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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Ossie Hibbert
アーティスト特集
Ossie Hibbert(オジー・ヒバート)Text by Harry Hawks
ジャマイカ音楽においてまだ過小評価されているヒーロー、オジー・ヒバートは数え切れないヒット曲でピアノとキーボードを演奏しただけでなく、数え切れないほど作詞、プロデュース、編曲、エンジニアリングを行った。
Ossie Hibbert
本名 Oswald Hibbert
出生 1951年1月16日
死没 2012年7月1日
出身地 ジャマイカ キングストン 
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1951年1月16日にジャマイカ、キングストンで生まれたオジーはキングストン12のジョーンズ・タウンで育った。「私の父親はプロではなかったがよくギターを弾き、私の母親は私をピアノ教室に送ってくれていた」また多くの音楽への影響は人で溢れかえっていたジョーンズ・タウンのストリートと近所のトレンチ・タウンで見つけることが出来た。

「11歳か12歳の時、私はコクソン(CS Dodd)の"Number Two Set"をよく聴いていた...そこのディージェイは体が大きく私たちは彼のことを"レッド・マン(Red Man)"と呼んでいた...彼は今ロンドンに住んでいると思うが。コクソンの"Number One Set"は時々、特に月曜の夜に近所でやっていて、"Number One Set"のディージェイはいつもキング・スティット(King Stitt)だった。コクソンは主に自分の作った音楽をかけていたが、トレンチ・タウンで人気のあったサウンド、サー・ナイヤ(Sir Nyah)はよくジョーンズ・タウンに来ていろいろな音楽をかけていた...」オジー・ヒバート(Ossie Hibbert)

60年代後期オジーは定期的にキングストンのステイブルス(Stables)というナイト・クラブでバンド演奏を行っていた。

「私が最初にバンドで演奏したのは17歳か18歳のときだった...そのときはメイタルズ(Maytals)の'Monkey Man'がちょうど発売されたときだったな...彼らはレッド・ヒル・ロードにあったステイブルス・クラブお抱えのバンドだった。ロイド・パークス(Lloyd Parks)がそこでベースを弾いていた...私はロイド・パークスと一緒に育った...ボビー・エイトキン(Bobby Aitken)がギターでウィンストン・グレナン(Winston Grennan)がドラムだった。本当のことをいうとボビーのバンドはカリブ・ビーツ(Carib Beats)という名前だったが私たちはただステイブルス・バンド(Stables Band)と呼んでいたよ」オジー・ヒバート

オジーの名前が知られ、キングストンのレコード・プロデューサーたちのためのセッションで呼ばれるまで、彼の若く、ありふれた音楽におけるタレント性をもってしても、骨の折れるような努力と数年を要した。彼を最初に起用したのは顔の利いたバニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)だったということは言うまでもないだろう。

「私はオジーのことを"ノー・ゴー(No Go)"と呼んでいたんだ。なぜなら彼は1度ピアノやオルガンのイスに座ったら5,6曲やるまで席を立とうとしなかったからな...」バニー'ストライカー'リー

「しかし私はバンドに入る前からレコーディングをしていたのだ...よくセッションをさせてもらっていたし、私が最初に活動したプロデューサーはバニー・リーだった。ミセス・ポッティンジャー(Sonia Pottinger)のためにも2曲録音をした。私はよくピアノかオルガンを演奏していたがスナッピン(セオフィラス・ベックフォードの愛称)と演奏するときは決まってオルガンだった。スナッピンはオルガン担当ではなかったのだ。彼はピアノだけしか演奏しなかった!他のミュージシャンと演奏するときは、ピアノを弾いたよ...バニー・リーはオルガンのシャッフルを好んでいたな」オジー・ヒバート

「これがレゲエだ!オルガンが"レゲエ、レゲエ、レゲエ"って演奏するんだ。これが本当のレゲエだ!オルガンのシャッフルを知らない奴らがレゲエを語っても奴らは本当の意味を分かっていないし、これはこの音楽にとって重要なことなのだ」バニー'ストライカー'リー

キース・ハドソン(Keith Hudson)のプロデュースで彼のレーベル、マフィア(Mafia)から1972年にリリースされたビッグ・ユース(Big Youth)の躍進的なヒット'Ace 90 Skank'で感情移入出来るピアノの伴奏を披露し、オジーはついにAクラスのセッション・ミュージシャンの仲間入りを果たした。

