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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Roy Cousins
アーティスト特集
Roy Cousins(ロイ・カズンズ)Text by Harry Hawks
タモキ・ワンビシ・ドーヴの物語は事実、ロイ・カズンズの物語であり、それは意地悪な競争の世界において生き残るための戦い、芸術的な自由についてである。ハーモニーを歌うシンガーたちの度重なるメンバー交代と共にロイヤルズの歴史は、キングストン11の密接的なコミュニティーと分離することは出来ず、歌うことの力と強さはゲットーを抜け出すために最良の方法の1つだった。
Roy Cousins
本名 Roy Anthony Cousins
出生 1949年8月25日
出身地 ジャマイカ キングストン 
関連アーティスト
もしロイヤルズ(Royals)が'Pick Up The Pieces'の後にレコードをリリースしなかったら、レゲエ狂たちの心と頭におけるロイ・カズンズ(Roy Cousins)の位置づけは永遠に保証されていたに違いない。しかし、この音楽のジャンルで最も崇高で不朽な音楽と謳われたにも関わらず、ロイヤルズは妥当な評価がいまだにされていないものの、60年代から70年代にかけてのレゲエの"黄金期"を代表する素晴らしいジャマイカ人ヴォーカル・グループの1つであり続けている。このグループのメンバーは変更を繰り返しているが、レゲエのビジネスに足を踏み入れた、最も猛烈に独立で献身な男の1人であるロイ・カズンズだけが不動のメンバーだった。誰でも、また全ての者が学ぶことが出来る真実と見識を持ち合わせているロイヤルズの音楽は、レゲエの歴史家の知識を超越し世に知られるべきだが、ロイの自立的な性格と音楽ビジネスにおける悪巧みを断固とした拒絶した性格は、ジャマイカ音楽史における彼の置かれるべき正当な場所を与えようとしてくれない。

ジャマイカ、キングストンで1949年8月25日に生まれたロイ・アンソニー・カズンズ(Roy Anthony Cousins)の最初の記憶は、彼のその後のキャリアを形成する存在となった亡き叔母、メルヴァ・ブラウン(Melva Brown)に歌を薦められたことだった。彼女はロイをキングストン11、ウォルサム・パーク・ロードにある、フレンチ(French)僧侶が営んでいた、彼女が通っていた教会へと連れて行き、ジュニア・クワイアー(Junior Choir)と共に歌わせ、ロイの初めてのデュエットは教会のコンサートで、友人のデニス(Dennis)と歌ったもので「あれは忘れることの出来ない1番恐ろしい出来事だった」

ロイはウォルトハム・パーク・ロードとキャンベル・ブルヴァードの角にあるMrs Scott's Infant Schoolで学校教育を受け始めた。1954年、リケッツ・アヴェニューにあるRousseau Primary Schoolに転向し、その時のクラスメートたちは後に名を馳せるアビシニアンズ(Abyssinians)のバーナード・コリンズ(Barnerd Collins)、ターマイツ(Termites)のロイド・パークス(Lloyd Parks)、ヘプトーンズ(Heptones)のドルフィン'ナゴ'モリス(Naggo Morris)、キーボード奏者になったアンセル・コリンズ(Ansel Collins)とアール'ワイヤー'リンド(Earl 'Wire' Lindo)、ドラマーのエリック'フィッシュ'クラーク(Eric 'Fish' Clarke)、後にバイロン・リー(Byron Lee)のドラゴネアーズ(Dragonaires)で歌ったヴィク・テイラー(Vic Taylor)らだった。モーリンズ・ロードにあるTarrant Senior Schoolを卒業すると彼はクラスの友人たちと共に、自身初となるヴォーカル・グループに加わり、1964年、キングストン5、トム・レッドカム・アヴェニューのThe Little Theaterで行われたJunior Song Contestに出場したが、「最終的に全てがっかりした」という。それからロイはフィンチ・クレセントに移り住み、ウィンストン'コブラ'フランシス(Winston 'Cobra' Francis)とパット・ケリー(Pat Kelly)を含む彼の4人組のグループ、シェラドンズ(Sheradons)はその近くのカナリー・アヴェニューに住んでいた。ロイは「彼らのハーモニーをほぼ毎晩聴きいていて」、またドリフターズ(Drifters)やテンプテーションズ(Temptations)などのアメリカ人ハーモニー・グループも好んで聴いていた。「あの頃はハーモニーが多く聴けたが、ジャマイカには1つしかラジオ局がなかったものだから聴くものは限られていた...そのラジオ局というのがRJRだ」

