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トップ特集・オリジナルコンテンツレーベル名鑑Intel Diplo
レーベル特集
Intel Diplo(インテル・ディプロ)Text by Harry Hawks
ザ・ウェイラーズの解散後、ピーター・トッシュは自身のレーベル、インテリジェント・ディプロマット・フォー・ヒズ・インペリアル・マジェスティ(Intelligent Diplomat For His Imperial Majesty)からレコードをリリース。通称インテル・ディプロH.I.M.(Intel Diplo H.I.M.)の録音が繰り返し訴えたテーマはあらゆる人のための自由、平等な権利、正義であった。
Intel Diplo
設立 1973年
設立地 ジャマイカ  
設立者
Peter Tosh
関連レーベル
ピーター・トッシュ(Peter Tosh)もしくはピーター・タッチ(Peter Toush)、またの名を"ザ・タフエスト(The Toughest)"、本名ウィンストン・ハバート・マッキントッシュ(Winston Hubert McIntosh)は1944年10月19日ジャマイカ、ウエストモアランドの田舎で母アルヴェラ・コークと父ジェームス・マッキントッシュの間に生を授かった。彼はおばに育てられ1956年キングストンのデンハム・タウンに彼女と移り住んだ。

「音楽が俺のキャリア...俺の生き方、そして目的達成への道だった...」

若きピーター・トッシュをボブ・マーリー(Bob Marley)とネヴィル'バニー'リヴィングストン(Bunny Wailer)に紹介し、トレンチ・タウンのガヴァメント・ヤードで3人トリオにハーモニーの手ほどきを教えたのはジョー・ヒッグス(Joe Higgs)だった。その中でも最初に楽器をマスターし熟練したシンガー/ミュージシャンになったのがピーターで仲間のボーカリストであるジュニア・ブレスウェイト(Junior Braithwaite)、ビバリー・ケルソー(Beverley Kelso)、チェリー・スミス(Cherry Smith)とクレメント'コクソン'ドッド(CS Dodd)のスタジオ・ワン(Studio One)でザ・ウェイラーズ(The Wailers)として'Simmer Down'や'It Hurts To Be Alone'などを録音。しかしボーカリストの3人がすぐにグループを脱退すると、残ったメンバーでリード・ボーカルを務めコクソンのもとでヒット曲を継続して制作していった。当時、ピーター・トッシュはピーター・タッチまたはピーター・タッチ&ザ・ウェイラーズの名義でスタジオ・ワンの録音にクレジットされている。楽曲のカバーや、知られた表現を取り入れることで自身のメッセージを強調できることに気が付いていた彼はジェームス&ボビー・ピュリファイ(James & Bobby Purify)の'I'm Your Puppet'をもとに泣き歌ではなく'I Am The Toughest'を制作。さらに1966年に皇帝ハイレ・セラシエ一世のジャマイカ来訪を祝福してメント楽曲の'Archie Buck Them Up'を'Rasta Put It On'もしくは'Rasta Shook Them Up'としても知られる楽曲でカバーし当局を批判、ザ・ウェイラーズが初めて皇帝ハイレ・セラシエ一世を曲中で取り上げた楽曲としても知られる。

堂々とした行動によって根拠付けられた遠慮のない録音を理由に、その代償を支払うことにピーターは当然なのだが、これは彼の決意をより高め結果当局は強制的に圧力を強めていった。1968年に反ローデシアのデモに参列したピーター・トッシュはプリンス・バスター(Prince Buster)と一緒に投獄される。(*ローデシア共和国:白人政権によって支配されていた現ジンバブエを指す。64年には黒人の抵抗運動を徹底的に弾圧。1965年、英国から一方的に独立宣言。1979年にジンバブエ共和国が誕生するまで紛争が続いた)

この当時、ウェイリング・ウェイラーズ(Wailing Wailers)と名乗っていた彼らはレーベル、ウェイルNソウルM (Wail N Soul M)から焼き付くようなロックステディをリリースしていて、'Burial'としても知られる'Funeral'、'Them A Fi Get A Beatin'、'Babylon Burning'として知られる'Fire Fire'や'Stepping Razor'を堂々と歌いあげた。ジョー・ギブス(Joe Gibbs)との作品には、"Satta Massa Ganna"リズムのバージョンを利用し驚くほど攻撃的な'Here Comes The Judge'などが挙げられるが、この楽曲で彼は警告を促した。金銭的にレーベルが財政難を迎えると、芸術的で完璧なウェイルNソウルMのメンバーたちはリー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)との活動を始め、彼はウェイラーズのドレッドな要素に火を付けることになり、彼らの作品内容を適切に監督することに徹した。アップセッター(Upsetter)でのピーターの録音となった'Downpresser'や'No Sympathy'で彼の攻撃的で揺るぎないスタンスを不動のものとした。

1973年、ウェイラーズはクリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)のアイランド(Island)と契約、トリオは2作のアルバムを発表。アルバム「Catch A Fire」でピーターは'Four Hundred Years'を再演、「Burnin」では'One Foundation'、ボブ・マーリーとの合作アンセム'Get Up, Stand Up'を歌った。その後、ピーターとバニーはソロ・キャリアのためにウェイラーズを脱退した。信じられないほどの力を持ったシンガー・ソングライターたちにグループという枠外でそれぞれの自己を発展させる空間が必要とされた必然の結果だったといえるだろう。3人はソロ・キャリアに進んだことは最も相応しいかたちだった。

