Harry ‘Harry J’ Johnson(ハリー’ハリーJ’ジョンソン)Text by Harry Hawks
ジャマイカ人として初めて海外で数多くヒットを飛ばしたプロデューサーの一人として知られるハリーJはその経験を活かし国際的なつながりを築き上げていった。アップタウンに位置し、1970年代ジャマイカにおいて「レコーディング・スタジオといえば」と称されたほど最高基準に整えられた自らのスタジオは、キングストンのゲットー出身の歌手やセッション・ミュージシャンを数多く世界に輩出していった。
Harry ‘Harry J’ Johnson
本名 |
Harry Zephaniah Johnson |
出生 |
1945年7月6日 |
死没 |
2013年4月6日 |
出身地 |
ジャマイカ ウエストモアランド |
関連アーティスト |
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ハリー・ゼファニア・ジョンソン(Harry Zephaniah Johnson)は1945年7月6日にウェストモアランドの教区で誕生した。60年代初頭にバイロン・リー&ザ・ドラゴネアーズ(Byron Lee & The Dragonaires)のライブを見たことをきっかけに自らがギターを担当するバンド、ヴァーチャーズ(Virtues)を結成する。しかしリリースを勝ち取るにいたらず、金銭的に厳しくなってきたこともあり、すでにフルタイムで働いていた倉庫の仕事と平行しつつ、ハリー自身がバンドのマネージャーも兼ねることになった。またその後カナダを拠点にしている保険会社Confederation Lifeのセールスマンとして働いていた。10年の時を経ていく中でロックステディのビートがスピード・アップする一方、ハリーJ(Harry J)はこの新しいスタイルの先駆者として知られてくようになる。
「みんなが楽しく踊るには、それ相応の音楽が必要だった。そしてその中に自分の可能性を見つけたんだ。そんな曲を3曲ほどプロデュースした」ハリーJ
そのうちの2曲目、ベルトーンズ(Beltones)の演奏した'No More Heartaches'は後に大ヒットすることとなった。セールスマンとしての経験、常時アップデートされる最新のビートを武器にキングストン中のレコード・ショップやディストリビューターをまわり廻った彼の勢力的なプロモーションは、当時すでにベルトーンズがドッド氏(CS Dodd)のプロデュースの下'Dancing Time'や'Smile Like An Angel'などをはじめとするヒット曲をリリースしていたこともあり、次第にハリーを保険の仕事から音楽へと導いていった。
「ある日ハーフ・ウェイ・ツリーのバス停を通りかかったのだ。ちょうどそのときラジオ番組で誰かがあるレコードをかけると言っていたから思わず足を止めてしまった。そしてラジオのボリュームを全開にしたんだ、そこから聴こえてきたのが...ベルトーンズだった」ハリーJ
1968年末、'No More Heataches'はジャマイカでナンバー・ワンを獲得した。また、英国において (Trojan)からリリースさていた同曲はアンダーグラウンドながらもそれなりのヒットを記録した。続いてハリーはスタジオ・ワン(Studio One)にてロイド・ロビンソン(Lloyd Robinson)の"Cuss Cuss"をコクソンの「間違いない」お抱えバンド、サウンド・ディメンション(Sound Dimension)と共に録音した。この綿密にかき回すリズムは、当時の人気はもとより、最もカヴァーされた楽曲としてジャマイカの音楽史に名を刻むこととなった。また、手のひらで数えられる程少ないリリース・キャリアながらハリーJは瞬く間に将来を有望視される新人レコード・プロデューサーとして名を馳せていった。
