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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Cedric 'Im' Brooks
アーティスト特集
Cedric 'Im' Brooks(セドリック・イム・ブルックス)Text by Harry Hawks
その幅広く実りの多い活動を通してセドリック'イム'ブルックスは、生涯音楽の研究を導き続けた。それはカテゴリーに分けられることをものともせず、常に文化的、そして社会的な先入観を破壊することに挑戦するというものだった。
Cedric 'Im' Brooks
本名 Cedric Brooks
出生 1943年
死没 2013年3月3日
出身地 ジャマイカ 西キングストン デンハム・タウン
関連アーティスト
セドリック・ブルックス(Cedric Im Brooks)は1943年に西キングストンに位置するデンハム・タウンで生まれた。8歳のとき両親は彼の学費を払うことができなくなり、Alpha Catholic Boys Home And Schoolの尼僧たちのもとへ送られた...そこではジャマイカのたくさんの偉大な音楽家たちも生活していた。Alpha Catholicではクラリネットとピアノを学び、その由緒ある学校を卒業すると、彼はクラリネット奏者としてジャマイカのミリタリー・バンドに加入した。その後ヴァガボンズ(Vagabonds)にテナー・サックスとして加入、ポップスやR&Bのカヴァーを演奏していたが、他のメンバーがロンドンのクラブ・シーンにおいてきわめて重要なジミー・ジェイムス・アンド・ヴァガボンズ(Jimmy James & The Vagabonds)としてロンドンへ移住、セドリックはキングストンに残った。それからソニー・ブラッドショウ・グループ(Sonny Bradshaw Group)そしてケス・チン(Kes Chin)のスーヴェニアーズ(Souvenirs)で活動した後、セドリックはグランヴィル・ウィリアムズ・オーケストラ(Granville Williams Orchestra)にバリトーン・サックスとして加入、キングストンのジャズ・シーンの有名人でその後のスカやロックステディのスターであるローランド・アルフォンソ(Roland Alphonso)、トミー・マクック(Tommy McCook)そしてアーネスト・ラングリン(Ernest Ranglin)等と共にプレイすることとなる。後に北海岸へ移住し、モンテゴ・ベイにあるClub 35のハウス・バンドのメンバーとして1年間活動した。

1965年、セドリックはバハマへ拠点を移し、後にアメリカ合衆国に移住するまでの間、フリーポートでテディ・グリーヴス(Teddy Greaves)のバンド、ナッソーではカルロス・マルコム(Carlos Malcolm)のアフロ・ジャマイカン・リズムス(Afro-Jamaican Rhythms)、そしてピーナット・テイラー(Peanut Taylor)の元で活動していた。しかしリゾート地のクラブでの演奏は音楽的にはとても価値のあるものとは言いがたかった。観光客は、セドリックが当時興味を持ちはじめ影響を受けていた、ジョン・コルトレーン(John Coltrane)やファラオ・サンダース(Pharaoh Saunders)が著しく説得的に証明した、大胆なジャズの演奏にそれほど乗り気ではなかった。彼は1968年、フィラデルフィアにあるComb音楽カレッジに入学すると、ソニー・ローリンズ(Sonny Rollins)、レオン・トーマス(Leon Thomas)、そしてサン・ラ・アンド・ヒズ・オーケストラ(Sun Ra And His Arkestra)に出会うと、「これが私の本当の名前、私の魂の名前」という背景のもと、自らに"I'm(イム)"という名を付けた。

1969年にキングストンに戻ると、セドリックはトランペット奏者デイヴィッド・マデン(David Madden)とイム・アンド・デイヴィッド(I'm & David)を結成、2人はコクソン・ドッド(CS Dodd)のスタジオ・ワン(Studio One)にて一連のヒット曲を録音した。セドリックの常に創意に富むホーンのフレーズはジョン・ホルト(John Holt)の'Love I Can Feel'を'Candid Eye'、バーニング・スピア(Burning Spear)の'Call On You'で使われている 'Everyday Skank'、さらにはヘプトーンズ(Heptones)のきわどい名曲'Fattie Fattie'のヴァージョンである'Money Maker'などブレントフォード・ロードの生み出した名リズムの中に見られる。

「70年代前半から、彼はアフロ・ジャズ、ジャズ・ホーンの総合体、そしてラスタファライ・ドラミングの草分けであった。彼の複数のアンサンブル、ライト・オヴ・サバ(Light of Saba)、ワン・エッセンス(One Essence)、そしてユナイテッド・アフリカ(United Africa)はジャズのモダニスト的アイデアを反映させただけではなく、後にブルックスの哲学的、そして音楽的アイデンティティを構築していったアフリカやアフリカの感性とも密接な関係にあった」ハービー・ミラー(Herbie Miller)

