レゲエコレクター.comレゲエコレクター.com
¥0 (0items)
Pass :
ID :
自動ログイン
トップ特集・オリジナルコンテンツレーベル名鑑Black Ark / Black Art / Upsetter / Orchid
レーベル特集
Black Ark / Black Art / Upsetter / Orchid(ブラック・アーク / ブラック・アート / アップセッター / オーキッド)Text by Harry Hawks
リー'スクラッチ'ペリー(Lee 'Scratch' Perry)は彼のブラック・アーク・スタジオ(Black Ark)でもっとも複雑で神秘的なジャマイカ産の音楽を創造した人物である。ジャマイカ音楽においても特にだが一般的な録音された音楽でも、その重要度は計り知れない。
Black Ark / Black Art / Upsetter / Orchid
設立 1973年
設立地 ジャマイカ キングストン キングストン20 ワシントン・ガーデン カーディフ・クレセント5番地
主要スタジオ
Black Ark
設立者
Lee Perry
プロデューサー
エンジニア
Lee Perry
関連アーティスト
関連レーベル
1936年3月20日ハノーバーのケンダルという町に生まれたレインフォード・ヒュー・ペリー(Rainford Hugh Perry)。後にリー・ペリー(Lee Perry)として知られるようになった彼は60年代初頭、キングストンでダンス・チャンピオンとしてその名を馳せた。トレジャー・アイル(Treasure Isle)のデューク・リード(Duke Reid)によってすぐに追放されると、クレメント'コクソン'ドッド(CS Dodd)へと場所を動かした"リトル・リー(Little Lee)"はダウンビート(Downbeat)の重要なメンバーとなった。彼にとって最初の録音となったのは人気ダンスとして知られた"チキン・スクラッチ(Chicken Scratch)"を取り上げたものだった。彼の初期録音である'The Prince, The Duke & The Sir'などはコクソンのライバルであるプリンス・バスター(Prince Buster)やデューク・リードを標的にした中傷的な攻撃そのものだった。最初からリー・ペリーは"怒らせること(Upset)"を視野に入れていたのだ。1964年から65年の間、彼はスタジオ・ワン(Studio One)でザ・ウェイラーズ(The Wailers)と多くの制作を共にし、その互いを認め合った友情関係はやがて訪れる70年代のジャマイカ音楽に変革をもたらすことになった。しかし、1966年、スクラッチはコクソンが彼の一生懸命制作した作品から名声と金を得ていると感じ始めた彼は他のプロデューサーのもとで録音を始めた。

コクソンを突いた特徴的な'Give Me Justice'はスタジオ・ワンで密かに録音され、レーベル、サーJJ(Sir JJ)からリリースされた。ロックステディがスカを侵食し始めると、ライバルだったプリンス・バスターとのコラボレーション'Judge Dread'、'Johnny Cool'、'Ghost Dance'などはキングストンのルード・ボーイの無法状態、そして受難者たちの英雄がルード・ボーイであると賛美する内容を上手く捉えたものだった。しかし、独立したいという願いは強く、スクラッチはWIRL(West Indies Records Limited)へと拠点を移し、録音セッションの監督を務めるという取り決めと引き換えに"後払い録音"という支払条件に同意してもらうこと成功した。

スクラッチはジョー・ギブス(Joel Gibson)との活動でも知られ、そこで制作したパイオニアーズ(Pioneers)による'Jackpot'のB面に収録された切な'Seeing Is Knowing'の別バージョン'Kimble'は彼が後になって発表する音楽の前ぶれだった。この楽曲で人気テレビ番組「逃亡者(The Fugitive)」に登場する悪役をスクラッチが演じ、瓶の割れる音など様々さ効果音が取り上げられた。1967年の間、彼はジョー・ギブスと活動を続け、'The Upsetter'または'I Am The Upsetter'で同年の終わりからふたたびコクソンに向かって音楽を使った攻撃を展開。そして、この名前はその翌年に彼がジョー・ギブスのもとを離れた際に自分のレーベルに使われることになった。

