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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Jackie Mittoo
アーティスト特集
Jackie Mittoo(ジャッキー・ミットゥー)Text by Harry Hawks
ジャッキー・ミットゥーの60年代のスタジオ・ワンでの活躍は我々が知っているレゲエ・ミュージックを創り、形にし、磨き上げた。彼は非常に才能があるキーボード・プレイヤーというだけでなくこの上なく有能なアレンジャーでありレコード・プロデューサーだった。
Jackie Mittoo
本名 Donat Roy Mittoo
出生 1948年3月3日
死没 1990年12月16日
出身地 ジャマイカ セント・アン ブラウンズ・タウン
関連アーティスト
「彼は我々の音楽を世界中に広めたまさに大使だった...間違いない。過去の遺産を見てみなさい、この若い男は歴史に名を刻んでいる。彼の名前は後世に残り、彼の音楽は生き続けるのだ」クレメント'コクソン'ドッド(CS Dodd)

ブラウンズ・タウン、セント・アンの教区で1948年3月3日に生まれたドナート・ロイ'ジャッキー'ミットゥー(Donat Roy Jackie Mittoo)はヨーク・キャッスルで育ち、祖母が彼の音楽の先生となり3歳から彼にクラシック・ピアノを教えた。ジャッキーが人前に出たのは10歳の時、彼初めてのバンド、ジャッキー・ミットゥーズ・ラグタイム・バンド(Jackie Mittoo's Ragtime Band)ではラグとリズム・アンド・ブルースを演奏した。3年後彼の家族はキングストンに移住、ジャッキーはすぐ解散してしまったライヴァルス(Rivals)に加入し、その後、のちに強い影響力を持つミュージシャンたちが多数在籍していたシークス(Sheiks)に所属した。ドラムにロイド・ニブ(Lloyd Nibbs)、ベースにロイド・スペンス(Lloyd Spence)、ギターにリン・テイト(Lynn Taitt)、サックスに'デッドリー'ヘドリー・ベネット('Deadly' Hedley Bennett)とボビー・ゲイネアー(Bobby Gaynair)、トランペットにレスター・スターリン(Lester Sterling)の兄弟であるロイ・スターリン(Roy Sterling)とジョニー'ディジー'ムーア(Johnny 'Dizzy' Moore)、ヴォーカルにドビー・ドブソン(Dobby Dobson)、'ハニー・ボーイ'マーティン('Honey Boy' Martin)、ノーマ・フレイザー(Norma Frazer)、ケン・ラザラス(Ken Lazarus)といったメンバーが名を連ねていた。シークスはマジェスティック(Majestic)、トロピカル(Tropical)、リアルト(Realto)を含む複数のキングストンの映画館で映画が上映される前、オーディエンスたちの前で演奏をしていた。またこのバンドはソンブレロ(Sombrero)などのクラブで名のあるヴォーカリストたちのバックを務め、後にキャヴァリアーズ・オーケストラ(Cavaliers Orchestra)という名で知られるようになった。

「これらのバンドは間を持たせてくれ、メンバーに自分たちのアイデアを実践させる機会を与え、才能を育ててくれた...」

ジャッキーは高校生活が始まる頃には準プロ・ミュージシャンとして平日は学校の友達と共にランチ・タイムの時間にキングストン・カレッジで遊び程度に、また週末はキャバリアーズとして映画館、クラブ、劇場で重役としてピアノを演奏していた。ジャッキーはリン・テイトとハウス・バンドと共にフェデラル(Federal)レコーディング・スタジオの前に座っているときにクレメント'コクソン'ドッドに声をかけられた。

「ジャッキーはジャマイカ、キングストンのレコーディング・エグゼキュティブ、クレメントSドッドの目に留まった。そしてまだ在学中にも関わらずコクソン・レコーズの今日までの多くのレコーディングに"サイドマン"として参加し、スタッフ・ミュージシャンとして活動していた」アルバムEvening Timeより

