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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Eek A Mouse
アーティスト特集
Eek A Mouse(イーク・ア・マウス)Text by Harry Hawks
元祖シングジェイ、イーク・ア・マウス、彼の主張は198cmという巨大な身体のように大きく広くあり続けてきた。彼は常にジャンルの壁を壊し、ルーツ、ダンスホール、"クロスオーバー"レゲエの架け橋を作ってきた。
Eek A Mouse
本名 Ripton Joseph Hilton
出生 1957年11月19日
出身地 ジャマイカ キングストン 
リプトン・ジョセフ・ヒルトン(Ripton Joseph Hilton)は1957年にジャマイカのキングストンで生まれ、とても珍しいステージ・ネームは彼がイーク・ア・マウス(Eek A Mouse)という毎回ビリの競争馬に賭けていたことに由来する。彼はある1度だけその馬に賭けるのを忘れてしまうとその馬はなんとそのレースに圧勝してしまった。そしてそれは彼にとって忘れてはならない出来事となった...

彼の最初の7インチ・シングル'Creation'と'My Father's Land'はイーク・ア・マウス・レコーズ(Eek A Mouse Records)からリリースされ、彼の3枚目のシングル'No Wicked Can't Reign'は1970年の後半、彼がまだ在学中にクオリティ(Quality)からリリースされた。本名リプトン・ヒルトン名義で発表されたその3枚の素晴らしいルーツ作品で彼は発展途上にあった独自のスタイルを披露していた。しかし当時のレコード・バイヤーたちはこれ以上文化的な作品に興味を示さなかった為、彼がリリースした3枚のレコードは特別大ヒットには至らなかったが、需要が高まりつつあったダンスホール・スタイルには好評だった。2006年の夏にイギリスで再プレスされた時には流行りは変わっており、当時マイナーだった3曲の傑作はとても人気になっていた。

1980年、マイティ・トゥー(Mighty Two)ことジョー・ギブス(Joel Gibson)とエロール・トンプソン(Errol Thompson)によるレコーディング・セッションの時に彼は自身があみ出した新しいスタイルを試した。それは歌とディージェイを半分半分にして歌ったもので、自然の流れでのちに"シングジェイ(Singjay)"と呼ばれるようになった。彼の新しいアプローチは極東やホレス・アンディ(Horace Andy)の歌い方を暗示するものであったが彼の決まり文句である「バン・バン・ビディ・ベン(Bang bang biddy beng)」がそのスタイルをよりユニークなものにした。ジョーとエロールは結果的に彼の新たな試みをリリースしなかったが、リプトンはそれにめげることなくマイクを握り歌い続け、ブラック・スコーピオ(Black Scorpio)、ジェミナイ(Gemini)、ヴィーゴ(Virgo)などのキングストン最高峰のサウンドシステムでライブ・パフォーマンスを行った。

ビート・ボックス(持ち運びができる録音可能な大型のカセットプレーヤー)の普及が高まるとダンスのパトロンたちはライブの様子を録音することが可能になった。それまではキングストンの湿った夜の闇の中に吸い込まれていった音楽、歌詞、雰囲気はカセットの中に納まり、半永久的に聴けるようになり、大量にダビングされ、貸しまわされたり、盗まれたりしながら世界中の熱心なレゲエファンたちに伝わっていった。そして"ダンス"は暗闇にぼんやりとレコーディング中を意味する赤いライトが灯っていない限り、特別なイベントではなくなってしまい、そういった現象が起こったのはイーク・ア・マウスの音楽がキングストンのダンス・ホールの門を超え遥か向こうに過ぎ去ってからすぐのことだった。

