Dillinger(ディリンジャー)Text by Harry Hawks
70年代後期、キングストンのダンスホール・サウンドを世界中のオーディエンスに知らしめたディージェイがディリンジャーだ。
Dillinger
本名 |
Lester Bullocks |
出生 |
1953年6月25日 |
出身地 |
ジャマイカ キングストン |
関連アーティスト |
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1953年の6月25日にジャマイカのキングストンでレスター・ブロックス(Lester Bullocks)として生まれ、彼の母親がアメリカに移住したのちに祖母に育てられた。リオ・コブレ(Rio Cobre)、グリニッジ(Greenwich)、ボーイズ・タウン・スクール(Boys' Town School)などに通い、"ダンス"に通い始めた頃に自分の天職を見つけ、サウンド・システムの世界に完全に浸った彼の最初のヒーローはキング・スティット(King Stitt)とUロイ(U Roy)だった。この頃はレコードに乗せて喋るという"芸術"は普通ダンス・ホールでしか聴くことは出来ず、ディージェイを録音するということはごく稀だった。もしそういった先駆者たちを聴きたければ、直接生で聴くほかなかった。
「俺は彼らをダンスホールに見に行ったものだ。Uロイがパフォームしていたキング・タビー(King Tubby)のハイ・ファイ、それにコクソンのダウン・ビートを聴いた。それにキング・スティットを聴いていた」ディリンジャー
レスターはもともと地元のプリンス・ジャッキー(Prince Jackie)のサウンドでディージェイをし、そこでは'Tat'として知られていたが、徐々にキングストンのサウンド・システム・サブカルチャーに関わり始めてきた頃、彼の個人的なお気に入りはエル・パソ・サウンド・システム(El Paso Sound System)でディージェイをしていたデニス・アルカポーン(Dennis AlCapone)ことデニス・スミス(Dennis Smith)になっていた。自分のヒーローに劣らぬよう"ヤング・アルカポーン"、または"アルカポーン・ジュニア"と自らを名づけたほど。当初、同じくエル・パソにあこがれるサミュエル・ザ・ファースト(Samuel The First)と共にアルカポーンに自分に歌わせて欲しいとせがんでいたが、非常に熱心でもあった彼はサウンド・システムの全ての要素に自身の身をおいた。その中には本当に辛い仕事も含まれていた...
「スピーカーをトラックに運ぶ手伝いもしたが、俺はぜんぜん気にしなかった。音楽を愛していたからだ」ディリンジャー
1972年、リー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)とアップセッター (Upsetter)はダイナミック・サウンズ(Dynamic Sounds)で夜行われるレコーディング・セッションをデニス・アルカポーンのために企画し、"ヤング・アルカポーン"は同行を申し出た。スクラッチが "デニスの被保護者"の将来性に気付くのにそう時間はかからず、彼は生まれつきの才能を持ったこの青年のためにレコーディングの準備をした。彼らは一晩中スタジオにこもりスクラッチの昔のナンバー'Tighten Up'からアップセッターの新曲'French Connection'など次々に歌入れをし、それらは全て発表された。 スクラッチのレスターに対する理想像は"アルカポーンよりの悪党"であり、禁酒時代のアメリカのギャングスタであったジョン・ディリンジャー(John Dillinger)から取り彼を改名させ、新しいスターは誕生したのだった。
「お前は"ヤング・アルカポーン"じゃない。お前は"ディリンジャー"だ」リー'スクラッチ'ペリー
彼らは2枚のアルバムが出せるほどの録音をしたのだが、このマラソンのような録音全てはシングルのみの発売となり、その中には'Tighten Up Skunk'も含まれたが全ては大ヒットにはいたらなかった。翌年彼はスクラッチの元へ戻り、'Episode Three Of Cloak And Dagger'の歌入れをし、名曲'Dub Organizer'ではキング・タビーの非凡な才能を"The Dub Organizer(ダブの設立者)"と主張し、彼のドロミリー・アヴェニューのスタジオを宣伝した。
