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トップ特集・オリジナルコンテンツレーベル名鑑 Joe Gibbs
レーベル特集
Joe Gibbs(ジョー・ギブス)Text by Harry Hawks
真の成功のように全てがうまくいくことは他にまずないであろう。そして70年代中期から後期にかけて、ほんの一握りのレーベルだけがジョー・ギブスが発表した作品がもたらした成功に近い、またはそれ以上の実績を挙げた時代があった。
Joe Gibbs
設立 1967
設立地 ジャマイカ キングストン リタイアメント・クレセント
設立者
Joel Gibson
プロデューサー
エンジニア
Errol Thompson
Lee Perry
Winston 'Niney' Holness
関連アーティスト
関連レーベル
ジョー・ギブス(Joe Gibbs)、本名ジョエル・ギブソン(Joel Gibson)は1945年10月14日にジャマイカの北海岸に生まれ、モンテゴ・ベイで育ったが、「そこはとても物静かで、楽しそうなことは全てキングストンにあった」少年時代、音楽の教育を受けなかった彼が初めて虜になったのは、通信教育で学んだ電子工学であった。彼は仕事で島中を行き来し、1962年にキングストンに移り住んだ後、1966年には最初の電気屋を32ビーストン・ストリートにオープンした。初めのうちジョーはラジオやテレビの販売や修理を行っていたが、人気を引くためにレコードの取り扱いも始めた。彼は常に音楽の中に存在する、異なった周波数帯に魅了され、電子工学を学んだ背景から音楽プロダクションへの移行の意思を固めた。

「彼はプロデューサー気質なのさ...ミュージシャンではないけれど、彼は比喩を用いて自らの望みをうまく伝えることができた」クリフトン'ジャッキー'ジャクソン(Clifton 'Jackie' Jackson)

当初からジョー・ギブスは才能のある人々に囲まれ、伝説のリン・テイト&ジェッツ(Lynn Taitt & The Jets)や、卓越した歌唱力を持つロイ・シャーリー(Roy Shirley)らを雇い、最初のナンバー・ワン・ヒット、'Hold Them'という軍隊のマーチ・バンドの音を基に作られた革新的なレコードを発表した。ロイ・シャーリーと作業を共にする中で、ジョーはバニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)と出会い、後に彼は「常にバニーのヴァイブスを愛していたよ」と振り返った。スタジオ・ワン(Studio One)のコクソン(CS Dodd)の下を離れたリー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)は、その後ウェスト・インディーズ・レコード・リミテッド(West Indies Record Limited: WIRL)専属のプロデューサー、アレンジャー(編曲者)として働いていた。そしてストライカーがジョーの'Hold Them'のプロモーションを行った後、彼はWIRLでリー・ペリーの仕事を引き継ぎ、スクラッチがジョーの音楽のアレンジャーとなった。

スクラッチはウィルバーン'ストレンジャー'コール(Wilburn Stranger Cole)とグラッドストーン'グラディ'アンダーソン(Gladstone Anderson)をジョーに紹介し、'Just Like A River (La La La)'と'Seeking Is Knowing'という素晴らしいセルフ・プロデュース作品を彼のレーベル、アマルガメイテッド(Amalgamated)からリリース、両曲とも大ヒットを記録した。この時期にスクラッチは'Long Shot'などの楽曲で、後に続編'Long Shot Kick The/De Bucket'を制作したレズリー・コング(Leslie Kong)の下で国際的な成功を遂げる前のパイオニアーズ(Pioneers)とよく仕事をしていた。1968年にアマルガメイテッドからリリースされたパイオニアーズの'Jackpot'のB面で、スクラッチは次の10年間に彼の音楽が辿ることとなった方向性の予兆を証明した。'Seeing Is Knowing'のヴァージョンである'Kimble'はボトルが割れる音や、ムチを打つ音などの効果音と共に、スクラッチが自ら人気テレビ番組"The Fugitive"の悪役を演じた。スクラッチはその後、ジョー・ギブスと共に制作した最も人気の高いレコードから名前を冠し"アップセッター(Upsetter)となった...それは彼の元雇いであるクレメント'コクソン'ドッドに向かって放たれた音楽という名の矢であり、スクラッチがジョー・ギブスの下を離れたあとも、このレコードは彼自身のレーベルの名前として使われ続けた。スクラッチによると、彼は十分な賃金を払われなかっただけでなく、その貢献に反比例する彼自身の知名度の低さも深く関係していたという。そしてスクラッチはジョーを非難し、アマルガメイテッドを離れた直後に'People Funny Boy'という楽曲を自身のレーベル、アップセッター(Upsetter)からリリースし、ジャマイカ、イギリスの両方で大ヒットを記録した。その後ジョー・ギブスはお返しとして、サー・ギブス(Sir Gibbs)名義で'People Grudgeful'をリリース、当然この曲はスクラッチを警告するものだった...

