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トップ特集・オリジナルコンテンツレーベル名鑑Jontom/Sun Shot/Terminal
レーベル特集
Jontom/Sun Shot/Terminal(ジョントム/サン・ショット/ターミナル)Text by Harry Hawks
「絶頂期だった70年代でもフィル・プラットは、自身が注目の的の1人になったことはなかったと語っている。しかしアメリカ人ラッパーのスヌープ・ライオンがカヴァーしたケン・ブースの'Artbella'はレゲエ界で過小評価されているプロデューサーの1人に焦点を当てた」ハワード・キャンベル
Jontom/Sun Shot/Terminal
設立 1968年
設立地 ジャマイカ キングストン オレンジ・ストリート
設立者
Phil Pratt
プロデューサー
関連アーティスト
関連レーベル
遠慮がち、目立たないような振る舞い、世間の目を恥ずかしがるという一般的な形容語句で描写できる人物は音楽ビジネスの中でいないがジョージ・フィリップス(George Phillips)、またはフィリップ・チョウコウ(Phillip Choukoe)、またはフィル・プラット(Phil Pratt)にはその全てが当てはまる。

「控えめでいることはいいことだ...邪魔してくる者が少なくてすむ」フィル・プラット

7人の子供の長男として西キングストン・コミュニティーのデンハム・タウンで生まれ育ったフィルは両親と余り関わり合いを持たず、彼を愛してやまない叔母に育てられた。彼の兄弟であるウィンストン・ハリス(Winston Harris)は複数の楽器の演奏者であり後にキングストンのローマン・カトリック・アルファ・ボーイズ・ホーム・アンド・スクール(Roman Catholic Alpha Boys Home And School)の音楽教師になった。ウィンストンはフィルに影響を与えた最初の人物でありギターの弾き方を彼に教えた。フィルはセント・アンのノース・ストリートにある小学校に通い、そこで級友のケン・ブース(Ken Boothe)とヘッドリー・フォウルディング(Headley Foulding)と共にヴォーカル・グループを組みチャリティーや学校のコンサートなどでパフォーマンスを行ったが彼らがレコーディングをするということは無かった。

フィルが学校を離れ家具職人、ニス塗り職人、棚職人として働き始めたとき、彼は仕事が終わるとキングストンのサウンドシステムのダンスに通っていた。カウントC(Count C)とサー・コクソン・ザ・ダウンビート(Sir Coxsone The Downbeat)がその界隈でのフィルのお気に入りで、彼はダウンビート・サウンドの箱持ちとなり、そこで生涯の友となったザ・アップセッター(The Upsetter)、リー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)と出会った。ケン・ブースは音楽ビジネスの中で名を売り始めシーンにおける影響力のある人物と顔見知りになった。彼はフィルに偉大なロイ・シャーリー(Roy Shirley)を紹介し、彼はキングストン・インダストリアル・ガレージ(Kingston Industrial Garage) で働きながらレコードをラジオにつなぐ仕事をしていたバニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)の下へ連れて行き、ストライカーはフィルをケン・ラック(Ken Lack)に紹介した。

1934年にブロンデル・キース・カルネック(ケン・ラックという名前は苗字のスペルのつづりを入れ替えたもの)として生まれたケンはPJパターソン(PJ Patterson)と共にスカタライツ(Skatalites)のツアー・マネージャーをしていたが、ドン・ドラモンド(Don Drummond)がバンドを離れた時、稼ぎの多い金物類や家庭用品の扱いの仕事に戻った。ケンはスカタライツと共に活動していた時に作り上げたコネを使い15マーク・レーンでレーベル、カルトーン(Caltone)を1966年にスタートさせた。彼は同世代または更に若い優れたミュージシャン達に囲まれ、彼は「父親のような存在」または弟子たちの良き指導者になった。

それと同年フィルは自身初となる"フィル・プラット"とクレジットされたレコード'Sweet Song For My Baby'をプロデュースし歌った。フィルによるとケン・ラックは彼の苗字を忘れたため "フィル・プラット"と変名したそうだ!「あれほどのパワーはジャマイカを飛び立った人々の手の中にあり、当時他の誰も真似することの出来なかった音楽を持って帰ってきた」とフィルは感じ、またヘムスレー・モリス(Hemsley Morris)と共に歌ったフィルの'Little Things'はキティ・カレン(Kitty Kallen)の1954年にリリースされた'Little Things Mean A Lot'に「影響された」という。ケン・ラックはフィル・プラットがプロデュースした作品をフィル自身のレーベルからリリースさせたいと考え自身のレーベル、ジョン・トム(Jon Tom)をフィルに譲渡するという前代未聞の行動に出た。ジョン・トムからリリースしたどのレコードも「大体自分がプロデュースしたもの」だとフィルは誇りを持って述べているが、マーク・レーンのリラックスな雰囲気の環境によりフィルの作品と共同作品は時々カルトーンと「RJRラジオのデイヴ・ダニエルス(Dave Daniels)と一緒に所有していたレーベル」ウィグル・スプーン(Wiggle Spoon)からリリースされていた。