マイナー・ヒットを記録したトニー・スコット(Tony Scott)による'What Am I To Do Now'のカヴァー曲で、唯一無二の才能を持つキーボード奏者のウィンストン・ライト(Winston Wright)によるオルガン演奏をフィーチャーしたインストゥルメンタル楽曲、'Liquidator'は1969年秋、ジャマイカ録音のレコードとして初めて、海を越えた英国の海外チャートの第9位に食い込んだ。ハリーのロンドン支部のレーベルからリリースされた本作のクレジットは、ハリーJオール・スターズ(Harry J All Stars)だった。先に登場したウィンストン・ライトはもとよりセッション・ミュージシャンの先駆け、ハックス・ブラウン(Hux Brown)やボリス・ガーディナー(Boris Gardiner)により構成されていた。その絶えず浮かびあがってくるハモンド・オルガンのリフレインは"懐メロ"として現在に至るまで英国のラジオで頻繁にかけられている。またChelsea Football Clubのファンのあいだで、非公認ながらもチームのアンセムとして今でもホーム・ゲームにおいてのお馴染みとなっている。さらには1972年にアメリカのゴスペル・グループ、ステイプル・シンガーズ(Staple Singers)がこの独特のイントロとベース・ラインを使用したことを基に裁判沙汰にもなった。
「このことは法廷にも持っていった。ただ、それはうまくいかなかったのだ、向こうは'Liquidator'のことは全く知らなかったと主張したからだ。ただの偶然だと」ハリーJ
1970年3月、ハリーはニーナ・シモン(Nina Simone)の名曲'Young, Gifted And Black'を陽気にカヴァーしたバージョンをボブ・アンディ(Bob Andy)とマーシャ・グリフィス(Marcia Griffiths)のボーカルでリリースした。ジョニー・アーシー(Johnny Arthey)によるストリングスのアレンジを加えた同曲は英国のチャートにおいて第5位を獲得。勢いに乗った同チームは翌年'Pied Piper'のカヴァーで第11位を取るなど功績を残した。
その後ハリーはキングストン・ストリートの79番地のキングストン・アーケード内にハリーJレコード・ショップ(Harry J Record Shop)をオープン、後に「誰かがオファーをくれた」ことにより売却、同店舗には宝石店が入ることとなる。次に取り掛かった事業は1972年、レコードアイランド(Island)レコーズのクリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)と共にルーズヴェルト・アヴェニューの10番地に「最高水準」のスタジオを開くことだった。
「当時自分は8トラック・ミキサーを導入しようと思っていた。そしたら彼が言ってき"なんで16トラックにしないんだ?お金の事なら私に任せろ"と。全てはそこから始まったのだ」ハリーJ
最初に入ってきたエンジニアはシド・バックナー(Sid Bucknor)で機材は全てビル・ガーネット(Bill Garnett)によって設置された。1974年、シドがロンドンに移り住んでしまった後はシルヴァン・モリス(Sylvan Morris)が作業するようになった。シルヴァンはWIRLでグレアム・グッダル(Greame Goodall)と仕事を始めたやり手で、19歳にしてシド・バックナーの後を継ぎ、スタジオ・ワンのエンジニアとしてルーズヴェルト・アヴェニューの10番地に移るまで6年間仕事をしていた。
「シルヴァン・モリスはハリーJの下へ移るまで、コクソンのスタジオで働いていた。多くの人は彼のことを語りたがらないけどな。シルヴァン・モリスはエンジニアであり技師でもあった、全てが備わっていたんだ。どういうことかわかるか?あいつがエロール・トンプソン(Errol Thompson)の先生だったんだ..."バニー・ストライカー・リー(Bunny Striker Lee)
シルヴァン・モリスとのコンビは、ミキシングの卓上における大胆さを証明し、当時のジャマイカにおける最先端の機材のもと、ハリーJの音楽業界での立ち位置を揺ぎ無いものとすることとなった。
「いい曲を作るには洗練された録音技術が必要かもしれない。ただ、感情はありのままにするのだ」ハリーJ
