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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Tony 'Prince Tony' Robinson
アーティスト特集
Tony 'Prince Tony' Robinson(トニー’プリンス・トニー’ロビンソン)Text by Harry Hawks
ビッグ・ユースやUロイに代表されるようにプリンス・トニーのTRインターナショナルは、その他大勢のプロデューサーよりもジャマイカ人ディージェイの芸術性を大衆化した。そして70年代後半に彼等を世界的に重要な存在に位置づけた...
Tony 'Prince Tony' Robinson
本名 Tony Robinson
出身地 ジャマイカ  
関連アーティスト
一般的にトニー'プリンス・トニー'ロビンソン(Tony 'Prince Tony' Robinson)の最初のプロダクションは、過小評価されがちなユザイヤ'カウント・スティッキー'トンプソン(Uziah 'Count Sticky' Thompson)が、1969年にジャマイカではレーベル、ソウル・シャック&トップ・オヴ・ザ・ポップス(Soul Shack & Top Of The Pops)から、またイギリスではトロージャン(Trojan)傘下のレーベル、グレープ(Grape)から発売した'Cassa Boo Boo'とされている。スティッキーは冒頭からすばらしいイントロ、"さあ、プリンス・トニーのおでましだ..."と紹介、そしてそのプリンス・トニーは70年代を通して登場し続けた。

「その頃のディージェイは、去ってはまた現れた...それは不安定であった」プリンス・トニー

彼はデニス・アルカポーン(Dennis AlCapone)の'Majesty In Red'や'Rub Up A Daughter'、ディリンジャー(Dillinger)の'Fat Beef Skank'そして最も注目すべきはウィンストン・スコットランド(Winston Scotland)の多くのスマッシュ・ヒット等、"おしゃべり"スタイルに長けた人たちの数々のヒット・ディージェイ・シングルを自身のレーベル、ハイ・スクール・インターナショナル(High School International)から発表していった。'My Little Filly'や'On The Track'のように、その中のいくつかはイギリスのトロージャンやパマ(Pama)レーベルを通して十分な成功を得た。'Buttercup'はプリンス・トニーによる'You Don't Care'/'You'll Want Me Back'の極上のヴァージョンで、元々パマ傘下のレーベル、パンチ(Punch)から発売されたものの、その後メジャー・レーベルであるフィリップス(Phillips)にライセンス契約され、1972年にイギリスでリリースされた。そしてそれはどうしてかわからないが国内チャート入りはしなかった。プリンス・トニーはディージェイ・レコードやヴァージョンに本物の感情を持ち、そして彼のレコードは最先端のプロデュースが施されていただけではなく、とてもよく売れたと、彼は後にカール・ガイル(Carl Gayle)に語った。

「俺はヴァージョンを支持する人間の一人だ。教えてやろう、俺はおしゃべりでお金を儲ける...俺が稼いだ金は全て"おしゃべり"からきている」プリンス・トニー

ウィンストン・スコットランドの'Quick And Slick'の歌詞、"スリム・スミス(Slim Smith)というブラザーがやってきた"はバニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)の'Everybody Needs Love'リズムに偉大な効果を与えたことにより、リー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)はデイヴ・バーカー(Dave Barker)の、Uロイ(U Roy)とアップセッターズ(Upsetters)は'Earthquake'と呼んだ'What A Confusion'のカットをプリンス・トニーに渡した。同リズムでトニーはローマン・ステュワート(Roman Stewart)を起用、'Arab And Israelites'を録音した。しかしながら1975年、彼はバーリントン・スペンス(Barrington Spence)と共にスクラッチの'Curly Locks'を用いて'Let Locks Grow'というカヴァーを録音した...当時プリンス・トニーはこの若きシンガーのキャリアを促進に力を入れていた。スクラッチとジュニア・バイルズ(Junior Byles)は'Dreader Locks'の"プリンス・トニー、おまえはフォニー(偽者)、おまえをポニーのように乗りこなしてやろう"というリリックで反撃した。だがしかし'Let Locks Grow'は大ヒットとし、ビッグ・ユース(Big Youth)によるディージェイ・ヴァージョン'House Of Dreadlocks'はそれをさらに上回る売り上げを記録した。