アーティストとミュージシャンたちのアイデアを組み合わせたところにフィルのプロダクションの強みがあり、またシンガー、ミュージシャンとして自身の経験があるにもかかわらず、彼は完全に彼らの意見を取り入れることが出来た人物だった。若き日のホレス・ハンズ(Horace Hinds)は彼のデビュー・シングル'Black Man's Country'をジョン・トムのためにレコーディングしたが、ドッド(CS Dodd)氏が彼の名前をホレス・アンディ(Horace Andy)へと変えたスタジオ・ワン(Studio One)のために録音するまでリリースされることはなかった。2005年のコンピレーション「Safe Travel(Pressure Sounds PSCD/LP 47)」は当時のフィル・プラットがレコーディングしたロックステディの名曲を収録したものだった。

「誰もその名前を言いやしないが、誰がいいプロデューサーだったか知ってるか?フィル・プラットだ...」バニー'ストライカー'リー

ロックステディが早いレゲエのビートに変化していった1968年の暮れ、フィル・プラットは完全に独立しオレンジ・ストリートの118番地の家屋に自身のオフィスを開き、レーベルのサンショット(Sunshot)とターミナル(Terminal)を始め、他とは明確に違うユニークなサウンドを作り続けていた。当初彼の音楽のパートナーは、デリケートなアプローチがクールなロックステディのサウンドを定義となったが現在その貢献に対する妥当な評価を受けていないトリニダッド出身のギタリスト、リン・テイト(Lynn Taitt)であり、また彼のほかの「右腕」は自身の親友だったボビー・カルファット(Bobby Kalphat)だった。フィル、また他の多くは、ボビーが計り知れないジャマイカ音楽への貢献が認知されるのが遅すぎると感じている。フィルは積極的なプロデューサーで共に活動したアーティストの作品は彼の作品でもあり、彼は初めから名のあるミュージシャンやアーティストたちを引き付けることが出来た。

「ミュージシャンたちは片面30シリングという固定レートで支払いをされていたからトップ・クオリティーのミュージシャンたちは喜んでセッションをしてくれた」フィル・プラット

サンショットとターミナルは直ちにチャートに食い込み始め70年代を通してそれは続いた。ケン・ブースは'Artibella'での再演でフィル初のヒットに貢献し心の痛むような'Not For Sale'、デニス・ブラウン(Dennis Brown)のヒット'Let Love In'と'What About The Half'、アル・キャンベル(Al Campbell)の'Gee Baby'と'Going The Wrong Way'、ヘプトーンズ(Heptones)の'Sweat For You Baby'、ジョン・ホルト(John Holt)の'My Heart Is Gone'と'Strange Thing'、グレゴリー・アイザックス(Gregory Isaacs)の'All I Have Is Love'、パット・ケリー(Pat Kelly)の'Soulful Love'と'They Talk About Love'がそれに続いた。そしてこのリストは終わらない。彼はまたUロイ(U Roy)の'Real Cool'、Iロイ(I Roy)の'My Food Is Ration'、親密に活動を共にビッグ・ユース(Big Youth)の'Phil Pratt Thing'や'Keep your Dread'などディージェイたちともきっちりと仕事をこなした。ユースはその後もフィルの"Sweet Song For My Baby "リズムの上に乗せた'Every Niggar Is A Star'などで彼のリズムを使い続けた。「彼は本当にいい"ユース(若者)"だ...彼は"ジャイアント"ユースだ!」ヘプトーンズは1971年に初めて渡英し、フィルの手配により西ロンドンのPhoebesなどの会場でパフォーマンスを行い、その報いとして彼が「思いついた」楽曲を彼の為に録音した。彼らがフィルのもとに残した楽曲の一つは彼らのスタジオ・ワンの名曲' Party Time'の新しいカットで、長年のファンたちの多くはこのヴァージョンが最高傑作だと感じている。

「プロデュースとレコーディングのビジネスをプロとしてやるようになってからフィル・プラットは一見すること、ましてや後ろの方にいることは一切しなかった」エヴァー・ストーン(Evor Stone)

しかし1982年、フィルは一線から身を引き「フルタイムで音楽作りを辞め」、イギリスへと場所を変え、北東ロンドンのハーレスデンでScandal West Indian Takeawayという大成功を収めたレストランをオープンさせた。彼は自身の数々のヒット曲を再発し続けていたが、2012年の夏、フィルはいつも避けてきた注目の的になってしまった。現在以前スヌープ・ドッグ(Snoop Dogg)と名乗っていたスヌープ・ライオン(Snoop Lion)がレゲエ業界に介入する最初の楽曲としてフィル初の大ヒット曲ケン・ブースの'Artibella'(スカのヴァージョンではなく)をカヴァーし、'La La La'はYoutubeで300万回以上の視聴記録を作った。フィルはジャマイカ・オブザーヴァー紙に彼は「スヌープの曲を聴いて気に入った」と語っている。そして我々は更なる発展を待っているのだ...

参考資料:
Howard Campbell: 'Snoop Lion Put Phil Pratt In The Spotlight' Jamaica Observer 31st August 2012
2012/12/28 掲載 (2016/11/15 更新)
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Al Campbell - Going The Wrong Way(Sun Shot)EX--/SEW/stain B:WOL/SACI
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