ロイヤルズの誕生は1964年、エロル・グリーン(Errol Green)、「このエリアのただ1人の若者のギタリストだった」バートラム'ハリー'ジョンソン(Berthram 'Harry' Johnson)、トレヴァー・マクファーレン(Trevor McFarlane)と後にグループを離れ、後にテナーズ(Tennors)を結成するマウリス'プロフェッサー'ジョンソン(Maurice 'Professor' Johnson)と共にロイが結成したものだった。翌年彼らはフェデラル・レコーズ(Federal Records)で初となるレコーディング'House On The Hill'を行い、その後トレジャー・アイル(Treasure Isle)スタジオに場所を変え、'We Are In The Moord'を録音し、デューク・リード(Duke Reid)のために「後4曲ほど録音したが、そのうちの1曲だけしかリリースされなかった」

ロイは1965年に学校を離れ、プランテイン・アヴェニューに位置するNew Yorker Garment Factoryで産まれて初めてとなる職に就き、そこでキース・スミス(Keith Smith)とトレヴァー・マクファーレンに出会った...2人の素晴らしいハーモニーの歌い手は「彼にハーモニーのことを多く教えた」ロイはそれからコックバーン・ペンに引越し、メイタルズ(Maytals)とUロイ・ジュニア(U-Roy Junior)として知られたディージェイのフロギー(Froggy)と共に生活をした。タータンズ(Tartans)、セドリック・マイトン(Cedric Myton)、プリンス・リンカーン・トンプソン(Prince Lincoln Thompson)、リンドバーグ'プレップス'ルイス(Lindburgh 'Preps' Lewis)そしてディーヴォン・ラッセル( Devon Russell)も近所に暮らし、14グラス・クイット・グッレードのロイの家はこのエリアに住む全ての若者たちがリハーサルをする庭になった。「私たちはタイミングを見計らって歌っていたんだ。1、2、3、ハイといった具合にね。そしてバートラムのギターの音色を聞きつけてタータンズがやってきたんだ」ロイとプリンス・リンカーンはその後、ロイヤルズ、あるいはロイヤル・ラッシーズ(Royal Rasses)と、自分たちのグループを組み合わせ、レコーディングを目的に一時的にリハーサルをしていたが、しかし悲しいことにこの伝説的とも呼べるこのラインナップはスタジオの外に飛び出すことはなかった。

1967年、ロイヤルズはテンプテーションズから拝借し、テンペスツ(Tempests)と名を変えたが、「私たちの歌い方はアメリカのサウンドに近いものがあったが、ジャマイカのプロデューサーたちはその準備が出来ていなかった」テンペスツはスタジオ・ワン(Studio One)のコクソン・ドッド(CS Dodd)のために8曲を録音したが、当時は1曲もリリースされずじまいだった。その何年も後、ラリー・マーシャル(Larry Marshall)がそのテープを見つけ、ロイのレーベル、ユフル(Uhuru)からリリースされヒットになっていたロイヤルズ自身のヴァージョンの後に'Pick Up The Pieces'をリリースした。最初のスタジオ・ワンのリリースはテンペスツと記載してあったが、その後ロイヤルズと正しく記載されプレスされた。'Pick Up The Pieces'のベースラインは結果的にレゲエ界で最も繰り返し使われるリズム・トラックの1つになった。ラリーは偶然にも同じテープにロイド・フォレスト(Lloyd Forrest)の'Where It's At'とプリンス・リンカーンの'Live Up To Your Name'を発見し、この名曲2曲も遅すぎるリリースとなった。

