レゲエコレクター.comレゲエコレクター.com
¥0 (0items)
Pass :
ID :
自動ログイン
トップ特集・オリジナルコンテンツレーベル名鑑Observer
レーベル特集
Observer(オブザーヴァー)Text by Harry Hawks
ジャマイカで最も独創的で、革命的なレコード・プロデューサーの1人、"ジ・オブザーヴァー"ホルネスの名前はいつも注目されてきた...
Observer
設立 1970年
設立地 ジャマイカ キングストン 
主要スタジオ
Channel One
Joe Gibbs
Randy's Studio
設立者
Winston 'Niney' Holness
プロデューサー
関連アーティスト
ジョージ・ボスウェル(George Boswell)、更にはナイニー・ジ・オブザーヴァー(Niney The Observer)として知られているウィンストン・ホルネス(Winston ‘Niney’ Holness)は1944年12月7日、ジャマイカのノース・コーストのモンテゴ・ベイで誕生、仕事場での事故で親指を失ってしまった彼は"ナイン・フィンガー(Nine Finger)"または単に"ナイニー(Niney)"として知られるようになった。20代前半にキングストンに移住すると、ナイニーはシンガーとして音楽のキャリアをスタート、ウィンストン・ホルネス名義でレーベル、コクソン(Coxsone)からリリースされた'You Shouldn't Be The One'を含む早期のロックステディのレコーディングをスタジオ・ワン(Studio One)に残した。

またバニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)が自身のレコードのプロモーションと販売を目的にナイニーを雇うまで、彼はクランシー・エックルズ(Clancy Eccles)やリー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)などの若手プロデューサーのためにレコードのセールスマンとして働いていた。バニーはナイニーが上等なセールスマンだったことを思い出す。

「ナイニーは俺のセールスマンで、パマ(Pama)と俺のセールスマンとしてはジャマイカ屈指になった。彼に自転車を与えると、ジャマイカ中のサウンド・マンたちがナイニーのことを、彼は全てのダンスに行ってチューンのプロモーションをしていたよ」バニー'ストライカー'リー

弟子であるストライカーのプロモーションを常に喜んで行っていたある男が、ナイニーをレコーディング・スタジオへと連れて行ったのはそれからすぐのことだった。

「それからナイニーはスタジオに出入りするようになった。ナイニーはビジネスのアイデアをたくさん持っていた...ナイニーは俺と一緒にプロデュースを始めたことを言っておかなければならないな、プロデュース業はナイニーに自分の道を歩むチャンスを与え、そして彼は自分のやりたいことを始めた、とてもクリエイティヴな人間だったからな」バニー'ストライカー'リー

1969年、フリーランスになったナイニーは若手プロデューサー、ジョエル'ジョー・ギブス'ギブソン(Joel Gibson)と仕事を始めたことをこう振り返る。

「あの仕事は夜間の仕事だった、なぜなら昼間はバニー・リー、他にもスクラッチのために仕事をしていたからね。ジョー・ギブス(Joe Gibbs)との夜間の仕事は小遣い稼ぎみたいなものだったんだ」ウィンストン'ナイニー・ジ・オブザーヴァー'ホルネス

ジョー・ギブスと制作した彼の作品には、数年後に"ダブ"として知られるようになる音楽への非常に早い段階での試みとなった"マカロニ・ウェスタン"をテーマにした2枚のレコードがある。ナイニーは"サウンド・エフェクトと破壊的なフォルス・スタートとブレーク最初に取り入れた1人"として知られている。'Navado Joe/Straight To The Head'はジョー・ギブス&ザ・デストロイヤーズ(Joe Gibbs & The Destroyers)、また前代未聞のミキシングの技術を取り入れた'Franco Nero (Version 1)/ Franco Nero (Version 2)'は共にデストロイヤーズ名義で表記されている。ナイニーはザ・デストロイヤー(The Destroyer)として知られていたが、オブザーヴァーへと変名することを決めた。

