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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Bob Marley
アーティスト特集
Bob Marley(ボブ・マーリー)Text by Jeremy Collingwood
小さな植民地下の島国ジャマイカの貧困に生まれながら国際的な音楽スターとなった類に見ない人物でその存在は特別である。搾取され支配下に置かれた人種、階級の存在とその声を世界に届けた。
Bob Marley
本名 Robert Nesta Marley
出生 1945年2月6日
死没 1981年5月11日
出身地 ジャマイカ セント・アン教区 ナイン・マイルズ
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1945年5月、ロバート・ネスタ・マーリー(Robert Nesta Marley)は植民地下にあった島国ジャマイカの田舎に生まれた。ジャマイカは西アフリカから連れて来られた奴隷たちによって生産される砂糖によって築き上げられた国家で、奴隷たちは倒れるまでサトウキビ畑で働き続けた。ボブの誕生は白人の父親がジャマイカの黒人女性に出会った結果で、実際は従来、白人の農園主がしばし彼らの奴隷や他の奴隷から性的な欲求を満たしていたのと同様のことだった。

ボブの父親は彼の母と結婚したもののそれは書面上だけのことだった。ボブの成長期、多くの子供たちは親たちからの保護を受けることは少なかったがその大半がボブの生誕地ナイン・マイルズではなくジャマイカの首都キングストンに居住していた。

溶接工として働いていたボブはキングストンに住む子供たちと同じくいつもミュージシャンになることを夢見ていた。彼は練習に何時間も時間を費やし、キングストンをツアーしたアメリカのソウルやR&Bアーティストたちの公演を見に行くこともあった。キューバやニュー・オリーンズから流れてくるラジオへの愛情が彼の音楽魂を育んでいった。

ボブは17歳で中国系ジャマイカ人であるコング一家のビヴァリーズ(Beverleys)のために初めての録音を行った。1962年に発表されたこの'Judge Not'は旧約聖書の有名な説教からインスピレーションを受けたものだったが、これに続いた'One Cup of Coffee'と同様に売れることはなかった。余談だがジャマイカ生まれのイギリス系だった若きクリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)はスタートしたばかりのレコード会社アイランド(Island)からデビュー曲'Judge Not'をリリースしていて、2人はあくる70年代に屈強のパートナー関係を築くことになる。

ボブのキャリアはザ・ウェイラーズ(The Wailers)として1950年代からアーティストの録音を手掛けてきたスタジオ・ワン(Studio One)のクレメント'コクソン'ドッド(CS Dodd)との契約で正式にスタートする。ウェイラーズはボブ、子供のころからの友人であったネヴィル'バニー'リヴィングストン(Bunny Wailer)とピーター・トッシュ(Peter Tosh)から構成され、3年間の間にゴスペルからR&B、バラード、もちろんスカまでを60曲ほどドッド氏のもとで録音した。彼らは'Simmer Down'、'One Love'、'I'm Gonna Put It On'といった楽曲でジャマイカの音楽シーンにおける新生スターとなり、発展途上のサウンド・システムのシーンでヒットを記録した。この頃"ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ(Bob Marley & The Wailers"の名義で一部の楽曲が発表されこともあり、ボブはすでにフロントを務めることがあった。ドッド氏は彼らのアルバム「The Wailing Wailers」をリリース、ジャケットでウェイラーズが取ったポーズは彼らがサザン・ソウルの名グループ、インプレションズ(Impressions)の影響を伺わせた。

ドッド氏はアーティストやバンド・ミュージシャンに印税のないレーベル運営を行っていたためヒットから発生した報酬はすべてオーナーの手に渡った。ドッド氏の干渉主義的な関係からボブとグループはスタジオ・ワンを離れ、自分たちのレーベルを設立。スタジオ・ワン在籍時、(アルファ)リタ・アンダーソン(Alpharita Anderson)と結婚したボブはバニー、ピーターと共にボブ・マーリー&ザ・ウェイリング・ウェイラーズ(Bob Marley & The Wailing Wailers)を結成、ウェイルン・ソウルム(Wail N Soul M)を設立した。1967年から1969年の間にグループは多数の見事なロックステディのシングル盤をリリースするもレーベルは結局長続きしなかった。この時期に彼らはキンストンでレーベルのJADと出版会社であるケイマン(Cayman)を運営するアメリカ国籍のジョニー・ナッシュ(Johnny Nash)とダニー・シムス(Danny Sims)に出会い契約を交わすことになった。ジョニー・ナッシュは1968年に、自身の楽曲'Hold Me Tight'で世界にポップ調のロックステディを紹介したことでも知られる。

