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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Uzziah 'Cool Stick/Sticky' Thompson
アーティスト特集
Uzziah 'Cool Stick/Sticky' Thompson(ユザイア’クール・スティック/スティック'トンプソン)Text by Harry Hawks
ユザイア'クール・スティック/スティッキー'トンプソンはどのアーティストよりもレコードに出演している。彼は世界屈指のパーカッショニストというだけでなく、革新的なファウンデーション・ディージェイだが、スティッキー・トンプソンの名前はレゲエ・ミュージックの熱狂的ファンで無い限り親しみをもたれていない...
Uzziah 'Cool Stick/Sticky' Thompson
本名 Uzziah Thompson
出生 1936年8月1日
死没 2014年8月25日
出身地 ジャマイカ ウェスト・キングトン ハノヴァー
関連アーティスト
"I'm the man to quench your musical thirst
音楽の渇きを癒すのはこの俺だ..."
Cool Stick & The Upsetters: Dry Acid 1969

ジャマイカの西に位置するハノヴァーで1936年8月1日に生まれたユザイア・トンプソン(Uzziah Thompson)はウェスト・キングストンに移り住すむことになった。「ウェスト・キングストンに来た頃俺は12歳くらいだった」という。1948年、彼はクレメント'コクソン'ドッド(CS Dodd)のサウンドシステム、ダウンビート(Downbeat)で職を見つけた。彼は"クール・スティック(Cool Stick)"と名乗りディージェイを始めるまで、サウンドの設営アシスタントをしていた。

「俺はコクソンとデューク・リード(Duke Reid)のところで"ハウス・オブ・ジョイ(スピーカー・ボックス)"を運んだりしていたんだ...レコードをかけてディージェイをするまではね...」ユザイア・トンプソン

レコードの上で喋ることは芸術として依然として広く認められていないが、マイケル'カウント・マチューキ'クーパー(Michael 'Count Matchuki' Cooper)、パーシー'サー・ロード・コミック'ウォーカプ(Percy 'Sir Lord Comic' Wauchope)、ノエル'キング・スポーティー'ウィリアムス(Noel 'King Sporty' Williams)そしてウィンストン'キング・スティット'スパークス(Winston 'King Stitt' Sparks)らのパイオニアたちはゆっくりだが確実に"ジャイヴ・トーク(流行り言葉)"を用い、キングストンのサウンドシステムでこのジャンルを確立していった。アメリカのラジオのアナウンサーにインスパイアされた彼ら独自のアクセントはすぐにダンス・ホールからレコーディング・スタジオへと到達することになる。楽曲の上で喋る、声でパーカッションのようなサウンドを出すなど、クール・スティックの功績の多くはコクソンからリリースされた1965年の大ヒット、スカタライツ(Skatalites)の'Ball O' Fire'と'Guns Of Navarone'で聴くことが出来るのだが、レーベル面に彼の名前は見当たらなかった。

「ある日コクソンは俺のディージェイを聴きに来て、スタジオへと連れて行った。そこで"同じことをやってくれ"とだけ言った。俺は権利なんてものは知りもしなかった...何もだ!俺の初めてのレコードは...コクソンのところで'Guns Of Navarone'と'Ball O Fire'をやった...他にもあるが、多すぎて分からない!だが楽曲が発売されて売れ行きが好調でも、俺には少しの報酬しか入ってこなかった!唯一の救いはそれが自分の楽曲じゃなかったことだ...」ユザイア・トンプソン

同年、デューク・リードのトレジャー・アイル(Treasure Isle)のサウンドシステムでディージェイと、同レーベルでレコーディングを行っていたユザイアは、クレジットはされなかったものの、'Girls Town Ska'でその名を呼ばれることに成功した。クール・スティッキーはババ・ブルックス&ヒズ・バンド(Baba Brooks & His Band)とクレジットされたこのレコードのイントロにフィーチャーされた。"ヘイ、スティックス、今夜はどこ行くんだ?俺はガールズ・タウンに行くんだ(Hey Sticks where you going tonight? I'm going down by Girls Town"そして「俺はデューク・リードのところで'Gun Fever'っていう楽曲もやったんだ...」と彼は振り返った。この楽曲のクレジットもババ・ブルックス・バンドだった。肩書きなどない時代から自分の職種を極めていたクラシックで、影響力の強いディージェイである彼の参加した作品に彼の名前がクレジットされることはめったになく、リスナーたちがクール・スティッキーを聞き分ける唯一の方法は、彼のエキサイティングで個性に満ちた喋り方を覚えるしかなかった。彼はまたセッション・ミュージシャンとして働き始めたことが弾みとなり、1965年、パーカッショニストとして自身初となるビッグ・ヒットとなったデューク・リードがプロデュースしたテクニークス(Techniques)の'Little Did You Know'の人気に一役買った。ところで、ユザイアはダダ/ババ・テワリのレーベル、カリボウやカリプソに素晴らしい'Chico Chico'などメント色の濃い楽曲を60年代前半に録音したカウント・スティッキー(Count Sticky)ではない。