「私が常勤のミュージシャンになったきっかけとなった曲は'Ace 90 Skank'だった...その前は私を知るものはいなかった。そのときはバニー・リーと少数のプロデューサーたちだけが私のことを知っていた。あるトラックにリズムが乗った...そして私たちはただ演奏を始めたんだ!そしてビッグ・ユースがそのリズムに乗ったときに私は有名になり、デューク・リード(Duke Reid)なんかが私を使い始めたんだ」オジー・ヒバート

それからオジーはそのバンドを卒業し、ベースのジョージ'フリー'フルウッド(George 'Fully' Fullwood)、リード・ギターのアール'チナ'スミス(Earl Chinna Smith)、リズム・ギターのアルバート・バレンティン'トニー'チン(Albert Valentine 'Tony' Chin)そしてドラムのカールトン'サンタ'デイヴィス(Carlton 'Santa' Davis)と共にキングストン一のセッション・バンド、ソウル・シンジゲート(Soul Syndicate)でキーボードとピアノをプレイし始めた。

「私はフリー、チナ、トニー、サンタと共にソウル・シンジゲートで演奏した。私たちは全てのバニー・リーの曲とデニス・ブラウン(Dennis Brown)の'No More Will I Roam'や'Cassandra'などナイニー(Winston ‘Niney’ Holness)の初期の楽曲をやった。彼らはランディーズ(Randys)でボブ・マーリー(Bob Marley)の'Sun Is Shining'の演奏をしたが、ソウル・シンジゲートは受けるべき称賛を与えられなかった...」オジー・ヒバート

1975年の初め、オジーはその時代の最も重要なスタジオ、ジョー・ジョー(Joseph Hookim)とアーネスト・フーキム(Ernest Hookim)が創設したチャンネル・ワン(Channel One)があるマックスフィールド・アヴェニューに活動拠点を移した。フーキム兄弟はレゲエ・ビジネスが70年代のレゲエが残したテンプレート的な楽曲として支持し続けたレコード、マイティ・ダイアモンズ(Mighty Diamonds)の'Right Time'で高評価を集め始めた。

「彼は私にとっての父親みたいなものだ」とオジーが語るバニー'ストライカー'リーはキングストンのミュージシャンたち集まる "Idler's Rest"として知られたチャンセリー・レーンに行きオジーを探していた。オジーは当初自分がなぜ呼びだされたのか分からなかったが、彼はそれからまもなくチャンネル・ワン専属バンド、レヴォリューショナリーズ(Revolutionaries)の一員、それからプロデューサー、エンジニア、「いつもジョー・ジョーのためにアーティストを選び抜いていた」というタレントのスカウトからチャンネル・ワンのヒット製造機として重要な一部分を担うまでになっていた。

「バニー・リーは"Idler's Rest" にいた私のところに来たんだ..."オジー、中国人が会いたがっているぞ!そいつにお前を呼んで来いっていわれんだ"と彼は言った。それがジョー・ジョーとの出会いだったがダイアモンズのヒット曲'Right Time'はすでにダブが出来るまでに出来上がっていたから、なぜ彼が私を呼んだのか分からなかった!私はドラムのスライ(Sly Dunbar)、ベースのランチー(Bertram 'Ranchie' McLean)そしてギタリストのダギー(Radcliffe 'Duggie' Bryan)と活動していた。スライと私は正式に曲を作っていたがジョー・ジョーはいつも名のあるプロデューサーだった...それからしばらくしてアーネストがこう言ってきた、"助けが必要だ...ミキシング・ボードの使い方を見せてやる"と。そしてアーネストは私にミキシング・ボードの使い方を教えたのだ...そして彼は私に全部教えきった!どんなサウンドがいいか分かることが重要だっだ。私は何がいいサウンドか分かっていたからそんなに難しいことではなかったのだ!ジョー・ジョーはいいサウンドを持っていたから私たちがやったのは全ていいものだった!」オジー・ヒバート

オジーのエンジニア業のデビューはレヴォリューショナリーズがロイ・リチャーズ(Roy Richardsまたをリトル・リチャーズ)の'Freedom Blues'を録音したときで、チャンネル・ワンのトップ・ディージェイだったディリンジャー(Dillinger)とトリニティ(Trinity)がガイド・ヴォーカルを務め、ロビー・シェイクスピア(Robbie Shakespear)がピアノに座った。攻撃的な名前'MPLA'に変更され、ダブのサイドがA面としてリリースされ「ちゃんとしたインストゥルメンタルは裏面に追いやられた」と彼は語った。これは1976年のレコードの象徴であり、より古風なフレディ・マッケイ(Freddie McKay)による'Dance This Ya Festival'がすぐその後に続いてリリースされた。

