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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Johnny Osbourne
アーティスト特集
Johnny Osbourne(ジョニー・オズボーン)Text by Harry Hawks
生意気な若手の新人が溢れるダンスホールでたびたび多才なヴェテランにも居場所があることを証明した有能なプロ・ヴォーカリスト。
Johnny Osbourne
本名 Errol Osbourne
出生 1948年
出身地 ジャマイカ ジョーンズ・タウン 
関連アーティスト
1948年生まれのジョンニー・オズボーン(Johnny Osbourne本名Errol Osbourne)はワイルド・キャッツ(Wild Cats)のメンバー、またテクニークス(Techniques)のメンバーとして活躍するウィンストン・ライリー(Winston Riley)のもとで歌手としてのキャリアを20代前半でスタートさせた。彼にとって1969年は転換期となり、ジョンニー・オズボーン・アンド・ザ・ワイルド・キャッツの名義でスタジオ・ワン(Studio One)のミスター・ドッド(CS Dodd)のために素晴らしいデビュー曲'All I Have Is Love'を録音、コクソン(Coxsone)レーベルからリリースした。ウィンストン・ライリーとバスター・ライリー(Buster Riley)が彼らの会社を設立すると、ジョニーは彼ら兄弟の新しいレーベル、テクニークス(Techniques)との活動をスタートさせた。ジョニー・オズボーン&ザ・センセーションズ(Sensations)とクレジットされた'Come Back Darling'は彼らにとって最初期の大ヒットの一つとなった。ジョニーとザ・センセーションズはテクニークスのために録音を続け、同年の末にジョニーのヴォーカル楽曲とジョニー・オルガン(Johnny Organ)のインストゥルメンタル楽曲を収録したアルバム「Come Back Darling」をリリースした。一説によれば、このアルバムの制作が終わった日に彼はジャマイカのキングストンからカナダのトロントに飛び立ったという。

ジョニーはトロントの音楽シーンに浸かり、ザ・アイシャン・ピープル(The Ishan People)に加わるまで数々のソウルやレゲエ・バンドと自身のヴォーカル技術を高めていた。彼はリード・ヴォーカリストとしてこのグループと2作のアルバムを録音するも1979年に解散。ジョニーは故郷に戻るとスタジオ・ワンで人気シングル'Jealousy, Hatred, Heartache & Pain'、'Forgive Them'、そしてベイシーズ(Bassies)の'River Jordan'をもとに制作された美しい'Love Is Here To Stay'を録音、これらの楽曲がすべて大ヒットするとジョニーは本格的にスタジオ・ワンのあるブレントフォード・ロードでの録音を開始した。翌年にはアルバム「Truths & Rights」がリリースされ、シュガー・マイノット(Sugar Minott)の「Live Loving」やフレディー・マクレガー(Freddie McGregor)の「Bobby Babylon」と並びスタジオ・ワンの復活に貢献した傑作として認められるようになった。これらのLP盤は60年代にブレントフォード・ロードで制作されたリズムの重要性と関係性に重点を置いているがあくる80年代にはダンスホール・スタイルの基礎となった。この中でも重要なトラックである'Truths And Rights'やアレクサンダー・ヘンリー(Alexander Henry)の'Please Be True'のリズムを使った'Sing Jay/Jah Stylee'はただ新しいスタイルを紹介しただけでなく、その楽曲の'Sing Jay'はディージェイのようにパフォーマンスするシンガーの名称、"シングジェイ"としてジャマイカで広く使われるようになった。

デビュー録音から11年、ジョニー・オズボーンはジャマイカを代表するシンガーとなり、あくる十年間をキングストンのレコーディング・スタジオで過ごした。ヘンリー'ジュンジョ'ロウズ(Henry ‘Junjo’ Lawes)のために録音した2つのアルバム「Fally Lover」と「Never Stop Fighting」ではルーツ・ラディックス(Roots Radics)をバックにラブ・ソングとリアリティ・ソングを織り交ぜて聴かせた。また、プリンス・ジャミー(Prince Jammy)として当時知られたロイド・ジェームス(Lloyd James)との活動を始める前にはリンヴァル・トンプソン(Linval Thompson)とも'Back Off'や'Trying To Turn Me On'などを制作、パパ・トゥロ(Papa Tullo)がディージェイで反撃したこれらの作品は12インチ盤で大ヒットした。プリンス・ジャミーは後に80年代のダンスホール・ミュージックを支配しキング・ジャミー(King Jammy)として認められるようになるわけだが、そんなプロダクションチームにいる数多きヴォーカリストの中でもジョニー・オズボーンは一番のヒット・メーカーだった。

彼らが初めて一緒に制作した「Folly Ranking」はキングストンにおける銃の役割や暴力が解決するという誤った考えを信じる人たちを批判、そして自伝的楽曲ともいえる'Trenchtown School'はレゲエを生み出したアーティストとミュージシャンがどこ出身かを再確認させるものだった。トレンチタウンのゲットーでの生活は厳しく、苦しむ者たちの多くがいつも音楽によってその痛みをやわらいだ...「面倒なことは忘れて踊るんだ」ホープトン・ルイス(Hopeton Lewis)の大きな影響力を持ったロックステディ楽曲'Take It Easy'を使った'Water Pumping'はキングストンのダンスで計り知れないほどの流行を生み出した。

この時代の音楽は、特に歌詞がジャマイカの置かれている状況、リアリティから目を背けるようになり、短命な方向に向かっていたとしばし議論されるがレベル・ミュージックの最も良く知られた要素がエンターテイメントであると同時に教育的でありえることが指摘される。

「レゲエが政治的だったり激しかったりする必要はない。何でもいいんだ。何事もほとんどが音楽になる価値を持っている」ボブ・マーリー(Bob Marley)

1985年、ジャミーズ(Jammys)で制作されたウェイン・スミス(Wayne Smith)の'Under Me Sleng Teng'によってデジタル期の波が押し寄せ、コンピューターによって生み出されるリズムがレゲエ・ミュージックの発展において次なるそして決定的な時期となった。ジョニーの'Buddy Bye'も無数に制作された'Sleng Teng'リズムの楽曲の中で最も人気のある楽曲の1つで、これに続くようにジャミーズ・スーパー・パワー(Jammy's Super Power)サウンドシステムを賛美する'In The Area'や'Dub Plate Playing'などの一連楽曲が発表された。また'No Sound Like We'はジャミーのサウンドシステムとデジタル・レコーディングの革命的な音を証明する楽曲だと言えるだろう。

"深いこと"も"浅いこと"も同等に確信的なジョニー・オズボーンはその卓越した地位と人気を保ち続けてきた。レコードを購入するリスナーや評論家が失望されられたことは今までにないだろう。ジャマイカでのステージ公演を見ることが長い間できなかったが2012年1月にセント・エリザベスで開催された「Rebel Salute」に出演し、セセリア・キャンベル・リヴィングストン(Cecelia Campbell-Livingston)にもしアーティストが「身の上話を残せなかったら、引退したときに制作した楽曲を誰も覚えてはいない、それはキャリアの無駄だ」ということを伝えた。誰もこれに対してジョニー・オズボーンを責めることは出来ないだろう...
2018/05/30 掲載
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