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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Errol Thompson
アーティスト特集
Errol Thompson(エロル・トンプソン)Text by Harry Hawks
エロル・トンプソン、通称エロルTまたは、シンプルにET、はジャマイカ音楽史上、最も才能のある、優れたレコーディング・エンジニアであった。彼のレゲエ・サウンドへの貢献は決して誇張されることはない。
Errol Thompson
本名 Errol Thompson
出生 1949年12月29日
死没 2004年11月13日
出身地 ジャマイカ キングストン 
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エロル・トンプソン(Errol Thompson)の、バランスが良く透き通った音は、時に度が過ぎたが、レゲエの国際的なブレークにおいて必要不可欠な存在であった。1948年12月29日に生まれたエロル・トンプソンが人生最初に受けた影響は、東キングストンのHarbour Viewで電子技術者としてアンプの製造に携っていた親戚の一人であった。エロルはGlenmore Road Schoolに通いながら、多くの時間を彼らの自宅で過ごした。またそこはエル・ドン(El Don)サウンド・システムの本拠地であり、同時にジャマイカの多くの主要なレコーディング・エンジニアたちがその腕を磨いた基盤であった...

エロルの最初の仕事は、ブレントフォード通りのスタジオ・ワン(Studio One)で働くシルヴァン・モリス(Sylvan Morris)の見習い技師であり、彼が手がけた最初のセッションは、ドッド氏(CS Dodd)に「ウチのスタジオでこんな曲やらないでくれ...」と抗議されながらも、国際的な大ヒットとなった。エロルはミキシング・デスクをコントロールし、マックス・ロメオ(Max Romeo)の有名な"Wet Dreams"をバニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)の為に録音した。ドッド氏のいらつきを横目に、ストライカーは「早くミックスを済ませてイングランドのパーマー兄弟(Palmer Brothers)に送ってくれ」と言った。このレコードはパマ(Pama)のサブ・レーベル、ユニティ(Unity)からリリースされ、1969年のイギリス国営チャートで25週間もチャート入りしたが、エロルはもうすでに次のステップに向けて動き出していた。

「ETはコクソンのところでも働いていたんだよ、そして彼が1番最初に録音したのが"Wet Dreams"だったんだ...」バニー'ストライカー'リー

彼の次のステップは、ノース・パレードのランディーズ・レコード・ショップ(Randys Record Shop)の上に位置し、当時まだオープンしたばかりの、ランディーズ・スタジオ17(Randy's Studio 17)だった。リー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)をはじめ、ボブ・マーリー・アンド・ウェイラーズ(Bob Marley & Wailers)ら、その頃キングストンで音楽をやっていた人々はこぞってランディーズの2階でレコーディングに勤しんでいた。

「ビル・ガーネット(Bill Garnett)がアメリカへ移った後...私たちは新しいエンジニアを雇わなくてはならなかった、そして我々はスカウトをしてまわった...

何が起こったかというと、エロルがやってきてスタジオにあった機材を一通り見て回った、そして"とりあえずやってみよう、そしていい方向に持っていくんだ...わかるでしょ?"と言い、一瞬のうちにそれをやってのけた。その結果、最も明確だったのはベースと暖か味のあるドラムだ。彼はなにかしらの調整を施し、我々がそれをパターン化した。私が覚えている限りで最初にそのサウンドが完璧であることを証明したのは、リー'スクラッチ'ペリーで、彼はボブ・マーリー・アンド・ウェイラーズのファースト・アルバム"Soul Rebels"の製作中だった。'My Cup'、'Sun Is Shining'など、そこで録音された全てのトラックは、我々の音が人々の欲しているものであったと証明された」クライヴ・チン(Clive Chin)

エロルの革新的なエンジニア業は、当時始まったばかりのダブのサウンドや、キング・タビー(King Tubby)のフェーダーに相反して、スタジオ17に常備されている機材のスイッチの設定を形成していき、彼の音楽にユニークで独特のサウンドをもたらした。エロルとクライヴ・チンは、常に新しいアイデアを基に音の実験を繰り返し、1973年、ランディーズは初めて作られたダブ・アルバムの1枚である「Java, Java, Java, Java」またの名を「Java Dub」を、彼らのレーベル、インパクト(Impact)からリリースした。クライヴ・チンの巧みな指導と、エロルの独創的なミキシング、さらに彼の流行の一歩先を行くファッションにより、アルバムはロイド・パークス(Lloyd Parks)の'Ordinary Man'の、とても愉快なテイクを収録し、同曲でエロルはエンジニアとしてのポストを任せられ(この時点ではそう難しくはなかっただろう!)、若く望みの高いエリック'ビンギー・バニー'ラモント(Eric 'Bingi Bunny' Lamont)が共同作業を買ってでたが、彼は操作方法を何1つ知らなかった...

