レゲエコレクター.comレゲエコレクター.com
¥0 (0items)
Pass :
ID :
自動ログイン
トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Scotty
アーティスト特集
Scotty(スコッティ)Text by Harry Hawks
デリック/デイヴィッド'スコッティ'スコットは表現力に富んだソウルフルなシンガーというだけでなく、大人気を博した1970年代にディージェイの芸術というものを大衆化させた最初のアーティストの1人だ...そして我々が言う"人気を博す"というのは大規模にという意味だ。
Scotty
本名 Derrick Scott
出生 1951年
死没 2003年2月27日
出身地 ジャマイカ ウエストモアランド 
関連アーティスト
ジャマイカにおける大多数の先駆者的ディージェイは正当に評価され、年々彼らの評価は高まっているが、ジャマイカのディージェイ・ミュージックを無視できないものにしたアーティストたちの中から省略されてしまっている早期のマイクの達人たちがいまだにいる。偉大なる故スコッティ(Scotty)はその中に含まれるオリジネーターの1人だ。

ウェストモアランドの教区でデリック・スコット(Derrick Scott)として生まれたスコッティは青年の頃キングストンに移住し、1967年、Kingston Technical High Schoolで勉強をする傍ら、仲の良かった生徒であるヴァルマン・スマイクル(Valman Smykle)とAJフランクリン(AJ Franklin)として知られるフランクリン・スペンス(Franklin Spence)と共にフェデラルズ(Federals)を結成した。彼らの最初のレコーディング、哀愁漂う'Penny For Your Song'は唯一無二のロイド・チャーマーズ(Lloyd Charmers)とどこにでも姿を見せるバニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)の力を借りたセルフ・プロデュース作品で、ジャマイカではスコッティの自身のレーベルから、イギリスではアイランド(Island)からリリースされていた。

「オリジナルの'Penny For Your Song'を覚えているか?カリプソのバンドがプレイしていたんだ...King Streetの1番端にあるヴィクトリア・マーケット出身のジョージ・タッカー&ヒズ・オーケストラ・バンド(George Tucker & His Orchestra)だ。チャーマーズと俺はウェスト・インディーズ・レコーズ(West Indies Records)に行って、フェデラルズとこの楽曲のレコードを作っていたんだが、チャーマーズは彼らの演奏を止めて、"キーボードを弾く奴が必要だ!"と言った、だから彼らはチャーマーズに頼み込み、チャーマーズがキーボードを弾くことになったって訳さ。俺はその次の瞬間これは大ヒットするって分かったのさ!その時スコッティは他の奴らとグループを組んでいたな...3人組だったな...フェデラルズだ。彼らは繰り返し、繰り返しその楽曲をやったが、あのカリプソ・バンドのようなヴァイブスは出なかった...」バニー'ストライカー'リー

その年の暮れフェデラルズは鮮烈なデビュー・リリースに続く、涙を誘うロックステディ楽曲'Shocking Love'またの名を'You Better Call On Me'をリリース、そして翌年には早いレゲエのスタイルで、ジャマイカではスコッティから、ロンドンではパーマー・ブラザーズ(Palmer Brothers)のレーベル、キャメル(Camel)からリリースされた。彼らはミス・ポッティンジャー(Sonia Pottinger)のレーベル、ゲイフィート(Gay Feet)のために'Wailing Festival'を録音し、その楽曲は1969年のIndependence Festival Song Competitionの上位8位に残った。

ヴァルマン・スマイクルは1969年にニューヨークに移住し、フェデラルズは解散、しかし、スコッティはノエル'バニー'ブラウン(Noel Brown)と共にヴァイキングス(Vikings)というバンドのために歌い始め、そこで、シンガーでありプロデューサーのデリック・ハリオット(Derrick Harriott)の目に留まり、彼はスコッティとバニーが前フェデラルズのメンバーであるフランクリン・スペンスと組み、チョーゼン・フュウ(Chosen Few)を結成するように促した。しかし、デリックは直ちにスコッティのソロ・アーティストとしてのポテンシャルに気付き、以前メッセンジャーズ(Messangers)と共に歌っていたバスティ・ブラウン(Busty Brown)の代役として抜擢し、チョーゼン・フュウは「ジャマイカ随一の歌とダンスのトップ・アーティスト」になった。

キング・ジャミー(Lloyd James)によると、スコッティはキング・タビー(King Tubby)がイワート'Uロイ'ベックフォード(Ewart 'U Roy' Beckford)を雇うまで、キング・タビーズ・ホーム・タウン・ハイ・ファイ(King Tubby's Home Town Hi Fi)でディージェイをしていた。「タビーはUロイを起用する前までスキーウィー(Skeewee)やスコッティなど多くの人を使っていた...」が1970年7月、デリック・ハリオットはスコッティが「デリックズ・ワン・ストップ・レコード・ショップ(Derrick's One Stop Record Shop)でふざけて、ショー・ビジネスの世界の様々な人々の物まねをしていた」ことを思い出し、彼をスタジオに連れて行き、そこで彼らは発生しようとしていた、歌の上にディージェイを載せるスタイルで'Musical Chariot'を録音し、自身のミュージカル・チャリオット(Musical Chariot)のディスコ・セットで独占的にプレイしていた。スコッティは9月に再びスタジオに戻り録音した、当時始まった新しいアメリカの教育番組'Sesame Street'のディージェイ・ヴァージョンはその2ヵ月後、デリックのレーベル、クリスタル(Crystal)からリリースされJamaican Hit Paradeで第3位を獲得した。同年の暮れ、スコッティは伝説的なスティービー・ワンダー(Stevie Wonder)のジャマイカ・ツアーをサポートし、「全てのショー評論家からジャマイカの新しいスターと称された」スコッティの次なる7インチのリリース、デリックの名曲'Solomon'のおしゃべりのヴァージョン'Riddle I This'はその裏面に'Musical Chariot'を収録し、クリスマスにはジャマイカのチャートで切望していた第1位に輝き、スコッティは"この季節1番人気がある男"として評価された。