「私が最初にエンジニアをしたのは'MPLA'でロビーを呼んでピアノを演奏してくれないかと頼んだ。トリニティとディリンジャーはこの曲を歌い曲の長さが合っているか確かめたのだ!その次にやったのはフェスティバルの歌だ...フレディ・マッケイとの'Big Heel Boot'だった。ボビー・エリス(Bobby Ellis)がホーン・セクションをアレンジした...彼のホーン・セクションは良く出来ていた...」オジー・ヒバート

同時期にオジーはエロール'エロール T'トンプソン(Errol Thompson)とジョー・ギブス・リタイアメント・クレセント(Joe Gibbs Retirement Crescent)スタジオで活動をしていた。オジーはマイティ・トゥー(Mighty Two)のために正式に契約を交わしていないにもかかわらずジョー・ギブス・レコード・グローブ(Joe Gibbs Record Globe)で2枚のアルバムをリリースした。

「エロル・トンプソンはある車を運転していたんだ!だから私は"United Dreadlocks"と"Earthquake Dub"をジョー・ギブスに贈り、エロルはその車を私にくれたのだ...」オジー・ヒバート

彼のチャンネル・ワンの作品と自身のハウンド・ドッグ(Hound Dog)、オジー・サウンズ(Ossie)の素晴らしいセレクションに加えオジーはレーベル、アースクエイク(Earthquake)からひどく世に知られていない「Crueshal Dub」、飛び切り上等なフレディ・マッケイのLP「Creation」と'Storm'や'Slave Master'を収録した1978年のグレゴリー・アイザックス(Gregory Isaacs)による申し分のない「Mr Isaacs」などをリリースした。またコンチネンタル・プリンタリー(Continental Printery)のロイド・F・キャンベル(Lloyd Campbell)と共に彼はグレゴリー・アイザックスと最盛期にあったレヴォリューショナリーズをフィーチャーした、最も出来の良い12インチのリリース、素晴らしい'Mr Knows/Know It All'をプロデュースした。翌年オジーはレーベル、スコープ(Scope)からリリースされたジョン・ホルト(John Holt)のスタジオ・ワン(Studio One)のヒット曲をエロール・ダンクリー(Errol Dunkley)がカヴァーした'OK Fred'でイギリスの国際チャートで11位にランクインした。

仕事を進めていく気力と熱意を失うことの無かったオジーはレゲエ・ビジネスで活動を続け、自身の知識、専門技術、音楽の理解で何世代ものアーティストやミュージシャンたちをインスパイアし続けた。彼が始めて2人のラガ・スーパースターのチャカ・デマス(Chaka Demus)とプライヤーズ(Pliers)の'Gal Wine'を録音した。

「...私はビッグ・マンなりビジネスのことなら何でも知っている!」オジー・ヒバート


オジーは彼らのマックスフィールド・アヴェニューの建物があったダウンタウンよりもはるか遠くの住宅地、ウェスト・キングズ・ハウス・ロードにあるチャンネル・ワンの最先端技術が整った真新しいレコーディング・スタジオの監督を引き継ぐのを心待ちにしていた。

「スタジオはウェスト・キングズ・ハウス・ロードに位置し、コンスタント・スプリング・ロードの角からからカナダ大使館の近くまでの100...いや150ヤードもあるのだ。見落とすはずはない!」オジー・ヒバート

オジーはいつも人と異なっていたが優しく、非常に感じの良い性格でスライ・ダンバーとロビー・シェイクスピア、アグロヴェーターズ、プロフェッショナルズそしてレヴォリューショナリーズの仲間のミュージシャンらと本の制作を行っていると話しても自身の称賛を問うことはしないだろう。このプロファイルが彼の傑出したキャリアのストーリーの記録を整理することにつながることを祈っているが今はスライ&ロビー(Sly & Robbie)に本の完成をゆだねよう。オジーはニューヨークのクイーンズで行われていたベレス・ハモンド(Beres Hammond)のステージ・ショー"Groovin' In The Park"に出席したあと、ニューヨークで2012年7月1日に悲惨な心臓発作でこの世を去った。疑うことのないジャマイカン・ミュージックの偉人であるオジー・ヒバートの名前は広く知られるべきでありレゲエ・ミュージックにおいて高くそびえる存在がいなくなることは大変寂しくもある。

我々ダブストア一同はこの悲しき折に彼の家族と友人に追悼の意を表す。

Sources:
Interview with Ossie Hibbert London UK/New York, USA 11th January 2010
Liner Notes: The Evolution Of Dub Volume Five The Missing Link GRE 2061 2010
With kind permission of Chris O'Brien, VP/Greensleves
2012/07/11 掲載 (2012/11/09 更新)
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