ピーターとバニーはそれぞれ自身の作品をインテル・ディプロH.I.M.(Intel Diplo H.I.M.)とソロモニック(Solomonic)からリリース、革命的となる作品のリリースを続けた。根本的にエンターテイメントにおける1つの形式が啓発を行い、物事を明確に説明しようと試みること自体が矛盾のようだったが、変革や抗議のために音楽を媒体として使うという認められた長い歴史も存在する。ピーター・トッシュの当局との衝突は偽りのないもので、彼の活動は音楽だけに制限されたものではけっしてなかった。インテル・ディプロH.I.M.の初期作品の一つである'Mark Of The Beast(獣の傷跡)'はピーター本人が「預言的なインスピレーション」だと言及したものだ。警察は彼の自宅ドアに押し入りライフルの柄で理由もなしに殴りかかった。警察はピーターを取り囲み、彼らは足をピーターの胸に置き屈辱的な態度を示し、肋骨を何箇所か脱臼した彼はキングストン・パブリック病院に運ばれるも数時間の間、治療を受けることが出来なかったという。

この暴行事件を経験後、インテル・ディプロから7インチ盤で'Mark Of The Beast'や'Can't Blame The Youth'をリリース。"クリスマスが来るたびに、君は子供にかわいらしいおもちゃの銃を買う...(When every Christmas come you buy the youth a pretty toy gun...)"という歌詞はレコード購入者たちの間で大きな人気を集めた。ピーターのデビュー・アルバムとなった「Legalize It」はリリースをめぐりメジャー・レーベルの間で争奪戦となり1976年、イギリスではヴァージン(Virgin)、アメリカではCBSから最終的にリリース。ジャマイカでインテル・ディプロH.I.M.から発表されたシングル盤'Legalize It'には他で発表されることのなかったバージョンが収録された。翌年にピーターはインテル・ディプロH.I.M. 傑作の一つに挙げられる'Babylon Queendom'をリリース、また素晴らしくミックスされたバーションを収録した。しかし彼は自身のレーベルから発表する音楽の方向性が明瞭であることを断固とした。当時、人気があったダブを取り入れることはなく、彼のステージでバックを務めたワード・サウンド・アンド・パワー(Word,Sound & Power)がチャンネル・ワン(Channel One)やジョー・ギブスのような演奏、ドラムとベースを奏でようとすると彼は彼らを非難したことがあったという。

ピーター・トッシュの音楽は時として"クロス・オーバー"過ぎると酷評されてきたがそれは痛烈な自由、平等の権利、正義のメッセージを広め、最も必要とされる人に受け入れられる手段だった。当時その賢明なアプローチは受け入れられるも生々しいルーツとリアリティ溢れるメッセージに対する準備が世界のリスナーは出来ていなかった。ピーター・トッシュが世界的になるには"インターナショナル"なサウンドが必要だった。インテル・ディプロのスタイルは音楽的な障害を破壊するというコンシャスな決意に基づき、想像通り最強の歌詞でリスナーにあたっていった。

「俺は音楽を作らなきゃいけない、そして俺の音楽が人々に届くようベストを尽くさないといけないんだ...」

彼の激しいキャリアで一際目立ったパフォーマンスとなったのが、多くの人が目撃した1978年のOne Love Peace Concertである。ピーター・トッシュとワード・サウンド・アンド・パワーによる同イベントのコンサートはまさに"インターナショナル・レゲエ"を象徴するかのようであった。彼はいつも反逆的なイメージを抱えていたが、このイベントの夜、政党の勢力に戦いを挑み、ジャマイカの政治リーダーであるマイケル・マンリー(Michael Manley)とエドワード・シーアガ(Edward Seaga)をステージから酷評。それから数ヶ月が経った9月の夜、彼はハーフ・ウェイ・ツリーで2人の警察官に捕まえられ、喧嘩の結果、警察官からの暴行を防ごうとして右手を骨折、頭部に切り傷、右足激しい打撲を負った。

1978年のアルバム・リリースでピーター・トッシュはキース・リチャーズ(Keith Richards)、ミック・ジャガー(Mick Jagger)と活動を開始、彼らの運営するローリング・ストーン・レコーズ(Rolling Stones Records)と契約を交わし彼の録音を世界規模でリリースする。このアルバム「Bush Doctor」は大ヒットを記録し、同アルバムの1965年にスタジオ・ワンでオリジナルを録音していたテンプテーションズ(Temptations)の'Don't Look Back'のカバー・シングルも大ヒットした。その後も、同レーベルからアルバム「Mystic Man」(1979)、「Wanted Dread And Alive」(1981)の2作を世界リリース。彼の音楽は国際市場で商業的な立ち位置におかれるも、ピーターは自身が体制で活動する中、体制への批判を止めることはなかった。

1987年、ピーター・トッシュは世界的にEMIからリリースされたアルバム「No Nuclear War」で最優秀レゲエ・パフォーマンス賞を受賞するが、同年9月11日、自宅でウィルトン'ドック'ブラウン(Wilton 'Doc' Brown)、ジェフ'フリー・アイ'ディクソン(Jeff 'Free I' Dixon)と一緒に射殺された。ピーター・トッシュの音楽、特にインテル・ディプロH.I.M.の録音はギター片手に世界を変えようとする者にとって終わりないインスピレーションの根源であり続けるだろう。

「前進あるのみ、後退は絶対しない...」
2011/02/05 掲載 (2014/03/27 更新)
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