デリック・ハリオットはキース&テックス(Keith & Tex)の'Stop That Train'の上に載せた'Draw Your Brakes'、またもキース&テックスの'Tonight'の上に載せた'Children Children'などを含むリリースのために自身のファウンデーション・リズムのバックカタログをひっくり返し、1971年と1972年の間スコッティはヒットに次ぐヒットを手にした。ジャマイカではクリスタル、イギリスからはトロージャン(Trojan)から1971年にリリースされた彼らのアルバム「School Days...presenting Scotty」は、LPとしては初めてディージェイのために全面的に、また単独で作られた...そこにはスコッティが新たに歌った'Penny For Your Song'が収録されていたのだが。アルバムのライナー・ノーツにはこう書かれている。

"P.S. スコッティのステージ上の成功は主に彼が身に付けているものに秘密がある。帽子、シャツ、サスペンダー、ショーツ、長靴下そして、ゴムの靴、さらには石版から皿に至るまで...お分かりになるだろうか?"

レコードのバイヤーたちは理解することが出来たが、男子学生の服装よりもスコッティのステージの上とレコードでのセンセーショナルな成功は更なるものだった。しかしキング・スティット(King Stitt)と並ぶこのトースティングをするアーティストの元祖はすぐに、新しく出現した、Uロイ、デニス・アルカポーン(Dennis AlCapone)、ウィンストン・スコットランド(Winston Scotland)、その後に続いたIロイ(I Roy)、ビッグ・ユース(Big Youth)、プリンス・ジャズボ(Prince Jazzbo)らに取って代わられてしまった。しかし1972年と1973年のレゲエのサウンドを全く新しい世界のオーディエンスたちに紹介することになった映画、ペリー・ヘンゼル(Perry Henzell)監督の「The Harder They Come」のオープニング・シーンに使われたのはスコッティの'Draw Your Brakes'だった。

スコッティはまた他のプロデューサーの下でも作品を残し、その中にはロイド'チャーマーズ'タイレルの元にたった1つ残した'Salvation Train'、ハリー'ハリーJ'ジョンソン(Harry 'Harry J' Johnson)のためにチャン&ハーヴェイ(Chung & Harvey)がプロデュースした、ローナ・ベネット(Lorna Bennett)の'Breakfast In Bed'のヴァージョンである非常にユーモア溢れる'Snake in Bed'などがある。'Snake in Bed'はジャマイカとイギリスで大ヒットし、イギリスでは1972年にアイランドの子レーベルであるブルー・マウンテン(Blue Mountain)からリリースされ、その数年後にアイランドからリリースされたときにはクロスオーバー・ヒットを予感させた。ソニア・ポッティンジャーとの彼の作品は'Unbelievable Sounds'と適切に名づけられ、自身のレーベル、スコッティ(Scotty)のためにドリフターズ(Drifters)の素晴らしいヴァージョンの'I Count The Tears'もセルフ・プロデュースした。彼はA面で美しいまでに'I Count The Tears'を歌い、'Count The Skank'と名づけた華麗にディージェイをしたB面は自分自身が制作していることに気付かず、制作途中セッション半ばでストライキを起こしたが、その後平穏に戻っていった。

1974年、スコッティはアメリカへ移住し、フロリダに落ち着いたが、80年代の早期にジャマイカへ帰国し、再度レコーディングを始めた。その中にはバカラック&デイヴィッド(Bacharach & David)の'What's New Pussy Cat'をダンスホールのスタイルにアレンジし、レーベル、ルーツ・ラディックス・ギャング(Roots Radics Gang)からリリースされた''などのレコードが含まれ、昔からの熱心なファンたちを喜ばせただけでなく新しい世代の音楽ファンに彼のユニークなスタイルを見せ付けたHieneken Startimeなどの往年のアーティストたちが出演するショーに出演した。体の不調を訴えた2002年12月、彼はLord's Place Nursing Homeに入り、2003年2月に前立腺がんで死去した。彼には妻のダフネ・スコット(Daphne Scott)と8人の子供がいた。
2013/07/30 掲載 (2013/07/30 更新)
Copyright (C) 2024 Dub Store Sound Inc.
無断転載は固くお断りしております
関連タイトル
B side) Scotty Pooh - Bacardi Mix Up
¥540
試聴する
¥300
試聴する
B side) Count The Skank
¥1,400
試聴する
B side) Scotty, Clive, Conrad - I Wanna Get Next To You
¥3,800
試聴する
B side) Version
¥300
試聴する
>>アーティスト: Scottyの全在庫商品を見る