Jah Life(ジャー・ライフ)Text by Dub Store Sound Inc.
ニューヨークを拠点に80、90年代に活躍したレーベル。ハイマン・ライトとパーシー・チンによって運営された80年代のニューヨーク・ダンスホール・シーンのパイオニア的存在である。
Jah Life
設立地 |
アメリカ合衆国 ニューヨーク |
主要スタジオ |
Jah Life |
設立者 |
Hyman Wright |
プロデューサー |
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関連アーティスト |
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関連レーベル |
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1980年代のニューヨーク・シーンに大きな貢献を果たしたレーベル。自身の運営するサウンド・システムから派生し、独自のサウンドを発信した。ドン・ワン(Don One)、リヴィング・ルーム(Living Room)と共にニューヨークにおけるパイオニア的スタジオとしても認知されている。
1980年代、ハイマン・ライト(Hyman Wright)とパーシー・チン(Perey Chin)はニューヨーク・ダンスホールの発展の中心に位置した。彼等が打ち出したサウンドは時代を先取りする先見性に富み、ダンスホールにおける素晴らしい高揚感を演出した。この時代に残したジャー・ライフ(Jah Life)のダンスホールにおける功績は、90年代にヴェテラン・エンジニアのフィリップ・スマート(Phillip Smart)が手掛けたタン・ヤー(Tan Yah)やボビー・コンダース(Bobby Konders)のマッシブB(Massive B)へと受け継がれていった。
ハイマン・ライトとパーシー・チンはバーリントン・リーヴィ(Barrington Levy)の名前をシーンに知らしめたデビュー・アルバム「Bounty Hunter」を手掛けた他、カールトン・リヴィングストン(Carlton Livingston)やマイケル・プロフェット(Michael Prophet)、サミー・ドレッド(Sammy Dread)、キング・コング(King Kong)といったジャマイカ人歌手や、ニューヨークのサイオン・サシェイ・サクセス(Scion Success)らを録音した。
中でもサイオン・サクセスはニューヨークを拠点とするアーティストで、キングストン、ロンドンにさえも影響力を持った最初の1人として知られる。シャインヘッド(Shinehead)がダンスホールに現代のR & Bとヒップ・ホップを融合させ、世界的な名声を手にしたのと時を同じくして彼もまたジャマイカ、イギリスのチャートに多数のヒット曲を送り込んだ。彼の名前を有名にした'Pain A Back'、'Put It On'、'Can't Leave Jah Alone'といった楽曲は新時代のルーツ・ミュージックとダンスホールが融合した強力な作品で、サウンド・クラッシュの定番'Done Dead A Ready'、'#1 Title'も人気の高い作品として知られている。
それだけでなく80年代初頭のアーリー・ダンスホール期にはバーリントン・リーヴィの'Murderer'、カールトン・リヴィングストンの'100 Pound Of Collie Weed'、'Hot Hot Summer'といったヒット曲を手掛け、デジタル期以降もアドミラル・ベイリー(Admiral Bailey)の'Two Years Old'、コーネル・キャンベル(Cornell Campbell)の'Don Gorgon'、バーリントン・リーヴィの'Come'、カールトン・リヴィングストンの'Teenager In Love'、マイケル・パーマー(Michael Palmer)の'Them A Lick Shot'といったヒットによって80年代を通して大きな影響力を持ち続けた。
90年代に入ってもルーツとダンスホールの両方に根ざした作品を発表し続け、"African Beat"や"Freedom Blues"、"Far East"、"Love Is Not A Gamble"、更に"Street Sweeper"のプロト・タイプである'Vacuum Sweeper'等のヒット作をリリースしている。
2010/01/05 掲載 (2014/04/16 更新)