「俺はデストロイヤーと名乗っていた。自分でやろうと決めた時、リー・ペリーが俺のところへ来て、"俺様がアップセッター(Upsetter)だ、だから俺を破壊することは出来ない..."と言ったのを覚えているよ。俺はアートワークをやってくれる奴のところへ行ってレーベルの名前を変えたいと言ったんだ...オブザーヴァー(Observer)にしてくれってね」ウィンストン'ナイニー'ホルネス

世界の終わりを描いた'Blood And Fire'と共に1970年、彼にブレークが訪れた。このレコードは暴露された事実であり、ラスタファーライを賛美する中で、信仰者ではない者たちに向け"血、血、血、そして火"という今にも爆発しそうな怒りを警告した。

「1970年の暮れ、パワフル、肉体的、そして反逆な破滅の歌、裁きの日を歌った'Blood And Fire'を放った時、街中ナイニーの話題で持ちきりになった。情の無い者には無慈悲を..."裁きの時が来た、そして哀れみは消え去った"あの楽曲はジャマイカ音楽にとって、全く新しい方向性を示したが作品だが、誰にも真似することの出来ないほど非常に特徴的で並外れていた」カール・ゲイル(Carl Gayle)

この非凡なレコードは、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ(Bob Marley & TheWailers)がリー・ペリーのためにカットして間もない'Duppy Conqueror'の盗作疑惑をめぐる論争など、多くの反動の引き金となった。ナイニーは「スクラッチに俺が彼のチューンを盗んだって言われた...でも、この曲がかかるとみんなボブ・マーリーの楽曲とは全然似ていないと言うよ」とカール・ゲイルに語ったという。ナイニーのレーベル、オブザーヴァーからリリースされた'Blood And Fire'は3,500枚以上を売り上げ、レゲエの名曲というだけでなく、革命を起こすきっかけを与える楽曲として相応しく考えられている。

「ナイニーの 'Blood And Fire'の中での、構成の美しさを信じてもらうには聴く必要がある...これはどんな時代でもレゲエの名曲の1つだ」Rolston Kallyndyr & Henderson Dalrymple

続く次の数年間、ナイニーはキングストンで新たに起った"レベル(反逆)"を題材にするレコード・プロデューサーの中でも最も独創的な1人としての名声を確立した。彼の作品はロイドFキャンベル(Lloyd Campbell)のレーベル、ザ・シング(The Thing)からリリースされた、生々しい反逆的なルーツ、サング・ヒュー(Sung Hugh)が歌った'Rasta No Born Yah'から、ケン・ブース(Ken Boothe)のお決まりの歌い方で1972年にナイニーのレーベル、オブザーヴァーよりリリースされ、大ヒットを記録した彼らのロマンチックな'Silver Words'まで多岐に渡る。

「ケン・ブースのベスト・チューンの1つはナイニーの'Silver Words'だな」バニー'ストライカー'リー

しかしリリックの内容がどうであれ、ナイニーの先進的な作品はいつでもすぐに認識することが出来た。

「どこにいても、オブザーヴァーのリズムはいつでも聴いたとたんに分かる。ハードで、勢いがある、そして"Niney Prodution"という、どう見てもそれと分かるスタンプがいつも押してある」クリス・レーン(Chris Lane)

