Junior Delgado(ジュニア・デルゲイド)Text by Harry Hawks
30年間、有名ヒットを輩出してきたキャリアを持つ影響力を持つルーツ・ヴォーカリスト。
Junior Delgado
本名 |
Oscar Delgado Hibbert |
出生 |
1954年8月25日 |
死没 |
2005年 |
出身地 |
ジャマイカ キングストン |
関連アーティスト |
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ジュニア・デルゲイド(Junior Delgado)別名インクレディブル・ジャックス(Incredible Jux)の精神を伝えるには言葉だけでは不十分である。彼に出会うことの出来た幸運な人に残した、にじみ出る永遠の暖かさと愛想は印象的だ。彼の歌は明確かつ率直に真実に立ち向かったが隠された表面の底には思いやり、理解、希望が溢れていた。
オスカー・ヒバート(Oscar Hibbert)は1954年8年25日ジャマイカのキングストンに生まれ、ダウンタウン、ルーク・レーン(Luke Lane)で育ったのちデュハニー・パークに定住した。ジュニア・デルゲイドの伯父であったレニー・ヒバート(Lennie Hibbert)は成功したバンド・リーダーで、スタジオ・ワン(Studio One)でアルバム「Creation」、「More Creation」の2作を録音したビブラホンのマエストロだったことでも知られる。ジュニア・デルゲイドは彼の伯父の足跡を辿り教会で歌い始め、地元のタレント・コンテストや学校のコンサートで賞を受賞するようになった。ワールド・シアターでのタレント・ショーで成功を収めるとオーヴィル・スミス(Orville Smith)、ジュニア・マーシャル(Junior Marshall)、グラスフォード・マニング(Glasford Manning: アビシニアンズAbyssinians、カールトン&ヒズ・シューズ(Carlton & His Shoesまたの名をCarlton & The Shoes)のカールトン(Carlton)、ドナルド(Donald)そしてリンフォード・マニング*Lynford Manningの兄弟)とヴォーカル・グループ、タイム・アンリミテッド(Time Unlimited)のメンバーとしてプロのキャリアを開始した。
リー・ペリー(Lee Perry)のもとで行われた彼らのデビュー・レコーディング'Reaction'はジョー・ギブス(Joel Gibson)のレーベル、リフレクションズ(Reflections)から1973年にリリースされ、ソロとしてそしてタイム・リミテッドとスクラッチのもとでアルバム2作をコンパイルできるほどの作品を録音。これらのレコーディングの大半がリリースされていないが、本人はスクラッチと過ごした時間は自身のヴォーカル・スタイルを発展させるきわめて重要な転機になったと語る。
タイム・アンリミテッドはトータル・サウンド(Total Sounds)、トミー・コーワン(Tommy Cowan)とワーウィック・リン(Warwick Lyn)のタレント・コーポレーション(Talent Corporation)、さらにはヘブンリー・シンガーズもしくはヘブン・シンガーズ(Heavenly SingersもしくはHeaven Singers)としてルーピー・エドワーズ(Rupie Edwards)と録音したが1975年にそれぞれの道へ進むことになり解散。オーヴィルとグラスフォードはジュエルス(Jewels)を結成、その一方、ジュニアはソロのレコーディング・キャリアを開始しナイニー・ザ・オブザーバー(Winston 'Niney' Holness), エスニック・ファイト(Ethnic Fight)のラリー・ローレンス(Larry Lawrence)、ジョー・ギブス等と活動を行った。1977年、リー・ペリーのもとに戻るとヘプトーンズとデニス・ブラウン(Dennis Brown)をバッキング・ボーカルに痛烈な'Sons Of Slaves'を録音、奴隷制度への怒り叫びが届けられた。この攻撃的な怒りの楽曲はアップセッターの7インチ盤でリリースされ、エクステンディド12インチ・ミックスはカールトン・ジャックソン(Carlton Jackson)の'History'と一緒にカップリングされた。あからさまな政治的態度と攻撃的なアプローチは後にジュニア・デルゲイドが発表するすべての作品に反映されるようになったと言える。
