レゲエコレクター.comレゲエコレクター.com
¥0 (0items)
Pass :
ID :
自動ログイン
トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Alva 'Reggie' Lewis
アーティスト特集
Alva 'Reggie' Lewis(アルヴァ ’レジー’ ルイス)Text by Harry Hawks
ジャマイカの音楽の歴史が語られる時は、当然のように、この音楽における最も有名なスターたちのストーリーに目が向けられるが、名の知られていない多くの人物たちもこの音楽の発展において不可欠な役割を担った。アルヴァ'レジー'ルイスのギターは生まれたてのレゲエのサウンドにおいて欠くことのできない要素だった。
Alva 'Reggie' Lewis
本名 Alva Lewis
出生 1949年4月16日
死没 2013年2月4日
出身地 ジャマイカ マンチェスター 
関連アーティスト
1949年4月16日、都会から離れたのどかなマンチェスターの教区で10人兄弟の末っ子として生まれたアルヴァは教育課程を修了させるため16歳の時キングストンへ上京、グリーンウィッチ・ファームに身を置いた。彼の兄弟の1人はアメリカへ移住し、アルヴァに2本のギターを贈り、彼は地元のバーに設置されたジューク・ボックスの中で回るレコードに合わせ演奏をし、弾き方をマスターしようと試みた。グリーンウィッチ・ファームは、バニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)や、ヴォーカリストでありプロデューサーのデリック・モーガン(Derrick Morgan)、そしてアルヴァにギターのチューニングを教えたヴォーカル・グループ、メロディアンズ(Melodians)など音楽に精通した若者たちの故郷だった。

アルヴァ・ルイス(Alva Lewis)初のレコーディングはフィル・プラット(Phil Pratt)のために録音したロックステディのヴォーカル楽曲'Suicide'、バニー'ストライカー'リー初のセッションで、ケン・ラック(Ken Lack)のカルトーン(Caltone)からリリースされた'Return Home'、そして1967年のイギリス、レーベル、アイランド(Island)からリリースされた、デリック・モーガンのために録音された'I'm Indebted'だった。続く年、アルヴァはキーボード奏者のグレン・アダムス(Glen Adams)と共にコミカルな'She'で初のビッグ・ヒットを味わい、この楽曲はロンドンでもとても人気があった。筆者は皆がダンスでリリックに合わせ、口をそろえて"Shit(くそったれ)"と叫んでいたのを覚えている!

ストライカーは「俺たちはレジーと呼んでいた...」若きアルヴァに音楽のキャリアを探求するように薦め、彼は1968年に初めてロンドンを旅することになり、彼の若い子分のため、
現金の代わりに楽器一式をアイランド・レコーズのデイヴ・ベタリッジ(Dave Betteridge)に要求し、「だからレジーがGibsonのギターを手にすることが出来たんだ...」

1968年、ロックステディのビートは速度を上げレゲエと変化し、我こそがジャマイカ音楽を作り上げたのだと主張するものが多いように、メイタルズ(Maytals)の'Do The Reggay'やストライカーの兄弟であるドン・リー(Don Lee)の'It's Reggae Time'など多くの者が競争するように"レゲエ"を最初にレコーディングしたのは自分だと主張するものが多く存在した。しかし音楽のスタイルはそれが誰かということよりもさらに重要で、レゲエのリズムの発明におけるアルヴァ・ルイスの重要な役割は明白だった。

「ロックステディにはオルガンのシャッフルなんてなかった。ロックステディでは管楽器担当はイントロとソロ、またほんの少しのだけつなぎだけしか演奏しなかった。'Bangarang'が最初のレゲエの楽曲だった...あの曲は最初から最後までシャッフルだった」バニー・ストライカー・リー

レスター・スターリング(Lester Sterling)とストレンジャー・コール(Stranger Cole)の名前がクレジットされた'Bangarang'は大ヒットとなり、ジャマイカではカリフタ(Carifta)とリーズ(Lee's)、イギリスではパマ(Pama)のレーベルであるユニティ(Unity)からリリースされた。このセッションを担当した若々しいバンドのメンバーはロイド・チャーマーズ(Lloyd Charmers)、グレン・アダムスがキーボード、アルヴァ・ルイスがギターを務め、彼の未熟さは"どんなに台無しになってもそれはスタイルだ"というジャマイカの格言の証明となった。

「あれは外国の楽曲だった。ジャズの楽曲'Bongo Chant'だったが、当時の彼らは若いミュージシャンでブリッジまでコードを押さえられなかった。だから俺が、レスター・スターリングに2コードの楽曲にしようと提案したんだ...」バニー'ストライカー'リー

