彼は'Love Is Not A Gamble'のアップデート版に乗せ、目を見張るようなスマッシュ・ヒットとなった'Wicked In Bed'を録音した、ジャミーの弟子であるボビー'デジタル'ディクソン(Bobby Dixon)のレーベル、デジタルB(Digital B)、ワイクリフィー'スティーリー'ジョンソン(Wycliffe 'Steely' Johnson)とクリーヴランド'クリーヴィ'ブラウン(Cleveland 'Clevie' Browne)のレーベル、スティーリー・アンド・クリーヴィー(Steely & Clevie)、ガッシー・クラーク(Augustus Gussie Clarke)のミュージック・ワークス(Music Works)、ガッシーの弟子、マイキー・ベネット(Mikey Bennett)とパトリック'シャドウ'リンゼイ(Patrick Lindsay)のレーベル、トゥー・フレンズ(Two Friends)など容赦なくレコーディングをした。彼の驚異的な人気はアメリカ発のラップのグローバルな偏在性と同時に爆発し、アメリカをベースに活動するマイク・マンたちの故郷が明白になった時、彼の人気が手短なチャンスの到来とシャバ・ランクスが広げていった、受容の機会を与えることになった。楽々と世界のスターダムにのし上がったシャバがエピック(Epic)のために録音した1枚目、適切に名づけられた「As Raw As Ever」は1991年にリリースされた。以前、レゲエのクロスオーヴァーの調印は、まず何を認められ契約に至ったのかとは別に、ロック、ソウル、カリプソ...など、何でも演奏するように忠告されていたという事実があった。メジャー・レーベルからのシャバのリリースは、粗っぽく、無骨で、生々しいままで、彼は驚異的な枚数のレコードを売り上げただけでなく、「As Raw As Ever」はその年のグラミー賞でBest Reggae Album部門を受賞した。
1993年、シャバがカヴァーしたスライ&ザ・ファミリー・ストーン(Sly & The Family Stone)の'Family Affair'は映画"Adams Family Values"のサウンドトラックに収録され、ランクスに更なるクロスオーヴァー・ヒットをもたらしたが、その成功は、メディアが嫌うラガ・ミュージックに関する何もかもの犠牲としての、ありがたくないポジションにシャバを据えてしまった。彼のキャリアはしばしばランクス自身実際行った行動また発言よりも、連想による過ちで、深刻な批判を受けた。彼はボブ・マーリー(Bob Marley)以来、(比較するものが違うが)これだけ騒がれる国際的なジャマイカ人スーパースターで、彼が何を言っても、また何も言わなくても、誰かしらを混乱させるポジションに置かれる羽目になってしまった。
自身の驚異的なキャリアの中でシャバ・ランクスは自身のルーツを離れず、魂を売ることも無く、いまだ世界を驚かせる、非常に難しいバランスを取っているアーティストでい続けている。シャバはレコーディングを辞めることは無く、多くの作品はリリースしていないものの、彼が1987年に作り上げた申し分のないスタンダードは揺らぐことはない。彼は90年代半ばにキングストンのスタジオに戻り、ボビー・デジタルのためにルーツ・アンセム'Think You Having It All'と'Heart Of A Lion'を録音し、1999年にはエピックでの作品をフィーチャーしたグレイテスト・ヒッツのコンピレーション、「Shabba Ranks & Friends」で更なる国際的なヒットを放った。
そして彼は世界を揺らし続けている。"ダンスホールの帝王(The Emperor Of Dancehall)"はReggae SumfestのInternational Nightに出演するために11年ぶりに帰国したジャマイカで英雄のように迎えられ、翌年の夏、伝えられたところによると、彼は期待されるニュー・アルバムに熱心に取り組んでいるとのことだった...