リンフォード'アンディ・キャップ'アンダーソン(Lynford 'Andy Capp' Anderson)はWIRLで重要な役割を務めていたが、レコーディングやマスターリングの力量を持ち合わせていなかった。そこでリンフォードとスクラッチは67年にアップセット(Upset)を始動させた。1968年にリリースしたドリフターズ(Drifters)の'Honey Love'をバート・ウォルターズ(Burt Walters)が堂々とカバーした作品はまさに音楽的に画期的な出来事で、B面の'Evol Yenoh'は声が全編に渡って入ったオリジナル・リズムだった。そして、アップセットからジャマイカでリリースされたジョー・ギブスを音楽で攻撃した'People Funny Boy'は大ヒット、UKではドクター・バード(Doctor Bird)からリリースされた。この録音作品はこれまでよりも早く、攻撃的なレゲエ・リズムを予告し、スクラッチはこのビートに自身のレーベル、アップセッター(Upsetter)からのリリース一連で磨きをかけていくことになる。

1969年、チャールズ・ストリート36番地にアップセッター・レコード・ショップ(Upsetter Record Shop)がオープンするとそこはリー・ペリーの活動拠点となり、店の裏にあった部屋ではオーディションやリハーサルが行われた。この場所はすぐにスクラッチのもとで録音を望む若き希望を持ったシンガーやミュージシャン、最新リリースや特別なダブを求めるサウンドシステムのオペレーターやクラブのオーナーたちを引き付けるようになったのだ。アップセッターからのヒットは止むことがなく、ジャマイカ盤はインスピレーションズ(Inspirations)またはジミー&ラニー(Jimmy & Ranny)がレーベル、アップセッターに残した作品、ロンドンのトージャン(Trojan)によるリリースはアンタッチャブルス(Untouchables)と表記されていた'Tighten Up'はトロージャンが出したアルバム・シリーズの名前になり、これらはイギリスにジャマイカの音楽を橋渡しする上で重要な宣伝効果を果たした。そして、1969年の秋にレゲエはアップセッターによるヴァル・ベネット(Val Bennett)フィーチャーしたインストゥルメンタル楽曲'Return Of Django'がUKナショナルチャートで5位入りを果たした。

1970年、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ(Bob Marley & The Wailers)と再び組み、彼は彼らの音楽に違った音楽を探求、そして開拓するための方向を与え、あからさまな商業的虚飾から離れた制作活動はジャマイカ初の世界的なスター、レゲエにおける最も商業的なグループを生み出す結果となったがザ・ウェイラーズとアップセッターは1971年に共同制作を止め、違う道へと歩んだ。

スクラッチはWIRLでの録音を好んだが、ランディーズ(Randys)がノース・パレード17番地の店の2階にスタジオを構えると、彼はそこでも活動するようになった。スタジオ・ワンやフェデラル(Federal)をときどき使うこともあったが、フーキム(Joseph Hookim)の運営したチャンネル・ワン(Channel One)・スタジオを使うことがいつも最初の選択肢で、リズム制作の時にはダイナミック・サウンズ(Dynamic Sounds)を利用し、キング・タビー(King Tubby)のスタジオでオーバー・ダブを行った。1972年には必聴盤「French Connection」を含む作品のミキシングを始めるも、スクラッチが自分の頭の中で聞く音を一時間ごとに料金の発生する他人のスタジオでは完璧に創造することが出来なかった。そして1973年初頭に彼はカーディフ・クレセントの自宅の庭にスタジオを設け活動を始めた。「余った、いかなる金もスタジオを建てるという決意を示すため」に貯めていたという彼のスタジオ建設にギター奏者のボビー・エイトキン(Bobby Aitken)、エチオピアンズ(Ethiopians)のレオナルド・ディロン(Leonard Dillon)とジャンゴ(Django)が手を貸した。ブラック・アークが稼動することでペリーが行ってきたこれまで10年の働きはやっと実がなったのだった。

1973年後期の時点でブラック・アーク(Black Ark)スタジオは基本的な機材で稼動を始めた。彼の音楽は強烈になり、何層にも重なった音や普通とは言えぬ実験的なものに変化していった。ブラック・アークは稼動した6年の間にそれ以上に優れることのない水準を築き、彼が誰も考えられなかった音楽を創意的で革新的に富んだ方向に導いた。

「みんなは彼の機材が冗談だと思っていたけどリー・ペリーは上手くやったんだ」ロイ・カズンズ(Roy Cousins)