「カウント・スティッキーと名乗っているやついたんだ...彼のことは知っているよ!彼はいつもノース・コーストで活動していた。彼はコンガの使い手でカリプソをやっていたんだ!前はピンク・レーンに住んでいたっけな...彼に会いに行くと、彼は"よう、スティッキー"と声をかけてくるから、俺も"よう、スティッキー!"と返すんだ。仲は良かったが、やっていることは違った...完全にな!」ユザイア・トンプソン

スタジオ・ワン(Studio One)で活動している時、ユザイアはリー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)との親交を深め、スカがロックステディへと移り変わると、彼は注目の若手プロデューサー、ジョー・ギブス(Joel Gibson)の元でスクラッチと共に非常に素晴らしい2曲に携わった。ストレンジャー&グラディ(Stranger Cole & Gladstone Anderson)の'Just Like A River'の上に乗せた'El Casino Royale'と、リン・テイト&ザ・ジェッツ(Lynn Taitt & The Jets)とクレジットされた'Train To Soulville'、クール・スティッキー(Cool Sticky)とクレジットされた'Train To Skaville'のヴァージョンである。レゲエが主流になってくると、「俺はキングストンからモンテゴ・ベイに活動拠点を移し...」、スクラッチ(Scratch)がプロデュース、レコードの最後に"俺がクール・スティックだ...杖を持って登場だ(It's Cool Stick...with his walking stick!"と自らの存在を知らしめた、パマ(Pama)UK傘下のパンチ(Punch)からリリースされたスリル満点の'Dry Acid'に出演した。彼はスパニッシュ・タウンのプロデューサー、ハリー・ムーディー(Harry Mudie)の元でエボニー・シスターズ(Ebony Sisters)の'Let Me Tell You Boy'に乗せた'Wha Do You So'を、ロイド'マタドール'デイリー(Lloyd 'Matador' Daley)の元でマタドールズ(Matadors)とクレジットされパマ傘下のキャメル(Camel)からリリースされたリトル・ロイ(Little Roy)の'Bongo Nyah'のヴァージョン、'Dread Locks'を、サーJJ(Sir JJ)の元でアンセル・コリンズ&ザJJオール・スターズ(Ansel Collins & The JJ All Stars)とクレジットされた'Everything Clash'のヴァージョン、'Bigger Boss'を、ラニー・ボップ・ウィリアムス(Ranny Bop Williams)の元でパマ傘下レーベルのブレット(Bullet)よりヒッピー・ボーイズ(Hippy Boys)とクレジットされた'What's Your Excuse'、クランシー・エックルズ(Clancy Eccles)の元でエリック'モンティ'モリス(Eric Monty Morris)の荘厳な'Say What You're Saying'に乗せ、クランシーズ・オール・スター(Clancy All Star)とクレジットされた'Express (Port One)'など最高級のヴァージョンをいくつも録音した。だが「クランシーが俺にくれたのは自転車だった...」という。ストライカー・リー(Striker Lee)の元に残したスティッキーの'Musical Bop'はロンドンでパマのブレットからリリースされたとき、キング・スティットとクレジットされてしまった。ジャマイカではソウル・シャック&トップ・オブ・ザ・ポップス(Soul Shack & Top Of The Pops)から、イギリスではトロージャン(Trojan)傘下のグレープ(Grape)から同年にリリースされたトニー'プリンス・トニー'ロビンソン(Tony 'Prince Tony' Robinson)初となるプロデュース作品、'Cassa Boo Boo'でクール・スティックは "プリンス・トニーがやってきたぞ(Here comes the man Prince Tony)"と見事に彼を紹介している。1969年が1970年に差し掛かるとき、レコーディング・ディージェイたちはクランシー・エックルズの元に残したキング・スティットのレコーディングやIロイ(I Roy)のデューク・リードとの作品などで半永久的な名声を得たが、謙遜的なクール・スティックはキング・スティット、Uロイ(U Roy)だけでなくIロイ、デニス・アルカポーン(Dennis Alcapone)、スコッティ(Scotty)、リジー(Lizzy)らの喋ることを生業としたタレントたちの高波に取り残されてしまった。