エロル・グリーンとトレヴァー・マクファーレンはロイヤルズを離れ、エロル・ネルソン(Errol Nelson)として知られるエロル・ウィルソン(Errol Wilson)、キース・スミスそしてアイヴァン・レニー(Ivan Renee)と、全員ウォーターハウス地区出身者たちが代わりに加入した。バートラム・ジョンソンはロイド・パークス、スライ・ダンバー(Sly Dumber)、ランチー・マクリーン('Ranchie' McLean)と共にRHTインヴィジブル・バンド(RHT Invisible Band)でベースを弾くために離脱、エロル・ウィルソンは1978年に離脱し、ブラック・ユフル(Black Uhuru)のメンバーとなった。ロイヤルズは1967年から1978年にかけて4人のメンバーで活動をした。彼らはジョー・ギブス(Joel Gibson)のために'Only For A Time'の初期ヴァージョンを録音したが、それは1度もリリースされず、その代わり、同じプロデューサーに録音した、有名なリズム"Nanny Goat"に乗せた'Never See Come See'は同じハーモニー・グループのパイオニアーズ(Pioneers)を嘲笑し、ヒットになった。パイオニアーズはお返しに彼らを軽蔑した'Easy Come Easy Go'で応えたが、悲しいことにロイヤルズの長く華々しいキャリアに簡単なことは1度もなかった。

ロイはヘプトーンズのバリー・ルウェリン(Barry Llewellyn)、チャンテルズ(Chantells)のトミー・トーマス(Tommy Thomas)、ブラック・ユフルのドン・カルロス(Don Carlos)らと共にJamaican Post Officeの小包郵便部署で働き始めた。ロイと同業者のロイド・フォレストとエロル・デイヴィス(Errol Davis)はカール・グリーン(Carl Green)とロイヤルズのために歌い、彼らはエチオピアンズ(Ethiopians)のメルヴィン・リード(Melvin Reid)とハル・ニコルソン(Hal Nicholson)らと次々に交代していった。ロイヤルズはロイド'マタドール'デイリー(Lloyd 'Matador' Daley)のために'Can't Catch Quako'と'100lbs Or Clay'を、バニー・リー(Bunny Striker Lee)のために'Country Boy'を、'Pick Out Me Eye'は「ウォーターハウスの兄弟のためにやったが、彼の名前は覚えていない」また「多すぎて思い出せない...本当に多くの楽曲を」バイロン'バロン'スミス(Byron 'Baron' Smith)のために録音したが、彼のレーベル、バロンズ(Barons)からは'Never Gonna Give You Up'のみリリースされた。

ロイは「リリースされないレコードを録音」しているようにも見えたが、彼の次のステップは「自分でやる」ことで、彼が音楽ビジネスで生き残るの唯一の方法は、郵便局で働きながらプロデュースをするというだと気付いた。彼は時間かけて考えるため、自身のレコーディングのために貯金をするためにビジネスから一線を置いた。郵便局での仕事は簡単なものではなかったが、しかしそれが、スタジオにおける自身の作品作りの経理においては、どんなに小さいディテールにも注意を払わなければならないと彼に強烈に気付かせた。彼が自身の音楽で訴えることはいつも、我慢、愛、理解は愛情を込めて組み合わされ、労を惜しまず構成された。

「我々はいいヴァイブスしか取り入れない...ピースとハピネスを含んだね」ロイ・カズンズ

ロイの初めてとなるセルフ・プロダクションは1973年、郵便局でのパートナーの資金援助を得て制作された。彼らは40ジャマイカ・ドルを、'Pick Up The Pieces'の新しいヴァージョン、美しい'Down Comes The Rain'、「ディーヴォン・ラッセルの次の曲」を録音するセッションのために蓄えていた。しかし40ドルではミュージシャンたちに十分な支払いが出来ず、その後の数週間、彼らは金曜日に給料をもらうロイが仕事を終わるのを郵便局の外で列を作って待ち受けていた!'Pick Up The Pieces'が最初にリリースされたのはユフルからで、ほかの2枚のリリース、Iロイ(I Roy)が歌った'Pick Up The Pieces'のヴァージョン'Fashion/Fashion Monkey'と'Down Comes The Rain'はタモキ(Tamoki Wambesi)から発売された。その後に続いたレコーディングは全てロイのレーベル、彼が漫画"Phantom"で見つけた平和的なアフリカの一族から名前を取ったワンビシからリリースされた。これはグループの名前になる予定だったが、その代わり彼らのキューバ人マネージャーが「いつも名前を変えていても上手くは行かない」と言ったため、ロイヤルズと名づけた。

