レゲエコレクター.comレゲエコレクター.com
¥0 (0items)
Pass :
ID :
自動ログイン
トップ特集・オリジナルコンテンツレーベル名鑑Striker Lee/Lee's/Jackpot/Justice
レーベル特集
Striker Lee/Lee's/Jackpot/Justice(ストライカー・リー/リーズ/ジャックポット/ジャスティス)Text by Harry Hawks
音楽の流行を生み出すクリエイターとしてバニー'ストライカー'リーの右に出る者はいない。レゲエが最盛期だった1970年代、レゲエ産業は彼の言葉に全てを託し彼の一挙手一投足を真似しようとした。
Striker Lee/Lee's/Jackpot/Justice
設立地 ジャマイカ キングストン 
主要スタジオ
Harry J Studio
Randy's Studio
Studio One
WIRL studio
設立者
Bunny 'Striker' Lee
プロデューサー
エンジニア
King Tubby
Sylvan Morris
関連アーティスト
関連レーベル
「友人たちはバニー(Bunny)もしくはストライカー・リー(Striker Lee)と俺のことを呼んでいた」本名エドワード・オーサリヴァン・リー(Edward O'Sullivan Lee)は1941年の8月21日にジャマイカのキングストンで生まれた。トレジャー・アイル(Treasure Isle)のデューク・リード(Duke Reid)、スタジオ・ワン(Studio One)のクレメント'コクソン'ドッド(CS Dodd)、ビヴァリーズ(Beverleys)のレスリー・コング(Leslie Kong)たちのレコードの売込みから自身の音楽ビジネスを始めた。

「ジャマイカが独立した1962年、俺は"Uni Motors"というところで働き休みのときにはデリック・モーガン(Derrick Morgan)と共にスタジオに出入りしていた。俺はスリム・スミス(Slim Smith)、デリック・モーガン、ロイ・シャーリー(Roy Shirley)とよくつるんでいて、彼らと一緒に自分のビジネスをおこしたんだ。デリック・モーガンは今となっては義理の兄弟だが俺の姉妹と結婚する前は本当に仲が良くて頻繁に出かけたりしたな。俺は昔レコードの売り込みをしてたんだ...10代を対象としたダンス・パーティーでレスリー・コング、コクソンやデューク・リードのレコードかけて踊っていた。もし売り込みたいレコードを持っていたらそれをプレイし、それに乗せて踊り、新しい踊り方を見せつけるんだ。俺たちは新しい踊り方を創り出す!それだけだったんだ!」バニー'ストライカー'リー

スカの人気が衰退し始めた頃、バニーは様々なプロデューサーたちのプロダクションの売り込みをしていたときに出会った多数の業界人や友人を利用し、当時始まったばかりだったロックステディ・スタイルを使い自身のレコードのプロデュースを始めた。

「俺は音楽ビジネスには関わってはいたが、1967年まで自発的にやろうとはしなかった。ジャマイカに来た最も偉大な人物はスカからロックステディへとビート全体を変えたリン・テイト(Lynn Taitt)だ。彼はトリニダッド出身でジャマイカには数年しかいなかったがな。彼は訪問者として来たのに音楽ビジネスの全てを変えちまった。また彼は親切でもあったな。俺がビジネスを始めたとき、3人のバンド・メンバーを引き連れていた彼に20ポンドしかあげられなかったが彼は快く受け取ってくれたんだ。それで俺たちはロイ・シャーリーの'Music Field'という曲をやった。俺が駆け出しの頃はこいつらに助けられたな」バニー'ストライカー'リー

ストライカーが頂点に上り詰める過程でさらにたくさんのプロデューサー、ミュージシャン、アーティストたちが彼の手助けをしたが彼はいつも恩返しを欠かさなかった。

「カーリーとファミリーマン(カールトン&アストン・バレット)(Carlton & Aston Barrett)兄弟はしばらくの間俺のリズム・セクションを担当していたが、俺たちがヒット曲を出し始めるとみんなこぞって彼らを使いたがり、ハックス・ブラウン(Hux Brown)を筆頭に全ての大物ミュージシャンたちは彼らと共演したな。そして2人はその時代を代表するミュージシャンになったのさ」バニー'ストライカー'リー