「これで生計を建ることなんて1度も考えていなかった...これは本業ではなかったし、俺はその中にただ放り込まれただけだ...言いたいことは分かるだろ!」ユザイア・トンプソン

ディージェイの総明記の流儀に対するスティッキーの貢献は余りにも長い間軽視され続け、
彼の草分け的な"語り"を集めた完全なるコンピレーションはいち早く作られなければならない。1970年、クランシー・エックルズはキング・スティット&クランシー・エックルズとして重要な'Dance Beat'をリリースした。このペアは初期のサウンドシステムを躍動的なレゲエのリズムに乗せて草分け的なディージェイの名前を挙げ、リスナーたちにクール・スティックの所在を知らせた。

"Spar? Do you remember the deejays them?
おい、あのディージェイたちのことを覚えているか?
Oh! The bad bad red Hopeton. A funny, funny man...
そうだ!ザ・バッド、バッドなレッド・ホープトンだ。あいつは面白い男だったな...
You remember Count Matchuki? A him the boss with the hot soul sause!
カウント・マチューキを覚えているか?あいつはホット・ソース会社のボスだってよ!
...You remember Brother Sticky? A him play the chi chi down a studio now
...ブラザー・スティッキーを覚えているか?あいつはスタジオでボンゴを叩いているよ"
Clancy & Stitt: Dance Beat 1970

彼はスクラッチの元でパーカッショニストとして自らを確立させた上、次の続く30年、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ(Bob Marley and The Wailers)と活動し、ツアー・バンドに参加する以外はスタジオに入りっぱなしだった。

「アップセッター(Upsetter)のところでは "お喋り"は少しだけやったよ...アップセッターでは主にパーカッションをやっていた。みんな何かしらを叩いていた。だから俺はおろし金を持ってきて、スクラッチが楽曲を作り始めると俺はおろし金を使って音を出していた。そしてあの男は"いい感じじゃないか!"と言ったんだ。ウェイラーズがコクソンの元を離れ、リー・ペリーの所へ来た時、俺たちみんなそこに集まっていたのさ。'My Cup'や'Mr Brown'、"Soul Rebels"のアルバムに収録されていたウェイラーズの楽曲をやったな...俺はいつもウェイラーズやジョー・ヒッグス(Joe Higgs)、そこに集まっていた人たちとスタジオに入ったもんさ!」ユザイア・トンプソン

スティッキーがパーカッションで参加していないアルバムのリストをあげる方が、例を挙げるよりも容易かもしれない。これは冗談抜きだ!ブラック・ユフル(Black Uhuru)の「Sinsemilla」、「Visions Of Dennis Brown」、バーニング・スピア(Burning Spear)の「Dry & Heavy」、「Heart Of The Congos」、カルチャー(Culture)の「Two Seven Clash」、グレゴリー・アイザックス(Gregory Isaacs)の「Soon Forward」など、あなたの持っている、名盤といわれるどのLPでも彼の名前を見つけることが出来る...レコードをセットして御覧なさい。彼のサウンドが大きく鮮明に聴こえるだろう。そして、もちろん、それは数え切れない7インチ12インチ・シングルで、毎度合い変わらず耳にすることが出来る。"お喋り"でセッションを盛り上げていた10年前だが、今彼はパーカッションで同じことをやっている。それはまるで料理長のような仕事振りだった。

「俺はこれを生業にすることにした...味付け無しで料理は完成しないだろ!」ユザイア・トンプソン

以前、バック・ミュージシャンは前に出ることは出来ないという不運な運命があると言われていた...これはレコードの制作過程においてパーカッションの重要性を軽視してきた証拠である。70年代中期、スティッキーはドラムの巨匠、スライ・ダンバー(Sly Dunbar)とチャンネル・ワン(Channel One)のハウス・バンド、レヴォリューショナリーズ(Revolutionaries)と親密に活動し、影響力の強い"ロッカーズ"ビートの完成に一役買った。

