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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Rico Rodriguez
アーティスト特集
Rico Rodriguez(リコ・ロドリゲス)Text by Harry Hawks
1950年代後半におけるジャマイカン・ミュージックの創設者の1人。60年に及ぶ彼のキャリアの強さは増すばかりであり、最後には同世代の多くよりも著しく幅広いオーディエンスたちにその名を知られた。
Rico Rodriguez
本名 Emmanuel Rodriguez
出生 1934年10月17日
死没 2015年9月4日
出身地 キューバ ハバナ 
関連アーティスト
船乗りの貿易商人だったキューバ人の父とジャマイカ人の母親の息子、エマニュエル'リコ'ロドリゲス(Emmanuel Rico Rodriguez)は1934年10月17日、キューバのハバナで生まれ、ジャマイカに帰国後、彼の家族はマーク・レーン・エリアに腰を落ち着けた。リコは問題児だったようで、彼の母親はAlpha Catholic Boys Homeのシスター・メアリー・イグナティウス・デイヴィス(Sister Mary Ignatius Davis)の元に彼を送り、そこで多くのジャマイカ音楽の巨匠たちと同じく手に職をつけた。それは製本と印刷の技術だったが。10歳の時、彼の第一希望の楽器はサックスだったが、リコはトロンボーンの演奏に長けていた。彼はAlphaでトロンボーンのレジェンド、ドン・ドラモンド(Don Drummond)の教えを受け、他多くの問題児と同じくリコは"シスターたちの厳しい指導と監督の下"花開いていった。1952年から1954年までリコは見習いとして車の整備師として訓練を受け、Stony Hill Industrial Schoolで学業を修めながら、エリック・ディーン・オーケストラ(Eric Dean Orchestra)に参加、またVere Johns Junior's Opportunity Hourタレント・コンテストに出場し優勝した。

1958年、リコはラスタファリアンに目覚め、ワレイカ・ヒルのカウント・オジー(Count Ossie)の野営に身を置き、そこで大勢の才能あるミュージシャンたちに囲まれて暮らした。

「当時のオジーのキャンプは、その時代のジャマイカが生んだ著名なインストゥルメンタル・ミュージシャンの多くにとって拠点となる場所だった。そこにいたのは不朽の名声を持つドン・ドラモンド、リコ・ロドリゲス、トミー・マクック(Tommy McCook)、ローランド・アルフォンソ(Roland Alphonso)、アーニー・ラングリン(Ernest Ranglin)、ジョニー'ディジー'ムーア(Johnny 'Dizzy' Moore)、'ビッグ・ブラー'ゲイナー('Big Bra' Gaynair)など有名なミュージシャンばかりだった」ベシル・ウォルターズ(Basil Walters)

ワレイカ・ヒルで行われていた長時間に及ぶ、聖書の朗読、ドラミング、チャント、推理などを含む会合、"グロウネーション(grounations)"はリコに、より多くの表現の自由を与え、自身の音楽スタイルを高め続けた。彼はカウント・オジーのバンドと共にメロー・キャッツ(Mellow Cats)の'Rock A Man Soul'をクレメント'コクソン'ドッド(CS Dodd)の元で、またリコをフィーチャーした'First Gone'をハリー・ムーディー(Harry Mudie)のムーディスク(Moodisc)レーベルの元で録音し、キングストンで起こった初期のレコーディング・シーンに関わっていたサウンド・システムのオペレーターから転身したプロデューサーの多くが行ったセッションでコンスタントに演奏し始めた。リコはクレメント'コクソン'ドッドの、ジャイヴィング・ジュニアーズ(Jivin' Juniors)による、'I'll Be Here When He Comes'としても知られるゴスペルに影響を受けた'Over The River'やクルーJズ・ブルース・ブラスターズ(Clue J's Blues Blasters)の一員として'Milk Lane Hop'、そしてセオフィラス・ベックフォード(Thophilous Beckford)の独創的な'Easy Snappin''など数え切れないほどのシャッフルやブギーのレコードで演奏した。またデューク・リーズ・グループ(Duke Reid's Group)の一員としては'Pink Lane Shuffle'を録音し、ヴィンセント'ランディーズ'チン(Vincent 'Randys' Chin)の元では、美しい'Rico Special'でまさに貴重なクレジットを手にした。

1961年、イギリスに拠点を変え、ソニー・ロバーツ(Sonny Roberts)のプレーントーン(Planetone)レーベルや、当時大変人気のあった自身のショーにジャマイカの"ブルー・ビート"を取り入れたジョージィ・フェイム(Georgie Fame)など幾人ものプロデューサーたちのためにセッション・ミュージシャンとして働くなど、彼はロンドンのレコーディング・シーンの常連になった。1964年の春、ボイジー・グラント(Boysie Grant)をヴォーカルに迎えたエズ・ラコ&ランチャーズ(Ezz Raco & Launchers)としてリメイクしたジミー・クリフ(Jimmy Cliff)の'King Of Kings'はイギリスの国内チャートの第44位まで到達した。1966年プリンス・バスター(Prince Buster)が凱旋ツアーとしてロンドンに訪れた時、リコを'Wash Wash'の演奏に参加させ、'Judge Dread'の替え歌'Barrister Pardon'でも彼を起用した。