"全部聴いてみよう..."
"ちょっと待ってくれ...
今から僕が操作方法を教えてやる、いいか?
ベースをよく聴いておけ...ベースの鳴りがよく聴こえるだろ?
じっくりとベースを聴くんだ...この音で女の子が腰をクネらすのがわかるか?
いいか?"'Ordinary Version'より

6年間の功績の中で1番素晴らしいことは、スタジオ17で録音されたヒット曲の中で彼が携っていないもののリストを挙げると顕著であり、けたはずれのプロダクションがエロルTによってエンジニア、ミックスされた。1973年にリリースされたレゲエ史上における画期的な作品、ビッグ・ユース(Big Youth)の「Screaming Target」アルバムをはじめ、2年後にはバーニング・スピア(Burning Spear)の威厳ある「Marcus Garvey」LPが制作された。エロルがスタジオ17で働いているときに、ナイニー・ザ・オブサーヴァー(Winston ‘Niney’ Holness)は彼をジョー・ギブス(Joel Gibson)に初めて紹介した。エロルの「ギボ(ギブス)よ、エンジニアは必要か?」との問いかけが功を奏して、エロルはスタジオ17で行われていたジョーのセッションでエンジニアをするようになった。1975年、彼らの関係はフルタイムで共に仕事をするほどの仲に深まった。エロルはランディーズを離れ、リタイアメント・クレッセントにギブスが新設した、16トラック・ミキサーを常備したスタジオに移った。もっともながら、クライヴ・チンは「ギブスの所へ行ってから、ETは複雑なプロダクションを職人技でミックスし、レゲエを全く違うレベルにまで押し上げた」と取り乱し気味に思い返した。

「もし過去に戻れるのならば、俺はなんとしてでもエロルをランディーズに引き止めただろう。彼こそが革新的な者だったのだ。彼がランディーズを離れたとき、私の中からも何かが消えていった... 革新的なプロデューサーよ。わかるだろう、エロルは70年代の音楽史を担う1人なのだ...

エロルは"African Dub"シリーズなど、ギブス氏が手がけたいくつかのダブ・アルバムのミックスをした... そして彼らはいい関係を築いていったのだ...」クライヴ・チン

それぞれが成功を収めた「African Dub」シリーズは、ダブ・ミュージックを、レゲエ好きの枠を超えて幅広い聴衆に深く浸透させる極めて重要な役割を果たし、ジョー・ギブスとエロル・トンプソン、2人併せて"マイティ・トゥー(Mighty Two)"が誕生、レゲエを民衆に根ざした音楽として国際的にヒットさせた草分け的存在として活躍した。彼らはオーディションを運営して新しいタレントを探し、ジョーはギミックの効いた、キャラの際立つアーティスト、そしてエロルTはもっとルーツ寄りのアーティストを好んだ。もしジョーがコンシャスな歌を聴こうものなら、彼は「なんていうか...ボーイ、とにかくMr Tに好いてもらえるように頑張れ!」と言い、彼らの最もヒットした作品、カルチャー(Culture)の'Baldhead Bridge'やIロイ(I Roy)の辛辣な'Sufferer's Psalm'はエロルのレーベル、エロルT(Errol T)からリリースされた。

エロルの革新的な技術はレゲエの商業的な飛躍の最先端であったが、彼は常に裏方であることを好んだ。「エロルTはレゲエがスタイルとして発展する中で、まず音源の本質を見抜き、それから音作りをしていくパイプのような役目を果たしていた」そしてジョー・ギブスがスタジオのミキシング・コンソールを24トラックのものに買い換えると、彼のスタジオはジャマイカで最も有名な、そして誰しもがレコーディングを憧れるスタジオとなった。しかしながらマイティ・トゥーがヴァージョンを作りJCロッジ(JC Lodge)が歌った、チャーリー・プライド(Charley Pride)の楽曲'Someone Loves You Honey'がもたらした、"長引く訴訟"により、"結果としてギブスのスタジオは閉鎖された" そしてエロル・トンプソンはジョー・ギブスがキングストンで運営するスーパーマーケットの経営者となり、その店で働きながらその後の20年間を人目に知れず過ごした。彼は2004年11月13日、度重なる脳梗塞の末、息を引き取った。
2013/12/26 掲載 (2013/12/26 更新)
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