「彼には素晴らしいテンポがあった...スティッキーはスタジオにいるときはいつも幸せそうだった。彼は最も安定したパーカッショニストの1人だった」スライ・ダンバー

彼はまたヴォーカリストとしていくつかの楽曲をリリースし、ジョー・ギブスの元で'A Matter Of Time'を、レーベル、サヴォイ(Savoy)では'God Knows'、そして自身のレーベル、スティッキー(Sticky)から2つのセルフ・プロデュース作品'Live The Life'と'What Goes Up Must Come Down'を歌った。

「俺は自分のレーベルで'Live The Life'と'What Goes Up Must Come Down'という2曲を歌ったんだ。70年代の半ばには'A Matter Of Time'と'God Knows'をやったな...全然覚えていないがな!のめりこんでやりはしなかったからな。これらの楽曲は売れなかったからな...だがプレイされていたから、みんな聴いたことがあったよ!しかし歌うことは俺の本職じゃない...パーカッションが本職だったんだ!」ユザイア・トンプソン

デジタル・レゲエの到来により、スティッキーが定期的にセッションにいる必要はなくなってしまった。「仕事が減ったんだ。コンピューターが主流になったからな。呼ばれるのは1人か2人だったもんさ」しかし彼は、ジギー・マーリー・アンド・ザ・メロディー・メーカーズ(Ziggy Marley and The Melody Makers)のレコーディングとツアー・メンバーとしてジャマイカ音楽産業で重要な役割を担い続けた。スティッキーは彼らのグラミー賞受賞アルバム、「One Bright Day」と、こちらもグラミー賞を受賞したスティーヴン・マーリー(Stephen Marley)の「Mind Control」に参加した。グウェン・ガスリー(Gwen Guthrie)、グレイス・ジョーンズ(Grace Jones)、シニード・オーコナー(Sinead O'Conner)、トム・トム・クラブ(Tom Tom Club)などレゲエ以外のフィールドでも活動をした。2000年、スティッキーはアメリカに拠点を移し、コンパス・ポイント・オール・スターズ(Compass Point All Stars)の一員として、2012年にグルーヴ・アタック(Groove Attack)からリリースされたスライ&ロビー(Sly & Robbie)の「Blackwood Dub」を含む国際的にクロスオーヴァーしたレコーディングに参加しレコーディングを続けた。

キングストンのサウンドシステムが産声を上げたときから、スカが国際的ブレークを果たしたとき、この音楽がレゲエへとスタイルを変えたとき、レゲエが世界的な評価を勝ち取った70年代と50年以上もジャマイカン・ミュージックの大黒柱であるスティッキー・トンプソンはどのミュージシャンよりもレコードに出演しているだろう。レゲエのサウンドへの彼の驚異的な貢献が見過ごされてしまっているにもかかわらず、彼はこの無関心さを、気品を持って受け入れている...しかし聴いてみて欲しい、彼はいたるところにいる。

「そうさ、タイトルもなければ、クレジットされるわけでもないし何もないのを知っているだろう!でも俺は文句を言わないさ...これが俺なのさ...俺はただクールなんだ。いつかその時がくるさ...」ユザイア・トンプソン

ユザイア・トンプソンは2014年8月25日、フロリダのマイアミの自宅で心臓発作に倒れた。彼には妻のシャロン(Sharon)と5人の子供、1人の兄弟がいた。この哀しき折に、彼の家族と友人に心からお悔やみ申し上げます。

参考文献:
Hasse Huss: Interview with Uzziah Thompson
Bob Marley Museum, Old Hope Road, Kingston, Jamaica 26th October 1996

Howard Campbell: Uzziah 'Sticky' Thompson Dies Jamaica Observer 27th August 2014
Howard Campbell: Life After Sticky Jamaica Observer 31st August 2014
David Katz: People Funny Boy The Genius Of Lee 'Scratch' Perry Payback Press 2000

With grateful thanks to Paul Coote & Hasse Huss
2015/05/29 掲載 (2015/06/03 更新)
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