彼のヒット曲は止まらず1969年マックス・ロメオ(Max Romeo)によるロックステディよりも早いスタイルのレゲエによる'Wet Dream'がイギリスのバニーのレーベル"Unity"から発表され、BBCが曲を禁止したため一切ラジオでの放送はされなかったにもかかわらずイギリスのチャートに25週連続でランク・インした。アラン・フリーマン(Alan Freeman)は日曜の午後ラジオ・ワンにて発表されるチャートで"マックス・ロメオのレコード"という呼び方のみでこの曲を紹介していた。

「"Wet Dream (夢精を意味する)"は曲になったんだ!俺が"Hold You Back"リズムを使い、2人でコクソンのスタジオでヴォーカルを入れたんだ」バニー'ストライカー'リー

ストライカーのヒット曲を生み出す類稀な才能には先例は無く、1969、1970、1971、1972と彼はジャマイカのトップ・プロデューサーとしての栄誉を贈られた。1971年には同年に行われた"フェスティバルの歌コンテスト"で圧倒的な勝利を得たバニー特有の"ブロークン・ビート"を使用しエリック・ドナルドソン(Eric Donaldson)が歌ったスロー・テンポな'Cherry Oh Baby'でジャマイカ初となるゴールド・レコードを受賞した。

「フェスティバルの予選が行われていた夜に俺はデルロイ・ウィルソン(Delroy Wilson)や他のアーティストたちと一緒に出かけたんだ。エリック・ドナルドソンがこの曲を歌ったときデルロイがこの曲を使いたいといってきて次の日にレコーディングすると決めた」バニー'ストライカー'リー

上記で述べた有名な曲のインストゥルメンタルまたは異なるヴォーカリストによるヴァージョンはシーンの確立された一部分でありキングストンでずいぶん前から始まっていて、他のプロデューサーたちが発案したリズムの再演やヴァージョン録りは終わりのない音楽業界での競争の中で日々一般的に行われていた。

「俺たちは毎回違うミュージシャンたちを雇って曲を録音する程の金は無かったから同じリズムを何度も何度も繰り返し使ったんだ...」バニー'ストライカー'リー

ヴォーカル抜きまたはホーンやオルガンのパートを加えた単純なリズムのみのヴァージョンは当時すでに行われていたことから特別な躍進はなく、バニー・リーとキング・タビー(King Tubby)は後にダブとして知られるようになるこの音楽の発展に貢献した。

「そのときからタビーは大勢の人たちに知られるようになった。俺たちは次の曲を録音しナイニー(Winston ‘Niney’ Holness)はそれのUロイ(U Roy)のもとへ持っていき、彼は『おい!また同じの曲の違うヴァージョンじゃないのか?』といったんだ。そしてナイニーが戻ってきてこういった『ストライカー!今からこれは"ヴァージョン"って呼び方だ』ってな」こうして"ヴァージョン"という名前がつけられた。

「俺は"バニー・リー・ラジオ・ショー(Bunny Lee Radio Show)"という番組を持っていてタビーのことを宣伝していた。"もし自分用のダブを録音したい、または最新のレコードやアイテムが欲しかったらキング・タビーのところをチェックしろ"ってな。その当時俺はヴァージョンを録音してなかったから、タビーのところにいってダブを聴くしかなかった。タビーが有名になり始めてから俺はタビーをエンジニアとして使ってミックスをしていたのさ」バニー'ストライカー'リー

ストライカーはソウル・シンジゲート(Soul Syndicate)のドラマーであるカールトン'サンタ'デイヴィス(Carlton 'Santa' Davis)と共に"フライング・シンバルス(Flying Cymbals)"というフィラデルフィアのディスコ・サウンドをもとに"フライヤー(Flyer)"として知られるようになる新しいスタイルのリズムを制作した。

「そうだ...俺はケンタッキー・フライド・チキンをよく食ってたんだが、これをやるとみんな『ストライカーに取られる前にフライヤーを片付けろ』っていってな。フライヤーっていうのは俺の大好物だったチキン・ウイングのことだ。そして彼らは『ストライカー、いつ飛び立つんだ?』なんていったものさ」バニー'ストライカー'リー