ブラック・アークにとって最初のヒットとなったのが、レオ・グラハム(Leo Graham)の'Black Candle'で、オベア(アフリカの新興宗教)の要素がまき散らされたリズミカルな録音で別バージョンがいくつかリリースされるほどだった。そうしてスタジオはすぐに狂気じみた、そして精神的に錯乱した創造活動によって活発化していった。ミリー・ジャックソン(Millie Jackson)の'Hurt So Good'をスーザン・カドガン(Susan Cadogan)がカヴァーした ブラック・アークのヴァージョンはロンドンを拠点に運営したレーベル、マグネット(Magnet)にライセンスされ、1975年の4月イギリスのナショナル・チャートで4位に輝いた。スクラッチはディップ(Dip)からの前金で楽器とさらに複雑なサウンド・クラフトのミキシング・ボードを購入、そして翌年ティッパートーン(Tippertone)サウンドシステムの創設者ジャー・ワイズ(Jah Wise)がブラック・アークの壁画を描いた。

キングストン・ダウンタウン、ゲットーの温度は熱くなっていた。1976年になると隣合わせの地域はジャマイカの政党、ジャマイカ労働党と人民国家党の支持者に分けられて抗争が勃発、多くの人が犠牲者となった。この耐えられない状況や必要としない苦悩を和らげようと歌った多くのレコードがこの時期に発表されているが、'War In A Babylon*原題:Sipple Out Deh'を歌ったマックス・ロメオ(Max Romeo)や斬新な'Police & Thieves'を歌ったジュニア・マーヴィン(Junior Murvin)らはそういった時代背景を観察し自身の楽曲に映し出したアーティストたちの一握りである。'Police & Thieves'はジャマイカよりもイギリスでヒットを記録した。夏の終わりに差しかかり、黒人の下層階級と治安維持部隊の間に長く続いていた、今にも爆発しそうな緊迫状態がウエスト・ロンドンのKnotting Hill Carnivalで暴力騒動という結果として表れ、この'Police & Thieves'はこの事件のサウンド・トラックとして役割を担った。

この頃から、オーガスタス・パブロ(Augustus Pablo)、フィル・プラット(Phil Pratt)、リトル・ロイ(Little Roy)とタファーライ・シンジゲート(Tafari Sydicate)、デニス・ブラウン(Dennis Brown)のブレイクのきっかけとなったヒット'Wolf & Leopard'全編をブラック・アークで録音したウィンストン'ナイニー''ザ・オブザーバー'ホルネス(Winston ‘Niney’ Holness)、ヴィヴィアン'ヤビー・ユー'ジャクソン(Vivian Jackson)、カーディフ・クレセントの英傑とされる「 Best Dressed Chicken In Town」を制作したドクター・アリマンタード(Dr. Alimantado)、そしてイギリスのメインストリーム寄りなレゲエリスナーにダブ・ミュージックのコンセプトを紹介したレコードと言えるアルバム「King Tubby Meets The Upsetter At The Grass Roots Of Dub」を制作したウィンストン・エドワーズ(Winston Edwards)など他プロデューサーがブラック・アークを使い始めた。

リー・ペリーは特有なインストゥルメンタルやダブの録音・発表を続け、「Scratch The Super Ape」が1976年にアイランドから「Super Ape」としてリリースされると彼の国際的な評価はさらに飛躍した。このアルバムは彼の転機とも言え、それから人々はスクラッチをプロデューサーというよりもパフォーマーとして見るようになったほどだ。成功者としてのステータスは大きくなり、デビューアルバムで'Police & Thieves'をカバーしたザ・クラッシュ(The Clash)は1977年彼らのアルバム「Complete Mind」の制作を依頼した。時折、ボブ・マーリーとの制作も行ない、'Jah Live'、設備の完備されたハリーJ(Harry J)でハイレ・セラシエの死後にラスタファーライを再認識して録音された、ゆったりとしたダブ・ヴァージョン'Concrete'、'Smile Jamaica'のセカンド・カット、ありのままの心を歌った'I Know A Place'や'Who Colt The Game'といった作品はボブ・マーリーによる1970年代後期に制作された傑作の一握りである。