1972年までボブはJADとの契約を維持、リー・ペリー(Lee Perry)などのプロデューサーとの録音を続けた。ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの名義で活動していた彼らは'Duppy Conqueror'や'Small Axe'、'Soul Rebel'、'Sun Is Shining'などの楽曲でジャマイカ国内での成功を手にしていった。彼らは反逆的でラスタファリアンとしての信仰を支持するようになっていた (*ジャマイカ人がイギリス植民地だった島国であるジャマイカの外にそのアイデンティティを見出そうとするカルトの一種) 。

ダニー・シムスはアメリカやイギリスでポップ調にアレンジしたレゲエ楽曲'Bend Down Low'や1971年にリリースした'Concrete Jungle'(*この楽曲がのちにボブの代名詞になるのだが...)のラジオ・プレイを得ようと試みるも放送されることはなかった。ボブはキング・ストリート127番地にタフ・ゴング・レコーズ(Tuff Gong Records)を設立、すばらしい楽曲からなる一連のシングル盤によってジャマイカ国内のファンを獲得していったが海外では受け入れられずアルバムのリリースもままならなかった。

1972年、JADはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーにクリス・ブラックウェルが運営するアイランドに連絡することを促した。新たにウェイラーズと改名した彼らはアイランドからのシングル盤をリリース、のちに100タイトル以上の楽曲を同レーベルから発表することになる。マーケティングやプロモーションの重要性を理解していたブラックウェルはボブを反逆的、そして革命的な魂として、音楽に餓え、音楽から何か新しいものを求めていた学生や流行好きに紹介していった。クリスと活動を行えたのもボブの力量であり、クリスの計画はボブにとって新たな音楽キャリアをすることを可能にした。売上げは好調でなくともザ・ウェイラーズは成長を遂げ始め、その姿勢は物珍しいレゲエや民族音楽から変貌を遂げる彼らの真剣な音楽に反映されていった。

数年後の1974年、ピーターとバニーが同グループを脱退、彼らはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズと改名すると、ウェイラーズはボブのバック・バンドの役割を果たしていった。ツアーの厳しさや報酬の少ないこと、さらに取材への対応を嫌ったバニーとピーターだが、ボブは自身の目標を保ち続けた。ジャマイカでソロとしてすでに成功していたマーシャ・グリフィス(Marcia Griffiths)、ジュディ・モワット(Judy Mowatt)が在籍し、リタが率いたアイ・スリーズ(I Threes)が力強いバッキング・ボーカルを務めた。1974年、クリス・ブラックウェルがホープロード56番地に所有した家、アップタウンへとボブは移り住み、タフ・ゴングの新たな本拠地となった。この場所は今日ボブ・マーリー博物館として残されている。

アイランドから発表されたアルバム「Live」はロック界におけるボブの認知度を押し上げ、ロンドンで大流行。チャート入りを果たしアメリカでブレイクし、一流となった彼だがレコードの売上げは思うようにいかなかった。彼を信じ続けたクリス・ブラックウェルは1977年アルバム「Exodus」をリリース、このアルバムが世界中のチャートを騒がせるとボブ・マーリーは一流ロック・スターの仲間入りを果たした。それから数年で彼を象徴する長いドレッドロックス、デニムの洋服、女性への愛、マリファナ、サッカーが世界的に認知されるようになり、世界的スーパースターとなった。

キングストンで横行する暴力行為(アメリカの中央情報局が背景にあった)を排除しようとジャマイカで開催された"One Love Peace Concert"では主演を飾り、ボブの導く力によってジャマイカで抗争関係にあった政党党首の2人の手をステージで握らせたことは有名である。国際的な政治の圧力や薬物取引によって引き裂かれたジャマイカにおけるボブの存在とその重要性はこの大規模なコンサートが強く物語っている。

ボブがスターの地位を手にするまで15年ほどの年月がかかったが、彼がその栄光を味わった期間はたったの4年ほどで、世界中が'One Love'、'Redemption Song'、'Could You Be Loved'、'Three Little Birds'、'No Woman No Cry'といった楽曲を認知するようになった。生前、彼はジンバブエ独立式典に参列、4万人の前でパフォーマンスを披露。彼は第3世界と呼ばれた発展途上国における真の英雄であった。

1981年2月、ボブ・マーリーはガンが原因で死去。親指の爪に悪性黒色腫があり1970年後期にはこの病気が全身を蝕んだ。

2020/01/10 掲載
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