ロイはキングストンのウォーターハウス地区に移り住み、彼の庭はこの地域に住んでいたドン・カルロスやヴィヴィアン'ヤビー・ユー'ジャクソン(Vivian Jackson)ら他のアーティストのリハーサル場となっていた。ロイヤルズはリー・ペリー(Lee Perry)のブラック・アーク(Black Ark)スタジオで録音されたヤビ・ユー(Yabby U)のプロフェッツ(Prophets)の定番楽曲'Carnal Mind'と'Run Come Rally'のバック・ヴォーカルを務めた。このグループはまたいくつかのジョー・ギブス(Joe Gibbs)とバニー・リー作品でハーモニーを提供した。70年代中期はロイヤルズにとって芸術的創造のピークであり、'Ghetto Man'、'Promised Land'、'Only For A Time'などのワンビシ(Wambisi)からのリリースでほんの少数が肩を並べることが出来た、申し分のない作品で土台を固めた。彼らのこの時期の楽曲はジャマイカ人のハーモニー・シンギングの決定的な最高到達点を捉えたアルバムの「Pick Up The Pieces」に収録され、このアルバムは1977年の春、ガッシー・クラーク(Augustus Gussie Clarke)の革新的な"ガッシー・エクスポージャー(Gussie Exposure)"の先導の元、ジャマイカではワンビシからリリースされた。ロイヤルズはついにある程度認識をされ始めた。

ロイのよき友人、デイヴィッド・モハメッド(David Mohammed)はアルバム「Pick Up The Pieces」のマスター・テープをイギリスへと持って行き、ミリタント・バリー(Militant Barry)に預け、彼はそれをモジョ・レコーズ(Mojo Records)へと持って行った。モジョのモー・クラリッジ(Mo Claridge)はこのアルバムを気に入り、彼のレーベル、マグナム(Magnum)からリリースした。1978年、ロイはモジョと親密に活動するために初めてイギリスを訪れ、翌年にロイヤルズの「Ten Years After」をリリースした。しかしロイはロイヤルズを離れ、ロイのためにソロ・アーティストとして素晴らしい'Genuine Way'を歌った、キング・タビー(King Tubby)の兄弟、ロイド'スクーナ'ラドックス(Lloyd 'Scunna' Ruddock)が代わりに加入し、グループはその名前をジェイズ(Jayes)へと変更した。

ロイはついに仲間のアーティストたちを手助けできる立場となり、自分たちの理想を語るが、それをめったに実行しない他の者とは違い、ロイは今、歌うことよりもレコードをプロデュースすることに自身の情熱を傾けていた。「私は自分のすべきことを忘れていた。私は人々をプロデュースすることに集中するのだ」80年代を通して彼は、長年付き合いがあるウィンストン・ジャレット(Winston Jarrett)、ディーヴォン・ラッセル、コーネル・キャンベル(Cornell Campbell)、プリンス・ファー・アイ(Prince Far I)、ドン・カルロス、ウィンストン・フランシス、ゲイラッズ(Gaylads)などを含む彼の近所に住むの仲間たち、またスターガヴ(Sturguv)のディージェイ、チャーリー・チャップリン(Charlie Chaplin)、若手のシンガー、アールシックスティーン(Earl Sixteen)のレゲエ・ミュージックにおける多くの新進気鋭のスターたちなど驚くべき数のシンガーとディージェイと活動を共にした。彼はまた大きくなるタモキ・ワンビシ・ドーヴ(Tamoki Wambisi Dove)のカタログをさらに広げた、数々の見事なダブのアルバムもリリースした。

次にロイはイギリスのリヴァプールに行き、その街で暮らし始めた。彼はそこで膨大なバック・カタログを売り込み続け、彼の非常に洗練された作品の、本当のクオリティーは完全に理解され認識されていないものの、いまだ現役を貫いている。

Sources:
Roy Cousins: The Royals 'The Climate Always Hot' Spring 2002
Noel Hawks: Interview with Roy Cousins. London UK/Liverpool UK 27th April 2002
Dave Hendley: The Royals: Picking Up The Pieces Blues & Soul No. 243 January 1978
2013/08/16 掲載 (2013/08/16 更新)
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