Tommy McCook(トミー・マクック)Text by Harry Hawks
トミー・マクックの申し分の無いテナー・サックスは数え切れない60年代と70年代に行われたレコーディングを華やかにしたが、作曲家/編曲者として彼が残した作品もそれと全く同等に価値がある。誰もが認める現代ジャマイカ音楽の開拓者であり基礎を築いたアーティストの一人。
Tommy McCook
出生 |
1927年3月3日 |
死没 |
1998年5月5日 |
出身地 |
ジャマイカ キングストン |
関連アーティスト |
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「トミーはローランド・アルフォンソ(Roland Alphonso)と共にかの有名なスカタライツ(Skatalites)バンドの創立に貢献し、彼は常に将来を見据えて歩み続けている」Brass Rockersより
トミー・マクックは(Tommy McCook)は1927年3月3日、キューバのハバナでジャマイカ人夫婦の間に生まれたのちジャマイカのキングストンに移住、その6年後の11歳の時母親によりアルファ・カソリック・ボーイズ・ホーム・アンド・スクール(Alpha Catholic Boys Home And School)のローマン・カソリック教の修道女に預けられた。彼は音楽のセオリー、フルートそしてテナー・サックスをジャマイカで名を馳せているこの慈善施設で4年間学んだ。ジャマイカにおける伝説的なジャズ・ミュージシャンと称されるドン・ドラモンド(Don Drummond)、ボビー・エリス(Bobby Ellis)、ヴィンセント'ドンDジュニア'ゴードン(Vincent 'Don D Junior' Gordon)、ジョニー'ディジー'ムーア(Johnny 'Dizzy' Moore)、リコ・ロドリゲス(Rico Rodriguez)たちもまたアルファ・バンドの総指揮者であったレニー・ヒバート(Lennie Hibbert)のもとで演奏の技術を磨いていった。アルファを離れるとトミーはエリック・ディーン・オーケストラ(Eric Dean Orchestra)の一員として活動し、レイ・コバーン・ダンス・バンド(Ray Coburn Dance Band)に参加するや直ちにジャマイカ国内で最も成功した若手ミュージシャンの1人としての評価を定着させた。しかし50年代のキングストンには音楽を演奏する機会は決して多かったとはいえず、ジャマイカ選りすぐりのミュージシャンたちは仕事を求め海外に移住してしまった。1954年、ナッソーのダンス・バンドに参加するためにトミー・マクックもまたバハマに向け海を渡った。
「私たちはアメリカのビッグ・バンド期のオーケストラ用に作られた音楽を演奏していた。私はビッグ・バンドでキャリアをスタートさせたのだ。1943年頃はアメリカのオーケストラ曲を演奏していたな。例えばカウント・ベイシー(Count Basie)、グレン・ミラー(Glenn Miller)、ウッディ・ハーマン(Woody Herman)、デューク・エリントン(Duke Ellington)そしてスタン・ケントン(Stan Kenton)、ジーン・クルーパ(Gene Krupa)など...要するに誰でもだな。しかし私がバハマ滞在時に参加していたダンス・バンドでは旅行客たちはジャズを全く聴きたがらなかったのさ。彼らは島の音楽を聴きたがった。例えばルンバ、カリプソなどそれに当てはまれば何でもだ。アメリカの定番曲を演奏するとすぐにでも"アメリカの音楽は聴きたくない。今さっきまで聴いていたんだから。ここでは違う音楽を聴かせろ"なんていわれたものさ。でも私はかまわなかったよ。1963年頃にはアメリカの音楽を演奏するのに飽き飽きしていたからな」トミー・マクック
キングストンに戻るとトミーはオーブリー・アダムス(Aubrey Adams)と共にコートリー・メイナー・ホテルで仕事を持った。また彼はスタジオ・ワン(Studio One)のクレメント'コクソン'ドッド(CS Dodd)とトレジャー・アイル(Treasure Isle)のデューク・リード(Duke Reid)のためにスカの楽曲を作り録音を始めた。一番愛していた音楽はジャズだった答える彼にとってスカがジャズと同じくらいの重要性がある音楽になりうるということに自身を納得させることは容易ではなかっただろう。ジャマイカ国内でレコーディング産業が始まった頃録音されたレコードで演奏した20人あまりのスタジオ・ミュージシャンたちのほとんどはジャズをバックグラウンドに持っていたためトミーは次第に彼らをまとまった一つの集団へと組織するようになった。
「あれはディジーだったか、ロイド・ニブ(Lloyd Knibbs)だったか、またはその周りにいたやつだったが"サテライツ"という名前はどうだと提案したんだ。私は"いや、俺たちが演奏したのはスカだからスカタライツだ"といったのさ」トミー・マクック