その年の暮れに期待の若手プロデューサー、ヘンリー'ジュンジョ'ロウズ(Henry 'Junjo' Lawes)はリプトンをスタジオに連れて行きレコーディングを行った。ロンドンのグリーンスリーブス(Greensleeves)から12インチでリリースされた彼ら最初の録音'Noah's Ark'はとても興味深い作品となった。バックバンドのルーツ・ラディックス(Roots Radics)のヘビーなリズムに支えられた'Noah's Ark'は次にリリースされる曲の予兆のようで'Wa Do Dem'がジャマイカのヴォルケーノ(Volcano)、翌年の早期にはイギリスのグリーン・スリーブスから発売されると彼のファンたちは大興奮した。'Wa Do Dem'はジャマイカのラジオ局から物議をかもし出す内容が原因で放送禁止になるも大ヒットをとばし、イギリス盤も驚異的な売り上げを記録した。これを受けジョー・ギブスはジョー・ギブス・ウルトラ・サウンド(Joe Gibbs Ultra Sound)からリプトンとの最初のレコーディング・セッションで録音した「Once A Virgin」をすぐさま発表したのだった。

彼はジュンジョとシンガーからプロデューサーに転身したリンバル・トンプソン(Linval Thompson)のために幅広く録音を始め、1981年のレゲエ・サンスプラッシュ(Reggae Sunsplash)でセンセーションを巻き起こした季節物のナンバー'Christmas A Come'でその年を締めくくった。そしてキングストンの何人もの名だたるディージェイたちがハーフ・ウェイ・ツリーのスケートランドでライブ音源をとったジェミナイ・ディスコ(Gemini Disco)での彼のパフォーマンスを撮った写真は最初にライブの音源をリリースしたハートビート・レコーズ(Heartbeat Records)のアルバム「A Dee Jay Explosion Inna Dance Hall Style」のジャケットに大々的に使用された。イーク・ア・マウスはジュンジョとの討論が過熱しすぎ手が付けられなくなってしまい投獄されたことを持ち上げ「ビッグなイーク・ア・マウスがダンスホールに。今は法律で認められている、俺は今法律で認められているんだ」と家庭に生々しいダンスホール音楽を持ち込み熱烈に受け入れられたのだった。すぐに不仲は回復し同年の暮れにジュンジョの制作したライブアルバム「A Live Session With Aces International」に参加した。

決まり文句の"バン・バン・ビディ・ベン"や豚やカエルの泣きまねなどもこなす多芸な彼だが、生まれ持った恵まれた才能と思考力、そして知性が他のライバルたちと差をつけ、彼の音楽に対する熱意を真剣に表現したレコードも多数ある。例えば、'Anarexol'、'Do You Remember'、'Terrorist In The City'そして彼と仲の良かったディージェイ、エロール・ショーター(Errol Shorter)の死にインスパイアされた'Operation Eradication'などだ。

1985年、ラス・レコーズ(RAS Records)からリリースされたアルバム「Assassinator」は初のアメリカ正規盤で、クロスオーバーに置ける成功を確立し、世界中のオーディエンスに彼の存在を知らしめるきっかけとなった。知名度が上がるにつれ彼はイギリス人プロデューサー、クリフ・カーネギー(Cliff Carnegie)と組み、1988年に「Eek A Nomics」発表しさらに知名度を上げた。1989年にアイランド・レコーズ(Island Records)と契約し、ギャング映画「New Jack City」の出演を勝ち取ったのだが彼一番の見どころは編集の段階で理由も分からぬままカットされてしまった。彼はアメリカに長年住みレコーディングを続け、自宅のカリフォルニアからツアーに出かけ、なんと年に200回を超えるショーをこなしている。彼が2004年に発表したUKコクソン(UK Coxsone)の伝説であるブラッカ・ドレッド(Blacka Dread)の下で録音したアルバム「Eek A Speeka」は彼がまだ勢いの衰えない現役であることを示し、彼をデビュー当時から愛し続けるファンたちも決して失わない程の出来栄えだった。

彼はスタイル&ファッションを彼の名前のようにリジナルのアプローチを持って変えながらレゲエ界で活動を続け、彼とのコンビネーションを望むダンスホール、ヒップホップ、ロックなど様々なジャンルのアーティストたちからの需要が一定してある...彼らは少しでもあの競走馬がそうだったようにイーク・ア・マウスの魔法が起こることを願っているのだ。
2017/09/12 掲載
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