万能なシンガー・ソングライターとして、その地位を確立にしたのである。
Max Romeo
本名 Maxwell Livingston Smith
出生 1947年11月22日
出身地 ジャマイカ セント・デクレ 
関連アーティスト
マックス・ロメオ(Max Romeo)はマクスウェル・スミス(Maxwell Smith)として1947年11月22日、ジャマイカの北海岸にあるセント・ジェームズ地区の田舎で生まれた。そして彼の母親がイギリスに移住した1954年、父親と住むためにキングストンに移り住んだ。ティーネイジャーの時は急速に発展する街の音楽シーンに引きつけられ、1966年に彼はセールスマン、そして使い走りとしてレーベル、カルトーン(Caltone)のオーナーである、ケン・ラック(Ken Lack)のために働き始めた。その後ケネス・ライト(Kenneth Wright)、ロイド・シェイクスピア(Lloyd Shakespeare)と共にエモーションズ(Emotions)を結成、グループはカルトーンから発売された'A Rainbow'、'Heartbreaking Gypsy'そして'Rude Boy Confession'などいくつかのヒット曲に恵まれた。短期間の間、マックスはグレン'カポ'アダムズ(Glen Adams)、アストン'ファミリーマン'バレット(Aston 'Familyman' Barrett)、カールトン'カーリー'バレット(Carlton 'Carly' Barrett)、アルヴァ'レジー'ルイス(Alva 'Reggie' Lewis)、そしてロイド'チャーマーズ'タイレル(Lloyd Charmers)と共に、時々ヒッピーボーイズ(Hippy Boys)のリード・シンガーを担当したが、バンドがミセス・ポッティンジャー(Sonia Pottinger)と録音し、発表した'Dr. No Go'がヒットすると彼はバンドを離れる決意をした。

マックスの友人、バニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)は当時レコード・プロデューサーとして名を上げはじめ、そしてマックスをセールスマンとして雇用しただけでなく、彼が地元の女の子を口説こうとしているのを聞いた後、ストライカーは彼に女たらしを意味する"ロメオ"というあだ名を付けた。マックスはまた録音を始めるのを楽しみにしていたが、ストライカーが選んだ素材に不満だった。それはきわどい'Wet Dreams'であった。パット・ケリー(Pat Kelly)、スリム・スミス(Slim Smith)、ロイ・シャーリー(Roy Shirley)そしてデリック・モーガン(Derrick Morgan)を含むバニーのお抱えアーティストたちは誰もそれを歌おうとしなかった為、ストライカーはマックスに最終提案を出した。

「マキシー(Maxie)は以前、ケン・ラックの所に所属していたグループ、エモーションズで歌っていたが、その当時は歌ってなかったんだ。奴はいい歌手だったがケン・ラックがビジネスを去った後はレコードを売ることに集中していた。そして奴は俺のところでもセールスマンとして働いていた。だから俺はマキシーに振り返ってこう言ったんだ、"毎日お前は歌を録音したがっている...たとえそれがB面だったとしても...そうしたらお前は彼女にそれを聴かせてやることができるからな"奴は言ったよ、"ボーイ・ストライカー、俺はイヤだよ、あの歌は歌いたくない"で、俺はこう言ったんだ、"もしお前がこの歌を歌わないのならば、明日から仕事に来るな!"」バニー'ストライカー'リー

無礼、または卑猥なレコードは新しい現象ではなかった、そしてそれはブロウフライ(Blowfly)のようなアメリカのアーティストたちの影響によって復活を経験していた。しかしながらその歌詞は"官能的な夢が夢精の原因となる"のではなく、だいたいは性的な剛勇さを自慢するといったものであった。

「'Wet Dreams'はチューンだったよ!俺はそれを'Hold You Jack'リズムにのせてコクソン(CS Dodd)のスタジオで録音したんだ」バニー'ストライカー'リー

その曲はブレントフォード通りのスタジオ・ワン(Studio One)である晩歌われ、マックスが歌い終わるとコクソンは激怒、そして「俺はこの曲がここで録音されるのはいやだ」と申告した。しかしストライカーは彼に言った「...これをぬぐい去ることはできない」そして'Wet Dreams'は"数合わせの曲として"ロンドンのパーマー(Palmer)兄弟へ送付され、1969年に彼らのレーベル、ユニティ(Unity)から発売された。そのレコードはしゃくにさわると考えられたが、一方でイギリスの大衆にレゲエを紹介するにあたって一役買った。BBC Radio Oneで放送される日曜日午後のチャートショーで、アラン・フリーマン(Alan Freeman)は曲名を言うことを禁止され、'Wet Dreams'は"マックス・ロメオのレコード"とだけ紹介されることとなった。しかしながらレコードはイギリスの国内チャートに未曾有の25週間もとどまり、まったくラジオでプレイされなかったのにもかかわらず、なんと第10位まで登りつめることとなった。

「パット・ケリーやスリム・スミス等、全ての大物歌手は彼等がイングランドでショーを行っていないことをうるさく言い始めたんだ!俺たちの仲間の中で最初に行ったのはマキシーだ。最も可能性の低かった...大穴が...英国のチャート入りを果たす最初の男となった。すごいだろ!'Wet Dream'以降、誰もなにがヒットするかわからなかった...そういうわけで、その後ももし俺が彼に一曲歌ってくれと言ったならば...それが大層ばかげていることであっても...彼は歌うんだ。わかるだろ?」バニー'ストライカー'リー