その後まもなくヒッピー・ボーイズ(Hippy Boys)が結成され、新しいレゲエのリズムの習得は彼らにキングストンを代表するセッション・バンドとしての地位を与えた。このバンドにはアストン'ファミリー・マン'バレット(Aston Familyman Barrett)をベース、カールトン'カーリー'バレット(Carlton 'Carlie' Barrett)をドラム、アルヴァ'レジー'ルイス(Alva 'Reggie' Lewis)をギター、キーボードにはロイド'チャーマーズ'タイレル(Lloyd 'Charmers' Tyrell)とグレン・アダムスが名を連ねていた。彼らは一時的にマックス・ロメオ(Max Romeo)をヴォーカルに迎えていた。彼らは時にヒッピー・ボーイズ、また時にアップセッターズ(Upsetters)として数え切れないヒット・レコードを後ろで音楽的支えていたが、クレジットされることはめったになかった。パイオニアーズ(Pioneers)の'Mama Look Deh'とレーベル、エスティック・レコーズ(Estick Regcords)からもともとリリースされていたトニー・スコット(Tony Scott)の'What Am I To Do Now'と彼らはジョー・ギブス(Joel Gibson)の大ヒット曲のリズムを提供した。'What Am I To Do Now'のリズムはハリーJ(Harry Johnson)により第9位まで達し、20週間チャートに留まった、1969年のイギリスの国際チャートでヒットしたウィンストン・ライト(Winston Wright)の'Liquidator'に使用された。Esso Extra(車用のオイル)の"Tiger in your tank(活力を与えるという意。トラのキャラクターを用いた米国Essoの広告スローガン)"を召還することにより"Dr. No Go"の悪巧みは失敗に終わるという日刊Gleaner紙に掲載されていたアニメ広告シリーズから名前を取った'Dr. No Go'を含む、ソニア・ポッティンジャー(Sonia Pottinger)のレーベルであるハイ・ノート(High Note)に残したインストゥルメンタル楽曲でヒッピー・ボーイズもまたヒット曲を味わっていた。'Reggae Pressure'もまたイギリスで大ヒットし、ハイ・ノートからリリースされた彼らのアルバム「Reggae With The Hippy Boys」はジャマイカとイギリスで人気を博し、それからは高価格で高く評価される、捜し求められるコレクターズ・アイテムとなった。

ヴァル・ベネット(Val Bennett)はリー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)のために以前ヒッピー・ボーイズが作り上げたリズム、1969年の暮れに向かうイギリスの国際チャートで目のくらむような第5位まで上り詰めたクリス・ケナー(Chris Kenner)の'Sick And Tired'のヴァージョンのリズムで'Return Of Django'と名づけられたサックス・ヴァージョンを吹いた。スクラッチはその年の11月のイギリス・ツアー用にバンド・メンバーを集め、そのメンバーはカーリー、ファミリー・マン、グレン・アダムス、アルヴァ・ルイスで、ヴァル・ベネットは参加しなかったが「カーク(Kirk)という名のホーン奏者が彼のパートを演奏した」そしてヒッピー・ボーイズは事実上、アップセッターズとなった。

"事実ヒッピー・ボーイズはリー・ペリーにプロデュースされるときはアップセッターズと名乗り、ソニア・ポッティンジャーにプロデュースされるときはヒッピー・ボーイズの名を使っていた"

キングストンに戻った1970年代早期、スクラッチはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ(Bob Marley & The Wailers)の録音を始め、彼らの音楽と楽曲の作詞において"より黒人寄りな"要素を強調させるように薦めていた。それは、ウェイラーズをレゲエの最も商業的な存在の1つ、またジャマイカ最初の世界的スターの座を手にすることを可能にした強固な礎となった楽曲'Duppy Conqueror'、'Small Axe'や'Who Is Mr Brown'などのレコードの中で、皮肉にも商業主義の考え方をないがしろにすることだった。後年バニー・ウェイラー(Bunny Wailer)は、アップセッターズがウェイラーズの躍進にどれほど重要なものだったかを語っていた。

「よし...教えてやろう。ファミリー・マン、カーリー・バレット、レジー、グレン・アダムスがアップセッターズだった。この兄弟たちの演奏と共に、私たちは実力が世界で認められ始めたのだ」バニー・ウェイラー

ウェイラーズは1971年にスクラッチと袂を分け、ドラムとベース、アストンとカールトン・バレット、すなわちアップセッターズのリズム・セクションを引き抜いたが、アルヴァはスクラッチの元に残った。スクラッチのレーベルである、ブラック・アート(Black Art)とアップセッターから時折リリースされた'Ethiopian Land'や'Natty Natty'などのソロ・レコードに加え、他のプロデューサーたちのためにアルトン・エリス(Alton Ellis)の'Deliver Us'を録音したロイド'マタドール'デイリー(Lloyd 'Matador' Daley)、ケン・ブース(Ken Boothe)の'Artibella'を録音したフィル・プラットなどのヒット曲で演奏した。

1981年ケン・クーリ(Ken Khouri)はフェデラル・レコーズ(Federal Records)のスタジオとプレス工場をリタ・マーリー(Rita Marley)のタフ・ゴング・インターナショナル・オーガナイゼーション(Tuff Gong International Organization)に売却した。リタは「アルヴァ・ルイスをタフ・ゴングの門番として終身雇用した」が長い闘病生活の末、アルヴァ'リジー'ルイスは2013年2月4日、セント・アンドリューの自宅において63歳でこの世を去った。

参考文献:

Naoki Ienaga: Interview with Bunny Wailer Kingston, Jamaica 19th October 2012

Noel Hawks & Jah Floyd: Reggae Going International 1967 to 1976 The Bunny 'Striker' Lee Story
Jamaican Recordings Publishing 2012
David Katz Solid Foundation An Oral History Of Reggae Bloomsbury Publishing Plc 2003
2013/06/26 掲載 (2014/10/20 更新)
Copyright (C) 2024 Dub Store Sound Inc.
無断転載は固くお断りしております