リー・ペリーが去っていくと、若きレコード商人でフリーランスのプロデューサー、ウィンストン・ホルネス(Winston ‘Niney’ Holness)、またの名を"ナイニー(Niney)"がジョーの下でフリーランスとして働き始め、ジョーは「ナイニーは俺のところで働くのが好きだった、なぜなら俺はいつも支払いは現金でしていたからな」と笑い飛ばした。ジョーの最初のレコード店であるパレード・レコード・シャック(Parade Record Shack)はサウス、そしてウェスト・パレードの角に位置しており、1969年にはサウス・パレード11番地にニューヨーク・レコード・マート(New York Record Mart)をオープンさせ、同店ではニッキー・トーマス(Nicky Thomas)がセールスマンとしてしばらく働いていた。ジョーは常に新しい才能の発掘に時間を割くことを惜しまず、翌年には'Love Of The Common People'のニッキーのヴァージョンでイギリスの国営チャート第9位を記録した。ニッキーはその後ロンドンに拠点を移し、同地で国際的ヒットを飛ばした。レコード店は開店から大賑わいで「素晴らしい立地に位置していた為、山のような人々がバスを降りると同時に店に足を運んだ」そして賃貸の契約が切れると、ジョーは店をノース・パレード20番地「ランディーズ(Randys)の真横」に移した。

1968年にジョーはドゥハニー・パーク周辺に、最初のレコーディング・スタジオとなる「フェデラル・レコーズ(Federal Records)のスタジオを模した、シンプルだが実践的な2トラック・スタジオ」を建て、1971年にはキングストン5区リタイアメント・クレセント24番地にて、2年がかりで新しいスタジオの建設に取り掛かった。1972年後期にジョー・ギブスは最初のダブ・アルバムの1枚として認識される「Dub Serial」を超限定でリリースしたが、当時ダブはサウンド・システムでのみかけられる極めてアンダーグラウンドなものであった。ジョーはこの時点でデニス・ブラウン(Dennis Brown)の'Money In My Pocket'やビッグ・ユース(Big Youth)の'Chucky No Lucky'、'The Big Fight'そして'Foreman vs. Frazier'を始め、数多のアーティストと共に大々的なメジャー・ヒットを絶え間なく世に送り出していた。ナイニーはランディーズで働いていたエロル・トンプソン(Errol Thompson)をジョーに紹介し、彼らは急速にその関係を深めた。エロルはこの時ジョーのセッションで頻繁にエンジニアを勤めており、1975年にはフルタイムで共に仕事をするようになった。エロルはランディーズの下を離れ、ジョーが新たに建てた16トラック・スタジオに移り「複雑なプロダクションをエロルの職人技でミックスし、レゲエを全く違うレベルにまで押し上げた」ジョーは「チームワーク、そして楽しむこと」が彼らのプロダクションにおいて非常に重要な要素であったと思い返し、2人は"マイティ・トゥー(Mighty Two)"としてエロルの死の直前まで作業を共にした。

彼らが共同で作った作品は、当時まだ始まったばかりであったルーツ・レゲエの大いなる躍進の最前線となり、マイティ・トゥーはカルチャー(Culture)の'Two Sevens Clash'やプリンス・ファーライ(Prince Far I)の'Under Heavy Manners'、そして「African Dub」シリーズの第1弾から第3弾など、当時のドレッドの空気感をレコードに落とし込んだ。これらの3枚のアルバムは遂にダブという音楽スタイルをレゲエの市場の外に持ち出した作品として評価されている。「African Dub」は70年代中期におけるジャマイカのドレッドとダブに染まった音楽の数々の要素を紡ぎあわせ、容易に理解できる形にした。マイティ・トゥーが手がけた60年代のロックステディのリメイクは、ゲイラッズ(Gaylads)の'Joy In The Morning'をボビー・メロディ(Bobby Melody)の'Jah Bring I Joy'に、ヘプトーンズ(Heptones)の'I've Got A Feeling'はカルチャーが'I'm Not Ashamed'に変形させ、オリジナル以上の知名度を獲得した。