マックスがツアーとレコードのプロモーションのためイギリスに着くと、彼は音楽プレスからの問いかけに対して断固として彼自身のストーリーを突き通した。それはこの曲がまったくもってセックスとは関係なく、しかしながら事実として日常的なジャマイカに溢れる貧困のストーリーを歌ったものであるとした。それは彼の小屋の屋根は常に雨漏りしており、コーラスにある"lie down gal let me push it up, push it up(ガール、横になって、僕に突かせて、突かせてよ)"という節が、実際は彼が彼女をどけるお願いをし、ほうきを使って屋根の穴を塞ぎ雨漏りを止めるものだったのだ、とほのめかした。マキシーはその後ユニティ・レコーズのために'Wine Her Goosie'や'Mini Skirt Version'などたくさんの暗示に支配されたレコードを録音することとなり、それらも当然のことながらラジオでのプレイを獲得することはできなかった。'Wet Dream'はジャマイカにおいては泣かず飛ばず、イギリスでもそのレコードに付いた汚名の返上は難しかった、にも関わらずキングストンでマックスはまったく問題なく過ごし、その後現在に至るまで定期的にジャマイカのチャート入りを果たすようになる。

彼が1971年にデリック・モーガンのホップ(Hop)レーベルのために録音した'Let The Power Fall On I'はデルロイ・ウィルソン(Delroy Wilson)の'Better Must Come'と共に マイケル・マンレー(Michael Manley)率いるPeople's National Partyのキャンペーン・ソングとして起用され、1972年の選挙は「音楽が人々に届き、選挙に勝ったのだ」。その後リズムのテンポが遅くなり、"Rebel Reality Music(反逆の現実を奏でる音楽)"が発展する中で、マックスの役割は実際よりも悪く書けないものであった。トレヴァー・ランベルト(Trevor Lambert)としてレーベル、アップセット(Upset)のために録音された'Bald Headed Teacher'、グレン・アダムスとアルヴィン'GG'ラングリン(Alvin Ranglin)のために録音された'Jordan River'、さらにはリー・スクラッチ・ペリー(Lee Perry)のために録音されたナイニー・ザ・オブサーヴァー(Winston ‘Niney’ Holness)との共作'Beardman Feas'と素晴らしい'Rasta Bandwagon'そして'Babylose Burning'(マキシー、ナイニー&スクラッチとして)など、彼特有で非正統的な作品はその後、他の歌手たちがこぞって真似したがるようなスタンダードを確立した。

70年代半ばにマックスは、'One Step Forward'を含むリー・ペリーとの素晴らしい共作で再び国際ロック・プレスの注意を引きつけた。しかしながら今回は前回のような説明や言い訳の必要はなく、アイランド(Island)からリリースされた'War In A Babylon'で、マックス・ロメオはついにイギリスでの名声を獲得した。ジャマイカでアップセッター(Upsetter)からリリースされたこの曲はもともと'Sipple Out Deh'と名づけられており、キングストンのゲットーで起こった闘争と悪化の一途をたどる首都のストリートの危機に対するマックスのするどい洞察力を歌った。スクラッチの音楽の技能がもたらしたその力と強靭さがマックスの歌詞に不動の焦点を与え、'Chase The Devil'を収録し、アイランドから発売された彼等の「War In A Babylon」は、マックスの長きキャリアにおいて最も売り上げに長けたアルバムとなった。同時期に制作されたアルバム「Revelation Time」またの名を「Open The Iron Gate」は、ジェフリー・チャン(Geoffrey Chung)、フィル・プラット(Phil Pratt)、スクラッチをはじめマックスが多数のプロデューサーとの共作を披露し、1978年にアイランドからリリースされ、マックス自らプロデュース国際的な名声を得たLP、「Reconstruction」と同じくらい強力なものとなった。

70年代も終わりに近づき、ニュー・ヨークに移り住んだマックスは、ローリング・ストーンズ(Rolling Stones)のキース・リチャーズ(Keith Richards)をアシスタントに迎え、アルバム「Holding Out My Love For You」をシャナチー・レコーズ(Shanachie Records)より、1981年にはワッキーズ(Wackies)スタジオで録音された「I Love My Music」を発売した。1992年にイギリスのジャー・シャカ(Jah Shaka)より発表された「Far I Captain Of My Ship」はイギリスのルーツ・シーン幕開けの前兆となり、活発なステージ・ショーや過去の栄光をさらに上回る新しいレコードの人気のおかげもありマックスは国際的なルーツ復興ムーヴメントのリーダーの一人となった。

臆面もない淫乱な'Wet Dreams'(イギリスのロック記者と話をしない限り!)から宗教的熱情のこもった'River Jordan'、辛辣に社会の事実を歌う'Rasta Bandwagon'など、マックスはそのキャリアを通して常に別々の、見方によっては全く異なったテーマのもと活動をしてきた。彼の知名度は全く持って下がることを知らず、マックス・ロメオの歌はまるで全てのジャマイカ人シンガーたちのように、また全てのジャマイカ人ミュージシャンのように、いや事実として全てのジャマイカ音楽のように、現象を記憶にとどめておくことに常に挑む様を証明する役目を果たす。
2013/10/10 掲載 (2013/10/24 更新)
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