この新しいスタイルでの最初の録音はセンセーションを巻き起こしたジョニー・クラーク(Johnny Clarke)が彼なりに解釈したアール・ゼロ(Earl Zero)の'None Shall Escape The Judgment'だった。ストライカーはタビーに自身のホーム・タウン・ハイ・ファイ(Home Town Hi Fi)で特別にプレイさせるためこの曲を渡し、直ちに彼のよく使用するダブ・プレートになったがストライカーがレコードでこの曲をリリースすると決めたときタビーはこれ以上この曲を独占できなくなってしまうため快く思わなかった。タビーの見習いだったフィリップ・スマート(Phillip Smart)がB面の強烈なダブを担当し"This A Best Version(最高のヴァージョン)"というぴったりな名前がつけられた。

ストライカーの"フライヤー"リズムは1974年の年間を通しシーンを完全に支配し、それは翌年に入っても続いた。このリズムはキングが自身のドロミリー・アヴェニュー・スタジオで機材をコントロールしている写真をカヴァーに使用し発表された2枚のダブ・アルバム「King Tubby The Dub Master Presents The Roots Of Dub」と「King Tubby The Dub Master Presents Dub From The Roots」で聴くことができる。アルバム「Brass Rockers: Bunny Lee & King Tubby Present Tommy McCook & The Aggrovators」はきらびやかなトミー・マクック(Tommy McCook)と彼のテナー・サックスをフロント・カヴァーに使用し、裏面にはアグロヴェーターズ(Aggrovators)バンドの全メンバーの写真と各自が担当する楽器が記された。トータル・サウンズ(Total Sounds)からリリースされたこれらのアルバムは音楽愛好家や世界に向けてキング・タビーをプロモーションする最初のレコードだった。

「ミュージシャンたちの名前がLPのスリーブに記されているのを見たことが無かったから彼らの名前を書き始めた。俺が最初に始めたんだ。皆のことを平等に認めてもらわないとな!誰がオルガンを担当したとか、誰が何をやったとか。スライとサンタ、どっちがドラムを担当したか分かるようになったから彼らは名を馳せることが出来たんだぜ」バニー'ストライカー'リー

「しかし先例を作ったのはタビーの"Roots Of Dub"だった。レゲエにおけるこの進化を今まで耳にしたことが無かったたくさん人々のもとにこの音楽が届いたのは当時ジャマイカを引率するディストリビューターだったトータル・サウンズ(Total Sounds)が配給を担当していたからだ」ベス・レサー(Beth Lesser)

ストライカーは絶えず変わっていくこのビジネスで変わることなく活動を続けている少ない人物の中の1人である。近年彼が録音をすることは稀だが、いまだジャマイカ音楽産業の最重要人物であり彼のリズムや曲は永遠に再利用されサンプリングされ続けている。過去30年彼はジャマイカ、イギリス、アメリカ、カナダ、日本、フランス、オランダ、ドイツなど多数の国々のレコード会社で自身の豊富なカタログの販売を許可、ライセンスの再発行、再発盤を発売することに時間を費やしている。2008年の10月に行われたキングストンの国際的栄誉授与式において"音楽産業においての40年以上に渡る献身的な活動"を称えられ国民栄誉賞を贈られた。
2011/02/01 掲載 (2014/03/27 更新)
Copyright (C) 2024 Dub Store Sound Inc.
無断転載は固くお断りしております
関連タイトル
B side) Bobby James - Let Me Go Girl
¥6,800
試聴する
B side) Caribbeans - Butterflies
¥24,800
試聴する
B side) From Creation I Man There
¥9,800
試聴する
Tommy McCook - Instrumental(Justice)LP=VG++/MARKS/STAIN CVR=VG/WOS
¥7,800Sold Out! 試聴する
B side) Upsetters - Vrese Two
¥12,800
試聴する
Cornell Campbell - The Minstrel(Jackpot)VG++/EW/WOL/SOL/no credit
B side) Put Yourself In My Place
¥7,800Sold Out! 試聴する
B side) Norman Grant - Bloodshot Eyes
¥2,240
試聴する
>>レーベル: Striker Leeの全在庫商品を見る
>>レーベル: Lee'sの全在庫商品を見る
>>レーベル: Jackpotの全在庫商品を見る
>>レーベル: Justiceの全在庫商品を見る
>>プロデューサー: Bunny 'Striker' Leeの全在庫商品を見る