アイランド(Island)のマンゴ・レコーズ(Mango Records)がその年の終わりに素晴らしい自主制作LP「Black Roots」をリリース、1980年にはイギリスに渡航、長期間滞在しイギリスのレゲエ・シーンに計り知れない影響を与えた。イギリスで発展したラヴァーズ・ロックへの探求も行い、ジャマイカやブラック・ルーツの録音と変わらず素晴らしく'Lovers Rock'やキャロル・トンプソン(Carroll Thompson)とのデュエット曲'Make It With You'は大ヒット。シュガーが次から次へと生みだす楽曲は彼の驚くべき才能によってだけ放たれた。ホークアイ・レコーズのロイ・フォーブス・アレン(Roy Forbes Allen)の'Good Thing Going (We've Got A Good Thing Going)'のカヴァーが1981年イギリスのナショナル・チャートで入りを果たしその年の春にRCAライセンス契約が結ばれると4位を記録。メジャーのレーベルがシュガーに契約を持ちかけるも彼はユース・プロモーションの仲間が含まれていない限り契約書にサインすることを拒否。言葉として不要かもしれないが自身の利益を犠牲にして他人に利益を与える彼のアプローチはメジャーのレコード会社が望んでいるものではなかった。
「シュガーはゲットーの若者からスーパースターに出世。しかし同じポジションにいる他の大勢とは違い、自分が得た地位よりも才能あるゲットーの若者を引き取り、音楽を教えることの方に力を入れた。本当のレゲエ音楽のルーツを教えることを選んだのだ」Reggae Quarterly Number 6(1985年)、記事'Youth Promotion'ベス・レッサー(Beth Lesser)著より
シュガーは自身と他のプロデューサーのためにレコードを作り続け、それはダンス・ホール期を明確するものになった。1983年にヌラ(Nura)からリリースされた「Slice Of The Cake」は独力でこのジャンルを創造したシングルで「一切れのケーキをくれたら、私がそれを焼く」とこのことを明確にしようと努めた。彼の提供する作品はいつも他のプロデューサーたちに必要とされ、それを物語るようにジョージ・パン(George Phang)の'Buy Off The Bar'、チャンネル・ワンのフーキムの'No Vacancy'と'Too Much Backbiting'など数え切れないプロデューサーたちに良質な音楽を提供することを怠らなかった。彼の強大な影響力が示すように彼のカタログは膨大で全てを網羅している。デジタル・リズムが主流になってくると、彼はスライ・アンド・ロビー(Sly & Robbie)のために録音した'Rub A Dub Sound'と'Herbman Hustling'もう一度表舞台に立った。彼らの刺激的な作品は、あまり有名ではないアーティストたちが主導権を握り一時的に行き詰っていたダンス・ホール音楽の道を開いた。
彼はユース・プロモーション・サウンド・システム(Youth Promotion Sound System)を伝説的なディージェイ、ジャー・スティッチ(Jah Stitch 現 Major Stitch)と共に設立、彼がセレクトとオペレートを担当し、キングストンで一番の才能を持ったディージェイが誰であるか競わせるように、マイクを誰に最初に握らせるかを選んだ。そしてユース・プロモーションはすぐにトップ・サウンド・システムの一つに仲間入りし、彼らのセッションを納めたテープは鑑定家の間では非常に重要視されている。