1963年コクソンはスタジオ・ワン(Studio One)として知られるジャマイカン・レコーディング・アンド・パブリッシング・スタジオ(Jamaican Recording and Publishing Studio)を以前ナイト・クラブだったジ・エンド(The End)の跡地、キングストン5のブレントフォード・ロードの13番地にオープンさせ、彼はジャッキーに楽曲の編曲と制作を手伝ってもらえないかと尋ねた。ジャッキーはもともと1週間に5つの新しいリズムを制作するということで雇われたがすぐにミュージシャン、アレンジャー、タレントのスカウトとしてブレントフォード・ロードの鍵を握る人物になった。ジャッキーとトミー・マクック(Tommy McCook)、セオフィラス・ベックフォード(Theophilus Beckford)、グラッドストーン・アンダーソン(Gladstone Anderson)などの重要なミュージシャンたちは音楽の発展において影響力の強い役割を担った。彼らはベース・プレイヤーにラインを渡し、ギタリストのためにコードを書き、レコードのアレンジとプロデュースをしていた。彼はまたスカタライツ(Skatalies)でピアノとオルガンの演奏をはじめ、スカが本格的な音楽の形になったとき、ジャッキーのピアノはこの音楽に必要不可欠となった。その2年後スカタライツは解散、ジャッキーはソウル・ブラザーズ(Soul Brothers)を組織した。すぐにソウル・ヴェンダーズ(Soul Vendors)と改名した彼らはリン・テイトのジェッツ(Jets)、トミー・マクックのスーパーソニックス(Supersonics)、ボビー・エイトキン(Bobby Aitken)のカリブ・ビーツ(Carib Beats)らと共にロックステディとして知られる感情を誘うエレガントな音楽の責任を担った。

ロックステディでオルガンはピアノとギターと共にフィーチャーされリズム・セクションに正規に追加、よりスローなアプローチはリズム・セクションにより多くのスペースを与え、それからというものジャッキー・ミットゥーの名前はハモンド・オルガンの音色と密接にリンクするようになった。オルガンはイントロ・ラインとヴォーカル楽曲のリフとしてメインで使われ続けていたが、さらに重要なバック・トラックのアレンジメントとしてさらに重要な役割を果たした。ジャッキーは1つの楽曲を通しピアノを演奏しながらもそれと同時に絶妙のタイミングで、左手でオルガンを弾くといったことをしばしば行っていた。

ヘプトーンズ(Heptones)のきわどい歌詞の'Fattie Fattie'がジャマイカの放送電波で放送禁止になってしまった1967年、ジャッキーはリズムまたはバック・トラックに乗せて'Fattie Fattie'のインストゥルメンタル・ヴァージョンを考案し、この音楽を定義するまた別の要素を作り出した。ソウル・ヴェンダーズが伝説的なイギリス・ツアーを行った南ロンドン、ブリクストンの有名クラブから名づけられた'Ram Jam'は最もソウルフルなオルガン楽曲であり大ヒットとなった。

「この男たちはオーディエンスを一晩中踊らせ続け、キュー・クラブ(Cue Club)、ラム・ジャム(Ram Jam)、32クラブ(32 Club)、ロアリング・トゥエンティーズ(Roaring Twenties)などクラブや他のナイト・スポットとダンスホールを行ったり来たりしていた」Soul Venders On Tourレビューより

彼は自分の選んだ楽器からとても深い感情を引き出すことができ、ソロ・ミュージシャンとしての彼のキャリアがまとまり始め、ジャッキーはスタジオ・ワンで一連のアルバムを制作しハモンド・オルガンが彼の片腕になりうることを証明した。ロックステディがレゲエに発展していくとオルガンはリズム・セクションに定着し始め、ジャッキー・ミットゥーはキーボードのマエストロ、グラッドストーン・アンダーソン(Gladstone Anderson)やウィンストン・ライト(Winston Wright)らと共にビートを際立たせる演奏のスタイルを開発した。オルガンは重要なリード楽器になり、すでに存在しているリズム・トラックに乗せられて創られた、時折映画のテーマ・ソングの序奏部分や初期のディージェイたちの練習曲として使われていた、オルガンのインストゥルメンタル楽曲はレコード・バイヤーたちの間でしばしばオリジナルのヴォーカル・ヴァージョンよりも人気があった。

