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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Toots & The Maytals
アーティスト特集
Toots & The Maytals(トゥーツ&ザ・メイタルズ)Text by Harry Hawks
メイタルズがひとつの音楽を創った、"地球上にそのようなものは何も無かった"、それはジャマイカにてジャマイカ人が創ったものに違いなかった。 他の歌手たちやコーラス・グループは、自分とよく似たアメリカ人のそれらのように歌おうとすることがしばしあった、しかしメイタルズはジャマイカ人の歌手たちがジャマイカ人らしく歌えるようにその道筋を舗装していった。
Toots & The Maytals
メンバー Frederick 'Toots' Hibbert
Nathaniel 'Jerry' McCarthy
Henry 'Raleigh' Gordon
活動期間 1963年 ~
結成地 ジャマイカ キングストン 
関連アーティスト
「あの若者たちはプライベートではフレデリック・ヒバート(Frederick Hibbert)、19歳のリード歌手、ヘンリー・ゴードン(Henry Gordon)27歳、そしてネザニエル・マッカーシー(Nethaniel McCarthy)25歳として知られていた。そして彼らは全員ジャマイカ人である」ノーマ・ドッド(Norma Dodd)

フレデリック'トゥーツ'ヒバート(Frederick 'Toots' Hibbert)、ヘンリー'ラリー'ゴードン(Henry 'Raleigh' Gordon)、そしてマティアス(Matthias)としても知られたネザニエル'ジェリー'マッカーシー(Nethaniel 'Jerry' McCarthy)がキングストンの音楽シーンに登場する以前、ジャマイカ音楽、特にジャマイカの歌謡曲はアメリカ合衆国のリズム&ブルースのちょっとした地域版のようなものであり、その大部分はアメリカや南米からのレコードのカバーであった。50年代後半から60年代前半にかけて、シャッフル、ブギーそしてスカのインストの録音が急激に発展し、独自のアイデンティティを確立していった。1966年、熱狂したビートは減速してクールで、エレガントなロックステディのテンポへと移行し、歌手たちはスポットライトに向かって一歩踏み出した。しかしながら、メイタルズ(Maytals)は騒がしいスカの伴奏にも全く問題なく歌うことができた。トゥーツのかん高い、良く響く歌声は例外なく、スカタライツ(Skatalites)のいかなる演奏の統制をとり、もしも間奏があろうものならジェリーとラリーがすぐさまその間を埋めに入った。彼等の鉄製フェンスのような音には全くギャップが無く、歌うように、流暢に作曲ができるトゥーツ・ヒバートの作曲センスは、どんなものも合体させ全ての物事を根本的なインスピレーションの源泉にすることができた。

「メイタルズ、間違いなく最も胸をわくわくさせるジャマイカ生まれのコーラス・グループは、人生のほとんどを西キングストンで過ごし、暮らした...彼等独自のスタイルと言語と共に...」

「これらの楽曲は彼等の生活から生まれた本当の出来事を引用たものであり、それにより彼等はその楽曲に本物の魂をあてはめることができた。彼等がアイドル化され、たくさんのエンターテイナーに賛美されるのは極めて正当なことである」The Sensational Maytalsのライナーより

「ラリーがグループの名前を考えた」というメイタルズは1962年5月、スカ時代の幕開けに出会った。「メイタルズは万能なグループで、メンバー全員が教会のコーラスにも属していた」そして彼等がスタジオ・ワン(Studio One)のコクソン(CS Dodd)のために行った最初の録音、'Six And Seven Books Of Moses'と'Hallelujah'は伝統的なゴスペルの手法により彼らの通っていたバプティスト教会で行われていた礼拝の熱烈で信心の深いアプローチを彼らの非宗教的な音楽に変形させていった。