この時期にブラック・アークから輩出された音楽の多くは、スクラッチというプロデューサーの芸術性の最盛を表すものだが、ある意味では録音された音の頂点でもある。彼は様々なアーティストのパフォーマンスを音に重ね、次々と驚異的に激しいレコードを制作していった。1978年、ブラック・アークから初めてリリースされたコンゴズ(Congos)の「Heart Of The Congos」はスクラッチにとってこの時期の傑作であることは明白で、当時、クスラッチが制作した作品でも間違いなく傑作と言える。新たなアイランドとの契約は、マックス・ロメオの「War In A Babylon」やヘプトーンズ(Heptones)の「Party Time」、ジョージ・フェイス(George Faith)の「To Be A Lover」などのブラック・アーク・アルバムなどアップセッターの作品を世界的に一流の舞台で露出させたのだった。

スクラッチの録音は暗く、高密度で深く、さらに危険なものになり、彼の録音が初めてジャマイカで著しく人気を失い始めた。70年代の初めから彼が海外で功績を得ることを除いては彼が賞賛やジャマイカでのヒットを味わうことは稀だった。彼の独創性は高く評価され、リメイクに頼ることは少なくオリジナルのリズムを制作することを好んだが、ジャマイカのレコード購入者たちが望むものではなかった。稀に彼は傑作リズムのリメイクを手掛けるも、それでも人々はより手軽な選択肢を望んだのだ。「Roast Fish, Collie Weed & Cornbread」と「Return Of The Super Ape」の両アルバムはアイランドにリリースを断られ、彼の国際的な認知度が頂点にあるにも関わらず、スクラッチはこれ以上ジャマイカでヒットを放つことが出来なくなっていた。しかし、国外以外の場所でも自身の音楽をリリースできなくなっていた。この時期から1978年の作品の多くが未発表に終わっていて、そのプレッシャーはスクラッチに圧し掛かり続けた。そして彼の行動は極度に迷走し予期できないものとなっていった。12インチでリリースされた'City Too Hot'は閉所恐怖症の男が極限に辿り着いた恐ろしい内心を物語っている。

「みんなスクラッチのヤードに来ないようなったんだ。彼は彼らを追い出したのさ!」バニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)

ブラック・アークはたむろする多くの者にとっていつもの顔合わせ場所になり、彼がやっと勝ち取った自由がまたもう1つの束縛となっていった。彼が制作活動から引き下がれない状況は、彼の生活の下向きに追い込み、極端で風変わりな行為が彼のスタジオに日々集るぶらぶらしている連中たちから彼を効果的に解放したが、それによって彼は近くにいるみんなから本当に狂人であると納得させることに成功した。そして彼が過去に振り返ることはなかった。1979年初頭、ブラック・アークの夢は事実上終焉を迎えた。アーティストや海外のライセンス・レーベルが近寄りがたくなった彼はブラック・アークの壁全面に十字架やスローガンを描き、抽象的な彫刻を制作したりとその日々を過ごした。

1983年の夏、ブラック・アークはほぼ全焼、スクラッチは翌年ジャマイカを離れ、夢に終止符が打たれた...

推薦書:
David Katz著「People Funny Boy The Genius Of Lee 'Scratch' Perry」Payback Press 2000年
2011/10/03 掲載 (2014/04/15 更新)
Copyright (C) 2024 Dub Store Sound Inc.
無断転載は固くお断りしております
関連タイトル
エッジに目立つ曇りがあります。
B side) Upsetters - Version
¥6,280
試聴する
B side) Upsetters - Groovy Dub
¥12,800
試聴する
B side) Upsetters - Ring Of Fire
¥9,800Sold Out! 試聴する
B side) Upsetters - Kinky Mood
¥7,800
試聴する
B side) Upsetters - The Axe Man
¥7,800
試聴する
B side) Upsetters - The Axe Man
¥9,800
試聴する
B side) Upsetters - Dub Money
¥22,000
試聴する
B side) Why Must I; I Shall Be Release
¥12,800
試聴する
>>レーベル: Black Arkの全在庫商品を見る
>>レーベル: Black Artの全在庫商品を見る
>>レーベル: Upsetterの全在庫商品を見る
>>レーベル: Orchidの全在庫商品を見る
>>プロデューサー: Lee Perryの全在庫商品を見る