ジュニアはレゲエにおいてもっとも印象深いベースラインに乗せたアール'チナ'スミス(Earl Chinna Smith)によってプロデュースされデニス・ブラウンのDEBからリリースされた'Titian'で政治家たちを非難、このリズムはのちに'Jah Jah Say'でも起用されている 。デニスとジュニアの友好関係はデニス・ブラウンの悲しい死が訪れるまで続いた。1978年、デニスのDEBからジュニアのデビュー・アルバム「Taste Of The Young Heart」がリリースされ、翌年には「Effort」が同じくDEBから発表された。これらのLP盤には'Big Shot'や'Warrior No Tarry Yah'といった多数の痛烈なシングルが収録され、数多くの存在するジャマイカ人ボーカリストたちの最前線へと押し出した。オーガスタス・パブロ(Augustus Pablo)と'Away With Your Fussing And Fighting'と'Black Man's Heart Cries Out'を制作、70年代も終わりに近づくとスライ&ロビー(Sly & Robbie)のために'Fort Augustus'を録音した。怒りが込められた作品はジュニアの評価を決定付けただけでなく、デジタルで制作されたレゲエの大衆化にも貢献した。そうして彼はプロデュース業にも着手、アルバム第3作目となる「Bushmaster Connection」を自信のレーベル、インクレディブル・ジャックス(Incredible Jux)から自主制作リリースした。
1983年、ジュニアは18ヶ月間を刑務所で過ごし、強制的にレコーディング活動やライブパフォーマンスを停止されられるも1985年に'Broadwater Farm'で活動を再開。この楽曲はのちにノース・ロンドン地区で勃発した暴動の前兆を示唆するものだったと言える。サウス・ロンドンに拠点を構えたファッション・レコーズはアルバム「It Takes Two To Tango」をプロデュース、彼の名前を再び回復させる手助けを行った。ジャマイカに帰国した1985年、ヒットメイカーのヘンリー'ジュンジョ'ロウズ(Henry 'Junjo' Lawes)、キング・ジャミー(Lloyd James)、スケンドン(Skengdon)でシングルやアルバムの制作を行なった。そうして、彼の音楽に往年の重要政治家の威厳や権力が反映されるようになった。1986年に彼はこのスタンスを持ち合わせ革命的な録音'Raggamuffin Year'を長年にわたる友人、仲間オーガスタス・パブロのために制作した。年末にロンドンのアストリア・シアターで行なわれた彼らのライブ・ショーはイギリス首都におけるレゲエ・ミュージックの歴史的な出来事だった。長年にわたった彼らのパートナー関係は結果として完璧なアルバム「RaggamuffinYear」と「One Step More」を生み出した。また、ヒットから新しい活力を得たインクレディブル・ジャックスからもレコードのリリースを行ない、ヤミ・ボロ(Yami Bolo)、ホワイト・マイス(White Mice)、ヴェテランのジョニー・オズボーン(Johnny Osbourne)といったルーツの伝説的アーティストの素晴らしいレコードをプロデュースした。
90年代前期には永久的に拠点をロンドンに移し、堂々とした存在感をイギリスのレゲエ・シーンに果てしなく見せ付けた。サウス・ロンドンに自身のスタジオをオープンさせると、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカで数々のライブに出演しダイナミックなパフォーマンスを見せた。また、往年のジュニア・デルゲイドを聞きたいという絶えない要求から、多くのヒット曲を集めたコンピレーション・シリーズ「Treasure Found」をリリース。ドラムとベースのフュージョンが特色と言えるビッグ・キャット(Big Cat)やV2とのコラボレーションは大きな賞賛を受け、エイドリアン・シャーウッド(Adrian Sherwood)とスキップ・マクドナルド(Skip MacDonald)はジュニアの威厳と情熱的な信仰を決して犠牲にすることなく彼と彼の音楽をクロスオーバーの観衆に届けた。2005年4月11日、ジュニア・デルゲイドが早すぎる死を迎えた時、彼はガッシーP(Gussie P)のために新しいアルバムを往年の伝統的なルーツによる枠組みで制作中だった。また、エイドリアン・シャーウッドとスキップ・マクドナルドによる「Invisible Music」と題されたアルバムのリリースを予定していた。
輝かしいキャリアの初めから最後まで、ジュニア・デルゲイドは主題を持った音楽を制作した。彼の音楽におけるメッセージは一貫して不変的、ユニークな声によって危険で鋭い真意が明白に届けられた。ジュニア・デルゲイド本人と彼の"incredible/驚くべき"音楽は絶対に消えることのないだろう1人の男の遺産である。
2010/07/06 掲載 (2013/12/11 更新)