しかし、たくさんのヒットを飛ばしながらもグループは金銭的な相違によりスタジオ・ワンと別れることとなり、コクソンの最大の競争相手であり、元雇い主のプリンス・バスター(Prince Buster)の下で再び働くようになった。彼らはジャマイカのフォーク・ソング'Dog War A Matches Lane'に乗せて、自らの不満を"このジャングルから出て行くんだ。俺たちはブロードウェイに行く...(We're out of the jungle. We're going to Broadway...)"と解釈し、この楽曲は困惑的ながらも、ジャマイカのワイルドベルズ(Wildbells)からは'Jamaica Ska'、ブルー・ビート(Blue Beat)からは'Dog War'そしてイギリスのアイランド(Island)からはフレイムス(The Flames)名義で'Broadway Jungle'のように3つの異なったタイトルでリリースされた。形成期にあたる彼らの初期作品の多くがクレジットをフレイムスやバイキングス(The Vikings)とされたことをトゥーツはこう説明する。

「ジャマイカのプロモーターはみんな、俺たちを様々な名前で呼んだ。それはなぜならば奴等は俺たちに著作権使用料を稼いで欲しくなかったんだ」トゥーツ・ヒバート

結果としてプリンス・バスターとの仕事は短期的なものとなり、彼等はバンド・リーダーのバイロン・リー(Byron Lee)の下で録音を再開した。そしてメイタルズは1964年に発表した7インチでジャマイカの音楽史を作ることとなる。レーベル、BMNからリリースされた'Daddy'と'It's You'は両面共に6ヶ月間に渡ってチャートに入線し続け、ジャマイカン・ヒット・パレードでは別々に1位を獲得した。1966年には当時始まったばかりだったフェスティバル・ソング・コンテストで'Bam Bam'が優勝、同レコードは現在ジャマイカのスタンダードとなった。オリジナルのリズム・トラックは、今日のトレンドとは一線を画すながらも幾度と無くカヴァーされてきた。彼等のバイロン・リーとの仕事は1965年、WIRLから発売されたクラシック・アルバム「The Sensational Maytals」に見事に収められている。

ガンジャ所持の為トゥーツが投獄されていた1966年から1968年は彼、個人の悲劇となっただけにとどまらず音楽シーンにギャップを生み出し、たくさんのより劣ったコーラス・グループがその穴埋めになろうと試みた。だがしかし誰もメイタルズの創造性と一貫性には敵わなかった。

「...彼等のフレーズ使いやそのダイナミックな届け方が率直な支持を受けていたのは明らかだった...それらはリスナーのハートを掴み、お気に入りのアーティストとしてのポジションを確立していった。メイタルズと、そのスタイルがレコーディング・ビジネスの方向性を変えた...これが一連のモノマネ・グループを生み出し、それは未だに存続する。なぜかというとそれらは今も原曲の音を捕らえようとしているからだ。褒めてもらうにはまねることは最も誠実なスタイルかもしれない、しかしそれを才能に置き換えることはできない」ノーマ・ドッド

トゥーツが刑務所から出てきてから、最初に行われたリリースは、ジャマイカの音楽史上最も不朽のロックステディからレゲエへの移行期のベース・ライン上で歌われた。'54 46 Was My Number'はトゥーツの自らの刑務所内での実体験を歌う。「まず始めに奴等が言うのは、今すぐお前の番号をよこせ」そしてそれはレスリー・コング(Leslie Kong)のレーベル、ビヴァリーズ(Beverleys)からリリースされた。しかしながら彼等の長期に渡るレスリー・コングとの関係はさい先の良いものでは無かった。実際に、最初のオーディションでメイタルズはデリック・モーガン(Derrick Morgan)によって落とされていた。

「デリック・モーガンは歌手であった、しかし彼はまたビヴァリーズのためにアーティストの選定もしていた... つまりデリックこそがビヴァリーズの重要人物だったのだ... 彼はメイタルズを一度は落選させたものの、その後自らの失敗に気付き、結局彼等は一緒に働くこととなった。はっはっは... 誰だって失敗することはあるんだ。俺たちは今でもそのことを笑い飛ばしているよ。彼は言っていた、"トゥーツはちょっとポカマニアの歌手みたいだよ!"ってな」バニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)