60年代の終わり、ジャッキーはカナダのトロントへ移住したが、定期的にジャマイカへ戻りコクソンのスタジオ・ワンで活動していた。カナダにいるときジャッキーはジャマイカから訪れたアーティスト達と活動し、自身のレーベル、スティン・ジャック(Stine Jac)を立ち上げ、カナディアン・タレント・ライブラリーへの作品提供を通じ彼は"イージー・リスニング"ミュージックの仕出し屋として非常に有名になった。彼はバニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)を彼が音楽業界に進出する前から知っていたが、1976年にカナダで再会したときにストライカーは最も成功したレコード・プロデューサーの1人になっていた。ストライカーはジャッキーに60年代にスタジオ・ワンに残した作品の再演を彼の元でやらないかと説得した。「The Keyboard King」と名づけられた彼ら初の共同アルバムは大ヒットし、2人はジャマイカとイギリスで続けて作った一連のコラボレーション作品は若いレコード・バイヤー達たちにジャッキーを知ってもらうのに抜群の効果があった。数え切れないヴォーカル・グループ、ソロ・シンガー、彼自身そしてミュージシャン達と制作したインストゥルメンタル楽曲などの彼のスタジオ・ワンでの作品はオーガスタス・パブロ(Augustus Pablo)、ジョー・ギブス(Joel Gibson)、チャンネル・ワン(Channel One)のフーキム兄弟(Joseph Hookim)の作品を通じて"ロッカーズ"サウンドの基盤となった。

80年代の早期、ジャッキーはシュガー・マイノット(Sugar Minott)からアプローチを受け、シュガーのブラック・ルーツ(Black Roots)/ユース・プロモーション(Youth Promotion)集団への参加を尋ねられた。シュガーはスタジオ・ワンを去った後自身のレーベルを設立し、コクソンの素晴らしいリズムをいくつか使ったブラック・ルーツの楽曲は多くのファンたちにとっての決定的なヴァージョンになった。ジャッキーの申し分の無い演奏力と完璧なプロダクションの技量が保証されていたことは
彼にいつも需要があったことで伺うことができ、彼は様々な異なったアーティストとプロデューサーたちのために録音を行った。彼はUB40のアルバム「Labour Of Love」で2曲演奏し、このバーミンガム出身のバンドはこのアルバムでレゲエのサウンドに興味を持つきっかけを作ったこの音楽とミュージシャンたちに敬意を払った。1989年彼は再結成したスカタライツに誘われた。

ジャッキー・ミットゥーが活動を共にした全員は彼の豊富な才能、知識を進んで共有する優しさと生涯をかけた音楽作りから得るものがあった。年長の指導者として高く評価されている彼は自身の持つ深い音楽の理解を共有し、若い世代に受け継いでいくことをいつも快く思い、彼の名前はレゲエ界全体であがめられている。しかし彼の作品とその絶大なる影響は更なる認識を受けるに値する。ジャッキー・ミットゥーはジャマイカが産んだ最も優れたキーボード・プレイヤーの1人というのは疑う余地も無いのだがそれだけでは十分な説明にならない。それは作曲者またはアレンジャーとして全く非凡で彼が創造に、おそらく他の誰よりも、一役買ったジャンルを超えた絶対的な威信としてレゲエ・ミュージックの発展に与えた多大なる影響である。1990年12月16日カナダのトロントで癌による彼の予期せぬ死はレゲエ・ミュージックから最も影響力のある人物の1人を奪ってしまった。

「いい音楽は続いていく...いつでも」ジャッキー・ミットゥー
2019/01/09 掲載
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