セドリックはモンテゴ・ベイで働いているときに初めてエチオピア音楽に出会った。そしてデイヴィッド・マデンと共にミスティークス(Mystics)としてラスタファリアンの宗教を綿密に調べ上げ、ジャズに影響されるレゲエ音楽の可能性を追求し始めた。1971年、ミスティークスはカウント・オジー(Count Ossie)のバンドと合併し、神がかるミスティカル・リヴェレーション・オヴ・ラスタファリ(Mystical Revelation Of Rastafari)としてガイアナ、トリニダード、アメリカ合衆国、そしてカナダをツアーしてまわった。1973年、彼等の3枚組み傑作アルバム、「Grounation」が発売されラスタ・レゲエをアーティスティックでスピリチュアルな力として成長させ、そして今なおジャマイカ音楽の発展においてラスタファライの重要度を決定的づける声明として存在する。常に訓練を惜しまず、さらなる解明を目指すセドリックは、モナのUniversity Of The West Indiesにて音楽講師として勤務し、その後ディヴァイン・ライト(Divine Light)を設立し、自宅にて毎日研究会の指揮をとっていた。さらに彼は献身的なメンバーであり、宗教学者、またEthiopian Orthodox Churchの音楽監督でもあった。彼のアンサンブルのひとつ、ライト・オヴ・サバはウィンストン'メリトーン'ブレイク(Winston 'Merritone' Blake)が所有しレッド・ヒル・ロード118番地に位置する、名高いTurntable Clubにて毎週演奏したほか、ジャマイカの刑務所でもパフォーマンスを行った。

この時期に行われた彼の実験のうち多数は1975年にレーベル、ドクター・バード(Doctor Bird)から発売された「From Mento To Reggae To Third World Music」に聞くことができる。この時期までにセドリック・ブルックスはジャマイカ音楽を先導する大使として尊敬され、同年ライト・オヴ・サバはフィデル・カストロ(Fidel Castro)の招待のもとキューバ・ツアーを敢行した。ミスティークス・リヴェレーションの2枚目のアルバム、「Tales Of Mozambique」は大いに賞賛され、「The Light Of Saba In Reggae」もまた好評であった。そしてクラシック'Lambs Bread Collie'の7インチは1978年、ロンドンのプリ・リリース・サーキットをにぎわせアンダーグラウンドで大ヒットを記録した。

セドリックによる初めてのソロ・アルバム、「I'm Flash Forward」は1977年、スタジオ・ワンの真のルーツ・ファッションでプレイン・スリーヴに入れられて発売された。アルバムは「ちょうどブルックスがジャマイカのポピュラー音楽の豊かなポリ・リズミックな質を分析的に研究し始めた頃」録音された。それはまさに創造の離れ業であり、ブレントフォード・ロードのクラシック・リズムの上でセドリックのけだるいサックス鳴り響くというものであった。彼なりの解釈のもと、アビシニアンズ(Abyssinians)の'Declaration Of Rights'のリズムを'Father Forgive'として、またホレス・アンディ(Horace Andy)'Skylarking'は'Idle Berg'として演奏された。ほかの実践的なスタジオ・ワンのデザインとは似ても似つかないフルカラーのカヴァーは数年後に遅れて登場し、「I'm Flash Forward」はスタジオ・ワンの名インストゥルメンタル・アルバムとして評価されている。

「彼はリズムをメロディ・ラインと同等に扱い、それと同時にリズムの方向性を提示し、サポートする、それはまるでメロディと横並びに歩いているかのように...」ヴェレナ・レコード(Verena Reckord)

"Journey To Africa"の活動を通して、主導者であるセドリックはEdna Manley College for the Performing Artsでアフリカとカリブ海のリズムのクラスを指揮した。さらには複数のダンサー、ドラマー、シンガー、詩人、そしてモデルを率いたアンサンブル、"Journey To Africa Heritage Showcase"としていくつものコミュニティーでパフォーマンスを行った。後にアメリカ合衆国へ戻ったセドリックは現地で研究を続ける中で、時に文化学者としてアディス・アベバの地へ戻り、カルロス・マルコムと共にスタジオでレコーディングをしていた。1998年、ローランド・アルフォンソの早すぎる死の後、セドリックはスカタライツ(Skatalites)に加入、筆者はその伝説のバンドが行った2001年のイギリス・ツアーで彼の独特な貢献によりさらに改良されたその音楽を目撃したことを極めて光栄に思う。

セドリック・ブルックスはラスタファライの教義を通して音楽家、作曲家、そして編曲家としてメント、レゲエ、そしてフリー・ジャズを融合、絶え間なくジャマイカ音楽を国際的にふさわしい位置づけにしようと努めていた。だがしかし、彼の最大のヒットは皮肉にも"Money Maker"という曲名であった。商業的な成功を避けたセドリックは"神聖さを重視するレゲエを広めること"に専念した。セドリック・ブルックスは2013年5月3日、ニューヨーク、クィーンズの病院にて長きに渡る闘病の末、心拍の停止により死亡した。彼は彼の7人の子供たちにより看取られていった。

全てのダブ・ストアの関係者はセドリックの家族と友人たちに心から追悼の意を表する。

参考文献:
Herbie Miller: Cedric 'I'm' Brooks Eclectic And Eccentric The Gleaner 19th May 2013
Jim Dooley: Cedric 'I'm' Brooks Interviews From The Culture Reggae Archive More Axe 9
I Am The Gorgon 2013
2017/07/05 掲載
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