レコードは大ヒットを記録し、彼等はその後'54 46 Was My Number'で再び同テーマに返ってくることとなった。メイタルズはその後、1971年に彼の心臓発作による早すぎる悲劇的な死まで、レスリー・コングと共に活動した。ジャマイカの音楽史にとって、ビヴァリーズの貢献は時に重要視されすぎる場合も多いが、レスリー・コングお抱えのアーティストはメイタルズだけではなく、デズモンド・デッカー(Desmond Dekker)、パイオニアーズ(The Pioneers)、デリック・モーガン、そしてジミー・クリフ(Jimmy Cliff)等が名を連ね、彼は60年代から70年代前半にかけて無類のヒットを楽しんだ。彼はデズモンド・デッカーの'Shanty Town/007'で、初めて若きジャマイカの音楽を国際的にヒットさせたが、彼のプロダクションは今日のレゲエの歴史家に言わせると"本物さ"に欠けているようだ。しかしながら彼が初めてジャマイカの音楽をそれまでの聴衆よりも幅広い範囲で流行らせたプロデューサーであり、評価に値する。彼のレコードは大衆に向けた安っぽい模倣品の寄せ集めではなく、素晴らしいジャマイカの生活、アートを用い、一切の妥協を抜きにして国際的な成功を勝ち得た。

その結果、メイタルズがレスリー・コングと録音した音源は、ジャマイカの音楽史においてその土台の一部を築いたにも関わらず、"ダサい"ものとして捉えられている。彼等が作った必須の7インチのシリーズやアルバムは、1968年から1971年にかけてのレゲエ全体の要約である。メイタルズはまた1968年、'Do The Reggay'において初めてレゲエという単語を使い、1969年のFestival Song Contestでは'Sweet And Dandy'で優勝。'Monkey Man'は僅差で英国のチャート入りを逃すも、'Day And Night'や'Pressure Drop'は今日聴いても当時のようなスリルが沸いてくる。

1972年、彼等はバイロン・リーが蘇らせたダイナミック・サウンズ(Dynamic Sounds)のもとに再び戻り、'Pomps And Pride'で先例のないFestival Song Contestの三連覇を果たした。レゲエ好きたちは、もしレゲエが表舞台に出てくる時代がくるならば...皆、いつかそれが起こることを知っていたのだが...最後の決断が下されるときにメイタルズが最前線にいる、というのを悟っていた。しかしながらその境界線を初めて越えたのは周知の通り、ボブ・マーリー・アンド・ザ・ウェイラーズ(Bob Marley & The Wailers)であった。そこには度々繰り返される、クリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)がメイタルズの署名を得られなかったためボブ・マーリー・アンド・ザ・ウェイラーズと契約した、という話がある...だがしかし彼はその後、メイタルズをアイランド・レコーズに契約することとなった。

トゥーツ&ザ・メイタルズ(Toots & The Maytals)となった彼等は、ダイナミック・サウンズで録音されたアルバム、「Funky Kingston」や「In The Dark」などで14年間に渡るレコーディング・キャリアの中ではじめてレゲエ・リスナー以外の聴衆を獲得していくこととなる。1976年にアイランドからリリースされたアルバム、「Reggae Got Soul」は今日に至るまで彼等の最も良く売れたアルバムであり、初めて英国のチャート入りも果たした。中でもいくつかの録音からは彼等の自然性やライブでの雰囲気を受け取ることができたが、1980年、ギネスの世界新記録に挑戦するためにロンドンのHammersmith Palaisで行われたショー、"Toots Live"はミックス・ダウン、マスタリングそして製品までもが一晩のうちに行われ、Conventryで行われた翌晩のコンサートで発売された。

メイタルズはジャマイカ音楽の明白な巨匠である。トゥーツ・ヒバートは引き続きツアーを行い、コンサートは半世紀に渡って音楽を作り続けた彼の歌声のパワーと壮麗さ、そしてステージ上での堂々とした存在感を心から魅惑的に感じ取れる機会である。そして2012年のアルバム、「Unplugged On Strawberry Hill」はトゥーツに5度目のグラミー賞ノミネートをもたらすなど、一度たりとも先細りになったことはない。彼の活動はまだまだ続くのであろう。

参考文献:
Norma Dodd: Liner notes Never Grow Old The Maytals Studio One LP 1966
Liner Notes The Sensational Maytals The Maytals WIRL LP 1965

2018/08/01 掲載
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