レイ・タウンにあるハイ・ハット・クラブ(Hi Hat Club)で初めて公の場でショーを行った1963年から1965年にランナウェイ・ベイ・ホテルで行われた警察官たちのダンス・パーティでのラスト・ショーまでがスカタライツの主な活動期間だった。彼らが共に活動した期間は短かったものの彼らの影響力は計り知れないものだった。2年という非常に素晴らしい創作期間の中で、彼らはこの新しいジャマイカの音楽を完全に仕上げ、この国で始まったばかりの音楽産業の枠組みを作る手助けをした。
1965年の夏、スカタライツのメンバーたちがアンサンブルとして以前よりも小さいスタジオをベースに活動を開始し始めた頃トミーは教会法人のバンド、ケス・チン・アンド・ザ・スーベニアーズ(Kes Chin and the Souvenirs)のホーン・セクションのアレンジを任されていた。スカがロックステディへと移行していくとローランド・アルフォンソとジャッキー・ミットゥー(Jackie Mittoo)はスタジオ・ワンのコクソンのもとでザ・ソウル・ブラザーズ(Soul Brothers)を結成、トミー・マクックはデューク・リードのトレジャー・アイルのもとでアルト・サックス奏者のハーマン・マークイス(Herman Marquis)と共に音楽ディレクターに抜擢されリード専属のバンド、トミー・マクック・アンド・ザ・スーパーソニックス(Tommy McCook and the Supersonics)を組織した。
「私は幸運の持ち主だったよ。彼らのセッションに私のアイデアを採用してくれてね、リズムに乗せる私の音楽の作曲センスを評価してくれた」トミー・マクック
ロックステディの登場はキングストンのホーン演奏者たちの需要を減少させたということがしばしばいわれてきた。これには幾分の事実はあるものの、多くのホーン演奏者たちは編曲やソロとして現役を続け、ステージでのライブとスタジオでの録音を行った。トレジャー・アイルで編曲者、テナー・サックス奏者の二足のわらじを履いていたトミー・マクックは再度新しい音楽革命の先駆者となり、ロックステディとその後に続いたジャマイカ音楽の発展に貢献した重要性は計り知れない。
1968年の終わりに近づくと新しいレゲエの演奏スタイルが主流になり始め、デューク・リードはロックステディよりも早いリズムのこのスタイルでもいくつもの大ヒットを放った。
「デュークの新しいサウンド"レゲエ"を含む4曲がJBCのトップ20チャートにランク・イン...」Here Come The Dukeより
続く翌年にはボンド・ストリートでリー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)監修のもと"Upsetter & Tommy McCook and The Supersonics"とクレジットされた'Lock Jaw'が録音され、ディージェイとダブというジャマイカ音楽のまったく新しい方向性を示した作品となった。'ルディ'ウッド('Ruddy' Wood)と(または)キング・タビー(King Tubby)が'You Don't Care'または'On The Beach'で 一風変わったミックスを試みた際にヴォーカルを取り除いきダブが誕生したという伝説はよく知られているが、誰が先駆者なのかという判断は今現在非常に難しい状況になっている。しかしながら全てのダブ/ヴァージョンの録音の始まりに使用されたのはトレジャー・アイル産のロックステディのリズムだったことに関しては誰一人として反論をするものはいない。
デューク・リードのもとに在籍中トミー・マクックはレゲエ界のトップ・アーティストたちと共に世界を回り、キングストン全てのスタジオで仕事をし、バニー・リー(Bunny Lee)のアグロヴェーターズ(Aggrovators)含む多数のプロデューサーたちのために録音した。
「私はフェデラル(Federal)、ダイナミック(Dynamic)、ランディーズ(Randys)、ハリーJ(Harry J)など様々なスタジオで仕事をしたんだが、セッションの監督、テープのミキシングを手伝ったりマスター・テープのカットをしたりしていたトレジャー・アイルを拠点に活動していた」トミー・マクック
1983年にジャマイカのモンテゴ・ベイで行われたフェスティバル、レゲエ・サンスプラッシュにおいてそのとき現存していたメンバーでスカタライツは再結成を果たし、その後時彼らは世界をツアーし新しい世代の音楽愛好家たちに時代を超越したリズムの魅力を届けた。
トミー・マクックはアメリカ、ジョージア州のアトランタで1998年5月5日に帰らぬ人となった。彼の作品の数々はジャズから始まりスカ、ロックステディ、レゲエ、そして最後にスカに回帰し、近代ジャマイカ音楽の発展において重要な役目を担った彼の功績はこの先も決して忘れ去られることは無く永遠に語り継がれていくことだろう。
2019/08/23 掲載