Gay Feet / High Note(ゲイ・フィート/ハイ・ノート)Text by Harry Hawks
ジャマイカ初の重要女性レコード・プロデューサーがソニア・ポッティンジャー。彼女の夫、リンドンOポッティンジャーは知る人ぞ知るジャマイカ音楽創設の父だった。
Gay Feet / High Note
設立 |
1965年 |
設立地 |
ジャマイカ キングストン |
主要スタジオ |
Treasure Isle |
設立者 |
Sonia Pottinger Lyndon O. Pottinger |
プロデューサー |
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エンジニア |
Byron Smith Errol Brown |
関連アーティスト |
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関連レーベル |
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リンドンOポッティンジャー(Lyndon O. Pottinger)は1961年にレコードのプロデュースを開始、初期ヒット作はWIRLからリリースされたジミー・ジェームス(Jimmy James)の'Come To Me Softly'で、その後は彼自身のゲイディスク(Gaydisc)、ゴールデン・アロー(Golden Arrow)、SEPといったレーベルからリリースを開始した。小さなスタジオをサンダウン・クレセントに建設し、ロード・タナモ(Lord Tanamo)の'Mother's Love'、'You Belong To My Heart'といったヒット曲の録音を始め、ロード・タナモの'Festival Jump Up'はゲイディスクにとって最初のLPリリースとなった。しかし、リンドンはすぐにレコードのプロデュースを止め、1964年にはトレジャー・アイル(Treasure Isle)のデューク・リード(Duke Reid)に録音機材を売却してしまうも、彼はキングストン、オレンジ・ストリートのティップ・トップ・レコード・センター/ディスク・プレッサーズ・リミテッド(Tip Top Record Center/Disc Pressers Limited)でスタンパーのカッティング、レコードのプレス/流通業を営みレコード産業に残り続けた。
「彼はジャマイカで最初にプレス工場を持った男の1人だった。彼はプレス工場、スタンパーを製作できる設備を持っていて、島中にレコードを流通させていたんだ」バニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)
翌年、彼の妻ソニア・ポッティンジャー(Sonia Pottinger)は彼女のレーベルであるゲイ・フィート(Gay Feet)とハイ・ノート(High Note)のためにレコードのプロデュースを開始、ゲイ・フィート初リリースとなったのがジョー・ホワイト(Joe White)&チャック・ジョセフ(Chuck Joseph)の'Every Night'で、ババ・ブルックス(Baba Brooks)と彼のレコーディング・バンドの'1st Session'を裏面に収録したものだった。この楽曲は大ヒットを記録しジャマイカのチャートを数ヶ月独占したほどだった。ソニアはこれまでに制作されたロックステディ楽曲の中でも最もエレガントな至上の楽曲をザ・フュージティブス(Fugitives)やリン・テイト&ザ・ジェッツ(Lynn Taitt & The Jets)のバッキングよってプロデュースしたのだった。カンカラーズ(Conquerors)の'Won't You Come Home'、エチオピアンズ(Ethiopians)の'The Whip'、ゲイラッズ(Gaylads)の'ABC Rock Steady'や'It's Hard To Confess'、メロディアンズ(Melodians)の'A Little Nut Tree'や'Swing And Dine'、さらにはジョニー&ザ・アトラクションズ(Johnny & The Attractions)による卓越した'Let's Get Together'や'Cross My Heart'などがその一例に挙げられる。
ロックステディがレゲエにゆっくりと変わりゆくなか、ティップ・トップの勢いは止むことがなかった。メロディアンズ(Melodians)のメンバーだったブレン・ダウ(Brent Dowe)による'Bulid Me Up'、スコッティー(Scotty)による'Unbelievable Sounds'、デラノ・スチュワート(Delano Stewart)による'Dance With Me'、'Don't Believe Him'、'That's Life'さらにはハイ・ノートで手本とのなるレゲエのリズム大半を演奏したヒッピー・ボーイズ(Hippy Boys)の'Doctor No Go'や'Reggae Pressure'などが発表された。そんな中、バニー'ストライカー'リーといった他のプロデューサーたちは彼らの録音をティップ・トップ・レコード・センターにプレス/流通してもらうために手渡すようになり、バニー'ストライカー'リーを代表する作品であるスリム・スミス(Slim Smith)の'Everybody Needs Love'と'The Time Has Come'もハイ・ノートからリリースされた。
70年代中期に起きたルーツ革命は認められていたレコード・プロデューサーの多くを置き去りにし、彼らは時代遅れでキングストンのストリートで何が起きているかも分かっていないと見られるようになった。しかし、ソニア・ポッティンジャーはためらうことなくおびただしい数にわたる極上のシングルや傑作アルバムを掲げ前線で活躍し続けた。ボブ・アンディ(Bob Andy)の'Slow Down'や欠点のない'Ghetto Stays The Mind'を収録したアルバム'Lots Of Love & I'、カルチャー(Culture)による'Natty Never Get Weary'や'Stop The Fighting'、強烈なアルバム'Harder Than The Rest'、マーシャ・グリフィス(Marcia Griffiths)の'Stepping Out Of Babylon'に'Peaceful Woman'さらには威厳漂うアルバム'Steppin'などがその一例に挙げられるが、その他にもボビー・エリス(Bobby Ellis)をフィーチャーした'Stormy Weather'、'Shank I Sheck'がリリースされ、これらハイ・ノートを象徴する2つのインスト楽曲は70年代の幕締めとともにダンスホールのアンセムになった。
1974年、デューク・リードが癌で早すぎる死を迎えると、ソニア・ポッティンジャーはトレジャー・アイルを引き継いだ。最初の狙いはトレジャー・アイルのスタジオを再建築することだったがその代わりに彼女はデューク・リードの音楽の多くを再発し始めたのだった。ジャスティン・ハインズ&ザ・ドミノズ(Justin Hinds & The Dominoes)による'From Jamaica With Reggae'、'Hottest Hits Volumes One'、'Hottest Hits Volumes Two'といったコンピレーション・アルバム、ロックステディの傑作ヴォーカルを程よくディージェイとミックスし、ダブのテクニックを駆使した12インチ盤ディスコ・ミックスのセレクションが見られるようになった。そのセレクションにはアルトン・エリス(Alton Ellis)の'If I Could Rule The World'や'I Can't Stand it'、センセーションズ(Sensations)のきらびやかな'Baby Love'などが挙げられる。もちろん、アルトン・エリスとUロイ(U Roy)による'Ain't That Loving You'、シルバートーンズ(Slivertones)による'True Confession'といった7インチのシングル一連はトレジャー・アイル、ボンド・ストリートの音を現存させ続けた。
80年代中期、音楽業界から身を引いたソニア・ポッティンジャーは2004年10月、ジャマイカ音楽、芸術、文化への貢献が讃えられジャマイカ政府よりOD(Order of Distinction)が授与されている。2010年11月3日、セント・アンドリューの自宅で死去、享年79歳、生前アルツハイマー病を患っていた。
2017/11/15 掲載