ディリンジャーは以前に彼の懇願を無視していたプロデューサーたちが今は熱烈に彼を録音しようとしていることに気付いた。続く数年彼はヴィヴィアン'ヤビー・ユー'ジャクソン(Vivian Jackson)のために'Freshly'を、バニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)のために'Commercial Lock'と'Jah Jah Dub'を、オーガスタス・パブロ(Augustus Pablo)のために' Brace A Boy'と'Downtown Rock'を、トニー'プリンス・トニー'ロビンソン(Tony 'Prince Tony' Robinson)のために'Fat Beef Skank'と'Stick The Beef'などを録音し、そのほかのプロデューサーともに様々な成功を手にした。しかし彼がブレントフォード・ロードにたどり着いたとき、ホレス・アンディ(Horace Andy)の'Fever'、スタジオ・ワン(Studio One)インストゥルメンタルの定番曲'Full Up'、'Mojo Rock Steady'や'Real Rock'などの厳選された曲だけしか録音しなかった。彼のスタジオ・ワンからリリースされた、長い間愛されて続けている「Ready Natty Dreadie」での革新的なマイク・テクニックはコクソンの素晴らしい幾つかのリズム・セレクションに加えられ、今聴いても最初にリリースされたときのようにどの点から見ても刺激的である。
「たくさんのアーティストはLPを嬉しく思う。なぜなら7インチ・シングルは鉄砲の小さな弾丸みたいなものだがLPはロケットの打ち上げか、遠くまで飛ぶ長距離ミサイルみたいなものだからだ」ディリンジャー
ディージェイの活動期間はつかの間であり、ダンスの現場か7インチ・シングルで聴くことがベストだが、一番売れたアルバム(それは彼らの知名度の分だけリリースされる)が彼らの評判を永遠に決定づけてしまう。その中にはUロイの「Version Galore」、デニス・アルカポーンの「Forever Version」、Iロイ(I Roy)の「Gussie Presenting I Roy」、ビッグ・ユース(Big Youth)の「Screaming Target」などがある。ディリンジャーはスタジオ・ワンからのデビューLPのリリース後、チャンネル・ワン(Channel One)があるマックスウェル・アヴェニューに移り、そこからリリースされたアルバム「CB200」は70年代後期のディージェイの象徴的なスタイルを収録し、先ほど述べた"曲に乗せて喋る"ディージェイたちは70年代前期を象徴したスタイルである。
グレゴリー・アイザックス(Gregory Isaacs)が魅力的にカバーしてみせたボブ・アンディ(Bob Andy)の名曲'Sun Shines For Me'をDJカットしたタイトル曲はキングストンで流行ったバイク、ホンダのCB200を露骨な宣伝で称えた。フーキム兄弟(Joseph Hookim)のレーベル、ウェル・チャージ(Well Charge)とディスコ・ミックス(Disco Mix)からリリースされた'Fire Bun'、'Coyamanas Park'、'Natty A General'、'Ragnampaiza'、'Eastman Skank'など、彼は敵なしのヒットを味わった。1976年から1977年までチャンネル・ワンが一番のスタジオであり、レボリューショナリーズ(Revolutionaries)が一番のインストゥルメンタル・バンド、ザ・マイティ・ダイアモンズ(Mighty Diamonds)が一番のボーカル・グループであり、ディリンジャーが一番のディージェイだった。
討論を巻き起こす寸前の事態をよそに、彼と同時代のアーティストたちが持っていないウィットと洞察力を駆使し、ディリンジャーはゲットーの苦しい日々の生活とジャマイカのレコーディング・ビジネスの浮き沈みに的を絞ってレコードを発売した。「Cocaine In My Brain」はディリンジャーの世界的な大ヒットとなった。皮肉なことに彼の普段のディージェイ・スタイルとは少し違い、リズムはファンクを基にし、チャンネル・ワンのトレードマークだった二重のドラム・ビート、"ミリタント"とは明確に違っていた。アルバムは世界中に浸透し、彼はすぐに成功を確立。彼はパンク絶頂期にヨーロッパ・ツアーを行い、キングストンのサウンド・システムでの幾度にも渡る長い夜の巡業で養われた彼のステージはジャマイカのディージェイの芸術性をまったく新しいオーディエンスに知らしめた。
彼はディージェイが一つの芸術の形だと認識される前に苦労を重ね会得した。ジャマイカ最後の旧派ディージェイのひとりであるディリンジャーは、その"芸術"を世界中のオーディエンスに知らしめた一人である。
2010/08/10 掲載 (2012/11/08 更新)