「今日君たちを祝うためにつれてきたのはブラザー・リコというなの自由な男だ...」'Barrister Pardon'- プリンス・バスター

翌年、リコが演奏するトロンボーンのリフレインはリタ(Rita)とベニー・キング(Benny King)のスカ・ビート(Ska Beat)レーベルからリリースされたダンディ・リヴィングストン(Dandy Livingston)の'Rudy A Message To You'の人気の持続に一役買った。持続するイギリスのモッズやスキヘッズたちのジャマイカン・ミュージックへの興味は、リコにとって、ロンドンでのセッションの仕事が舞い込むことを約束し、クレジットもされないものからバニー'ストライカー'リー(Bunny Lee)の元で録音した自身のアルバム、「Reco In Reggae Land」、ルーディーズ(Rudies)との'Blow Your Horn'まで数あるレコーディングにフィーチャーされた。70年代の初め、一流の外国人ミュージシャンからなるバンド、アンディバイデッド(Undivided)に参加したが、イギリスでのレゲエの人気が落ち始めると、彼は音楽だけでは食べていくことが厳しくなり、ペンキ屋や装飾屋、そして短期間だが絶望的な時期はエセックス、ダゲナムでFordの製造ラインで働いた。

1975年のボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ(Bob Marley & The Wailers)の商業的な成功を受けて、彼はジム・カパルディ(Jim Capaldi)の'Short Cut Draw Blood'、スライ・ダンバー(Sly Dunbar)とロビー・シェイクスピア(Robbie Shakespreare)を含む素晴らしいキャストのセッション・ミュージシャンたちと共に「Man From Wareika」を録音させるために1976年ジャマイカに彼を送り返したアイランド・レコーズ(Island Records)の元でトゥーツ&ザ・メイタルズ(Toots & The Maytals)が録音した「Reggae Got Soul」に参加した。多くがリコの最高傑作と称するこのアルバムはジャズの名門、ブルー・ノート(Blue Note)にライセンスされ、アメリカで発売された。彼は1978年のBob Marley & The Wailers 'Exodus' European Tourのサポート・メンバーに選ばれ、1979年、2トーン・スカ・リヴァイバルが盛り上がりを見せると、ジェリー・ダマーズ(Jerry Dammers)は'A Message To You Rudy'のリメイクでリコに演奏を頼み、このシングルはイギリスの国内チャートで第10位まで上り詰めた。彼はスペシャルズ(Specials)と彼らのファースト、セカンド・アルバムで長期間に及んで活動し、彼の最も記憶に残る功績となった1981年の夏に起こった、シティ・センターをも破壊した暴動の絶望的なムードを捉えた、プリンス・バスターの'Seven Wonders Of The World'の斬新にリメイクした'Ghost Town'は同年、イギリスでナンバーワンになった。

彼はジョアン・アーマトレーディング(Joan Armatrading)、ポール・ヤング(Paul Young)、マルクス・ブラザーズ(Marx Brothers)と共に'Reasons To Be Cheerful (Part Three)'で"Listening to Rico...Groucho, Harpo, Chico..."とリコの手腕を称えたイアン・デューリー&ブロックヘッズ(Ian Dury & The Blockheads)など幾人もの異なったジャンルのアーティストたちと活動し、ジャマイカに帰国する前に1981年の「That Man Is Forward」と翌年の「Jama Rico」をツー・トーンの元で録音した。彼は1987年に再びヨーロッパに戻り、彼に航空券を贈ったスイスのハートビート・バンド(Heartbeat Band)と活動し、その後ロンドンに拠点を移し、1993年にはジャズ・ジャマイカ(Jazz Jamaica)のデビュー・アルバム、「Skaravan」で演奏した。それからリコはジュールズ・ホーランド・アンド・ヒズ・リズム&ブルース・オーケストラ(Jools Holland And His Rhythm & Blues Orchestra)に参加し10枚のアルバムを録音、幅広くツアーに出かけ、ジュールズ・ホーランドのテレビ・ショーでは定期的にその姿を見ることが出来た。この関係でついにリコはある程度安定した収入得ることができ、2007年にはイギリスの音楽産業への貢献を称えられ、MBE(Member of the British Empire)に指名されるなど、収入が増加した上に称賛も得ることに成功した。彼の長く成功に満ちた彼のキャリアが終わりに近づくにつれ、リコはトロンボーンを吹くことが出来なくなってしまったが、人が演奏する彼の音楽に合わせて歌い続けた。

リコ・ロドリゲスは2015年9月4日、ロンドンでこの世を去った。彼は80歳だった。彼には妻のトレイシー(Tracey)がいた。ダブストア一同はこの悲しき折に、彼の妻、家族、友人たちに謹んで心から追悼の意を称する。

参考文献:
Basil Walters: Liner Notes Remembering Count Ossie A Rasta 'Reggae' Legend
Moodisc LP (USA) 1996
2015/10/13 掲載 (2015/10/13 更新)
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