数々の名曲、またボブ・マーリー(Bob Marley)& ザ・ウェイラーズ(Wailers)の「Burnin'」、「Natty Dread」などを含む国際的に成功したアルバムそしてバニー・ウェイラー(Bunny Wailer)の「Protest」も録音からミックス・ダウンまで全てルーズヴェルト・アヴェニューの10番地で行われたが、ハリーは決して自らの音楽のルーツを見失うことはなかった。さらに彼はスタジオをバニー・ストライカー・リーやロイヤルズ(Royals)のロイ・カズンズ(Roy Cousins)をはじめとする地元のヒット・メーカーたちにも進んでスタジオを貸出していた。自らプロデュースするリリースも継続し、ボブ・アンディ最高傑作のうちの2曲、'Life'と'You Don't Know'や、ジョー・ヒッグス(Joe Higgs)の'Wave Of War'を送り出した。海の向こう英国では、クレジットされていないベレス・ハモンド(Beres Hammond)をフィーチャーしたザッポウ(Zap Pow)による'This Is Reggae Music"やヘプトーンズ(Heptones)の2枚のアルバム、「Book Of Rules」と「Night Food'」によりアイランド・レコーズが商業的成功を収めた。また官能的なアレンジでローナ・ベネット(Lorna Bennett)がカヴァーした'Breakfast In Bed'はカップリングに素晴らしい、デイヴ'スコッティー'スコット(Dave 'Scotty' Scott)によるディージェイ・ヴァージョン'Skank In Bed'を収録した。同曲は2分の3ほどいくと曲がストップし、スタジオでのおしゃべりが聴こえてきて、「リズムを早く」とのスコッティーの要求と共に再開するという前代未聞のアレンジを含んだ。
80年代の早期にスライ・ダンバーとロビー・シェイクスピア(Sly & Robbie)をフィーチャーした'Bed's Too Big Without You'のカヴァーでハリーはシーラ・ヒルトン(Sheila Hylton)と共に再度ヒットを記録し、ダンス・ホールのブームが進むにつれ、彼は自身のレーベル、サンセット(Sunset)と10ルーズヴェルト・アヴェニュー(10 Roosevelt Ave)からの留まることを知らない7インチのシリーズでシーンにその名をとどろかせた。イエローマン(Yellowman)やウェルトン・アイリー(Welton Irie)などの名のあるディージェイたちから大勢の出てきたばかりのアーティストたちまでをフィーチャーしたこれらのレコードはジャマイカやカリブ海全土で大変な人気を博した。
「これはプライドの問題だ...私は大きく、そしてさらに強くなってビジネスに返ってきた」ハリーJ
続く90年代は活動をしていなかったが、スティーヴン・スチュワート(Stephen Stewart)は2000年にこの伝説的なハリーJスタジオを一新し、新しく設備し、再度オープンさせた。シルヴァン・モリスの下でトレーニングを積んだスティーブンはレコーディング・エンジニアだっただけでなく、プロデューサーまたアーティストであり、彼の後押しの元、バーニング・スピア(Burning Spear)、ルチアーノ(Luciano)、シャギー(Shaggy)、シズラ(Sizzla)、シャキーラ(Shakira)など国内外のタレントと共に新たな世紀に入りスタジオは大忙しだった。
「彼は自身のスタジオのテクノロジーを向上させるというヴィジョンを持っていた。16トラックでの録音は当時、重大なことだったんだ...」スティーヴン・スチュワート
音楽作りのアプローチなど彼のカリスマ的なビジネス方法と共にハリーJは数え切れないヒットとクロスオーヴァー・ヒットをプロデュースし、他のプロデューサーたちのために何千もの制作を容易なものにした。彼の前向きな考え方と今までになかった制作のテクニック、そして自身のルーズヴェルト・アヴェニューのスタジオから作り出された豊富な音楽はジャマイカン・ミュージックの発展において極めて重要であり、ハリー'ハリーJ'ジョンソンの果てしない功績は永久に忘れることはないだろう。
ハリーの娘であるタラ・ジョンソン(Tara Johnson)は長期に及ぶ糖尿病との闘病の末、彼女の父親は彼の故郷であるウェストモアランドのサヴァナ・ラ・マー病院で2013年4月6日に死去したことをJamaica Observer紙に語った。彼には4人の子供と3人の孫がいた。ダブストア(Dub Store)一同はこの悲しい折にハリー・ジョンソンの家族と友人に追悼の意を表する。
参考文献:Beth Lesser: Harry J Reggae Quarterly Volume One Number Six 1985
2019/09/27 掲載