トニーは、スライプ・ロード45番地に位置する彼のヘッドクォーター、プリンス・トニーズ・インターナショナル・マート(Prince Tony's International Record Mart)にてレーベル、TRインターナショナル(TR International)のレコードを売り始めた。スライプ・ロードにおける初期のLP、ビッグ・ユースの「Dread Locks Dread」は後にイギリスのクリック(Klik)から発売され、現地では「まるで7インチ・シングルのように売れた」という。純粋主義者はそれを「ユースのキャリア終焉の始まり」と嘆くかもしれないが、それは実際ビッグ・ユースとプリンス・トニー双方の国際的キャリアにおいて全く新しく、大いに成功することの幕開けとなった。

「ビッグ・ユースと作ったトニーのLPはディージェイとダブのコンビネーションが最高の針路であることを彼に教えた」カール・ガイル

1975年、'Joyful Locks'と'Gorgon Wise'を含む、バニー'ストライカー'リーのために録音されたいくつかのシングルが、Uロイを再びそのピークに押し上げる手助けとなり、同年プリンス・トニーがプロデュースしたアルバム、「Dread In A Babylon」はUロイが国際的な成功を掴む起爆剤となった。リチャード・ブランソン(Richard Branson)が所有するロンドンのヴァージン・レコーズ(Virgin Records)はジャマイカの音楽に莫大な投資をはじめ、Uロイとプリンス・トニーは彼らが最初に契約したアーティストの一人となった。その後「Dread In A Babylon」は英国内ではヴァージンから発売され、翌年には続いて「Natty Rebel」、1977年には「Rasta Ambassador」そして1978年には「Jah Son Of Africa」と続いた。すべては急激に成長した国際マーケットにおいて数千枚単位で売れたが1980年にはヴァージンとのライセンス契約は満期となり、罵倒とともに別れを告げた 'Mr Branson Ran Away With The Ransom'を収録したUロイの「Love Gamble」/「Love Is Not A Gamble」はジャマイカではTRインターナショナルから、そしてアメリカではステイト・ライン(State Line)から発売された。しかしながら彼等の提携はディージェイのみならず全く新しい聴衆にジャマイカ音楽を紹介するいいきっかけとなった。

プリンス・トニーがグラディエイターズ(Gladiators)と最初に制作したアルバム、「Trenchman Mix Up」は1976年にヴァージンから発売され国際的ヒットとなり、グラディエイターズをジャマイカのハーモニー・グループの最前線に押し出した。ジェレミー・メア(Jeremy Marre)がプリンス・トニーを特集し、賞賛を受けた映画、「Roots, Rock Reggae」の中で彼らが少しだけ登場したシーンでは、グループがジョー・ギブス(Joe Gibbs)のスタジオ内でハーモニーを奏でているところに、その場を取り仕切るトニーがエロール・トンプソン(Errol Thompson)にアドバイスをするというものだった。

「プリンス・トニーとエンジニア、エロール・トンプソンは彼等の目指すバランスに調整する為に何時間も費やす。それは音楽への本能である...」Roots, Rock Reggaeより

後にグループがトニーと制作し、1978年に発表されたLP、「Proverbial Reggae」、そして1979年の「Naturality」がグループを頂点に留め、彼らが1978年春に行ったイギリス・ツアーは決定的な成功となった。

80年代に入りプリンス・トニーはマイアミに拠点を移し、若く勢いのあるアーティストを集めダンスホール・スタイルのアルバムをリリースし始めた。代表的な作品はレーベル、ジャム・ロック(Jam Rock)レコードから発売されたアール・シックスティーン(Earl Sixteen)の'Super Duper'、バリー・ブラウン(Barry Brown)の'Artist Of The 80's'、トニー・タフ(Tony Tuff)の'To Lovers Everywhere'そしてイエローマン(Yellowman)の'Hotter Reggae'などである。

その後彼の動向の多くは謎に包まれており、それはまことに残念なことである。なぜならば70年代に彼はルーツ・ロック・レゲエを予想だにしなかった領域まで推進したからである。トニー'プリンス・トニー'ロビンソンの伝記はほぼ皆無に等しく、偉大な成功を成し遂げた開拓者であるのにも関わらずその詳細はほとんど知られていない、というレゲエ音楽の歴史上またひとつの不合理として残る...彼が残した素晴らしい作品を除いて。

参考文献:
Carl Gayle: Straight To The Nation's Head Black Music Volume 3, Issue 26 January 1976
Jeremy Marre: Roots, Rock, Reggae 1977
2013/09/27 掲載 (2013/10/04 更新)
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