'Uptown Top Ranking'のストーリーが、彼らの音楽がどれほどまでに人気であり、そして庶民的であるかを描き出した...1977年、ジョーとエロルはアルトン・エリス(Alton Ellis)のスタジオ・ワン・クラシック、'I’m Still In Love'のリメイクをすることを決意する。マーシャ・エイトキン(Marcia Aitken)がマイティ・トゥーのために'I'm Still In Love With You Baby'を歌い、同曲はヒットする。その後、ジョーとエロルはトリニティー(Trinity)が歌った'Three Piece Suit'と題されたヴァージョンをリリースし、同曲でこのディージェイは"diamond socks and ting(ダイアモンドの靴下なんて履いてみたり)"と、いかに自身の着こなしが女性を虜にしていたかを詳しく述べた。この、男らしさを自慢した楽曲への返答として、マイティ・トゥーは女性ヴォーカル・デュオ、アリシア&ドナ(Aletha & Donna)の'Uptown Top Tanking'をリリース、同曲はレゲエの熱愛者であるジョン・ピール(John Peel)のプッシュにより頻繁にイギリス国営ラジオでのプレイを得た。このアリシア&ドナのコンビネーションによる遊び心の詰まった無垢さ、そしてジョー・ギブスとプロフェッショナルズ(Professionals)の演奏するリズムのパワーは大変魅力的であり、レディオ・ワン(Radio One)のプレイリスト入りを果たし、ついには1978年1月、イギリスのナショナル・チャートで第1位を獲得した。

「Vision Of Dennis Brown」など、デニス・ブラウンと継続的にアルバムを制作したジョーは、イギリスのナショナル・チャートで14位に入ったデニスの'Money In My Pocket'の新録によって更なる国際的ヒットを記録した。80年代初頭には、ジョーはフロリダにレコードの流通会社を設立、バーリントン・リーヴィ(Barrington Levy)ら、ダンスホール・スタイルの新しいスターたちと活動を共にした。一方、感傷をそそる"ラヴァース"路線においてマイティ・トゥーはチャーリー・プライド(Charley Pride)のカントリー&ウェスタン・ソング、'Someone Loves You Honey'のヴァージョンをJCロッジ(JC Lodge)と共に制作し、結果として同曲は彼らに災難をもたらすこととなった。このレコードはレコード・バイヤーの間で大変な人気を誇ったが、"不作法な作曲者の表記"があったとしてジョーに著作権の問題が降りかかり、"結果として彼のスタジオは閉鎖を余儀なくされた"マイティ・トゥーはその後エロルの管理の下、キングストンでジョーが経営していたスーパーマーケットの運営に専念し、同時にジョーは息子であるカール'ロッキー'ギブス(Carl Rocky Gibbs)と共に、過去に数々のレーベルから発表されたヒット曲のリメイクをはじめ、自身のヒット曲のプロデュースなど、家族の伝統である音楽活動を続けた。1993年、リタイアメント・クレセントのスタジオは再びオープンし、マイティ・トゥーは時折パイオニアーズのシドニー・クルックス(Sydney Crooks)がアレンジを担当するなかでレコーディングを再開した。これらの録音は"ギブスが頻繁に足を運ぶようになったブラジルでその人気を証明した"

しかしながら60年代から70年代にかけてリリースされた、信じられないほどに荘厳なコレクションが、ジョー・ギブスの果てることの無い遺産を構成する...力強く、ダイナミックで、かつ攻撃的でありながら常に印象的なフックと忘れられないメロディーに彩られた楽曲の数々。これらの矛盾する要素が彼の音楽に長期に渡って親しまれる品質をもたらした。さらにマイティ・トゥーによる音楽的、技術的専門知識がキングストンのアヴァンギャルドな音楽をパッケージ化、それらは70年代を通して世界中に発信された。

エロル・トンプソンは度重なる脳梗塞の末、2004年11月13日に亡くなった。またジョー・ギブスは心臓発作により2008年2月21日に息を引き取った。
2014/01/17 掲載 (2014/01/17 更新)
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