「そして彼はデニス・ブラウン(Dennis Brown)と活動を始め、その後は言うまでもなかろう...」バニー'ストライカー'リー

1973年の夏、デニス・ブラウンは「アル・グリーン(Al Green)のレコード、'Love And Happiness'のイントロと思いやりのない歌詞の' Westbound Train'で第1位の座を射抜いた...」ナイニーとデニス・ブラウンのコンビの始まりはジョー・ギブスのために作品作りをした頃まで遡り、そして今'Cassandra'、'I Am The Conqueror'や'No More Will I Roam'を含む、ヒット曲に次ぐヒット曲を世に送り出すまでになった。この頃からのデニスの、ナイニーへの作品のソリッドな一貫性はジャマイカ音楽史の最高点として残り、多くのヒット・シングルに加え、「Just Dennis」と「Deep Down」という2つの素晴らしいアルバムもリリースされた。Swing MagazineのAnnual Awardsでデニス・ブラウンは1973年のJamaica's Top Male Vocalistに選ばれ、翌年にはJamaica's Number One Producerという栄誉と共に紹介された。ナイニーはまたディージェイたちと幅広く活動し、デニスの'Westbound Train'のヴァージョン'Train From The West'をUロイ(U Roy)がヒットさせ、ビッグ・ユース(Big Youth)は'Fire Bunn'と名付けられた'Blood And Fire'のカットで感情をむき出しにし、Iロイ(I Roy)はジ・オブザーヴァーと共に'Maggie Breast'や'Point Blank'でナンバー・ワン・ヒットを手にした。ナイニーのダブ・アルバムの第1作目「Dubbing With The Observer」はデニス・ブラウンとのヒット・シングルの一連を分解したものだった。キング・タビー(King Tubby)によるミックスされたこのアルバムはソウル・シンジゲート(Soul Syndicate)の魅力的なリズムを見せ付けただけでなく、オリジナルのヴォーカル・トラックの美を強調させるものになった。

80年代の初めにフランスに拠点を移したナイニーだが、1983年にキングストンに戻り、1979年に16トラックにアップ・グレードしたマックスフィールド・アヴェニューに位置するフーキム(Hookim)のチャンネル・ワン(Channel One)の専属プロデューサーとして、60年代後半行っていた職に再び戻り、彼らの新しいレーベル、ヒット・バウンド(Hit Bound)より作品をリリースした。ナイニーはチャンネル・ワンでイエローマン(Yellowman)最初期のアルバムの1つに携わり、サード・ワールド(Third World)の名曲'Roots With Quality'やシュガー・マイノット(Suger Minott)の'Lover's Race'などを含む自身のプロデュース作品を作り続けた。しかし今まで以上に休むことのない彼は、渋い'Same Dog Bite'を含む一連のレコードでピーター・トッシュ(Peter Tosh)の息子、アンドリュー・トッシュ(Andrew Tosh)と活動をするため、1988年にキングストンに帰国するまでニューヨークで暮らしていた。彼の幅広いバック・カタログはコンパイルされ、ヨーロッパやアメリカ数々のレーベルからリリースされたが、ナイニーは決して得た成功に満足するような人間ではなかった。2012年の暮れ、ロンドンが誇る兄弟のリズム部隊、マフィア&フラクシー(Mafia & Fluxy)をバック・バンドに従え、ロンドンでライヴ&ダイレクトのパフォーマンスを行い、次の張るには自身のオブザーヴァー・サウンドボックス(Observer Soundbox)スタジオをキングストンのリンドハースト・ロードにオープンさせた。

「彼はジャマイカではビートを変えたと言われている。彼は探求者でありペースメーカーだ。ジャマイカ音楽をコンスタントに動かし、その生命力を維持させる、そして一切の妥協は許さずに一般大衆のためだけに提供する一握りの人間だ」カール・ゲイル

参考文献:
Carl Gayle: Niney, The Observer Black Music Volume 2, Issue 21 August 1975
Noel Hawks & Jah Floyd: Reggae Going International 1967 to 1976 The Bunny 'Striker' Lee Story
Jamaican Recordings Publishing 2011
Rolston Kallyndyr & Henderson Dalrymple: Reggae, A People's Music Carib-Arawak Publications 1975
Chris Lane: Observing The Observer Pressure Drop (One) Autumn 1975

2014/07/14 掲載 (2014/07/14 更新)
Copyright (C) 2024 Dub Store Sound Inc.
無断転載は固くお断りしております
関連タイトル
B side) No Loafter
¥5,800
試聴する
B side) Ranking Buckers - Nebuchadnezze
¥6,800
試聴する
A面中盤に傷がありノイズが入ります/Scratches and noise in the middle of side A
B side) Observer - Life Every Day
¥7,800
試聴する
B side) Original All The Way
¥7,800
試聴する
B side) Iron Fist
¥2,800
試聴する
B side) Observer Style - Tribulation Dub
¥2,240
試聴する
B side) Version
¥600
試聴する
B side) Version
¥600
試聴する
>>レーベル: Observerの全在庫商品を見る
>>プロデューサー: Winston 'Niney' Holnessの全在庫商品を見る