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トップ特集・オリジナルコンテンツレーベル名鑑Fe Me Time
レーベル特集
Fe Me Time (フィ・ミ・タイム)Text by Harry Hawks
ジミー・ラドウェイのレーベル、フィ・ミ・タイムとカプリコーン・ライジングは決して多産だったとは言えないが彼によってプロデュースされたすべてのリリース作品は認められし傑作である。
Fe Me Time
設立 1972年
設立地 ジャマイカ キングストン 
主要スタジオ
Dynamic
設立者
Jimmy Radway
プロデューサー
エンジニア
Errol Tompson
関連アーティスト
関連レーベル
「俺はラジオのディスク・ジョッキーが'Lee Perry Time(リー・ペリーの時間だ)'、'Bunny Lee Time(バニー・リーの時間だ)'とか言うことからこのアイディアを思い付いたんだ。まだ君の"時"じゃないといつも言われていたからね...」

アイヴァン・ロイド・ラドウェイ(Ivan Lloyd Radway)は1947年1月5日生まれ、「本名はアイヴァン・ロイド・ラドウェイだけど学校に通っていたときはミドルネームを使っていたんだ。パスポートを入手しようとしていたときにあるアメリカの家族がロイドはバッドボーイの名前だと教えてくれた」そして彼はジミーとして知られるようになった。キングストンのジョーンズ・タウン地区で育った彼は幼少期から地元の救世軍の教会で歌を歌っていた。1957年9月のとある日曜日に催された学校の課外授業でモンティゴ・ベイ行っていたジミー・ラドウェイ(Jimmy Radway)はケンダルで起きた悲惨な列車事故に巻き込まれ怪我を負った。帰路、キングストン行きの列車には1600人近くが乗車していた。マンチェスターのケンダルの近くを最速で走っていた列車はレールから外れ、絶壁から転落。この事故で250人以上が死亡、700以上が怪我を負った。幸運にもジミー・ラドウェイは生き残ったが、このジャマイカの歴史で最もひどい列車事故で彼は片脚を失った。

それにくじけることなくジミー・ラドウェイは学校に通い、休みには家具職人として見習いを始める。1962年にクレメント'コクソン'ドッド(CS Dodd)はナイトクラブ、ジ・エンド(The End)を購入すると、この場所をスタジオ・ワン(Studio One)として知られるジャマイカン・レコーディング・アンド・パブリッシング・スタジオへと生みかえた。友人と内装の改築を手伝っていたジミー・ラドウェイは「ミスター・ドッドはスカタライツ(Skatalites)がリハーサル中、私をスタジオに座らせてくれるほど優しかったんだ。彼らはスタジオを確認していた...」と回想する。ドン・ドラモンド(Don Drummond)がトロンボーンを吹くのも目の当たりにしたことがジミー・ラドウェイにとって「家具・内装業を続けて、音楽と関わろう」という決心させる力になった。自身の障害を理由にステージでパフォーマンスできないと感じていた彼は人たちのために歌ってもらう歌を書き始めた。その年しばらくして彼は有名なジャマイカ芸術学校に入学、ゲットー出身のジミー・ラドウェイのような者にとってそれは大きな一歩で、彼は人生で初めてジャマイカ社会すべての階級の人々と混ざり接した。授業の間には学校の裏にあるアーモンドの木の下に才気のある学生と集まり詩や歌を書いた。また、キングストンのゲットー・ヤードでアルトン・エリス(Alton Ellis)やケン・ブース(Ken Boothe)といった野心に燃える歌手たちの練習に参加した。

1968年、彼が初めてレコード制作に投資したのはプリンス・バスター(Prince Buster)と活動を行っていた)トニー・マッキンリー(Tony McKinley)とタッグを組んで制作したテディ・チャーマーズ(Teddy Charmers)の'I want It Girl'だった。トニー・マッキンリーはイギリス・リリースのためにレーベルのブルー・キャット(Blue Cat)へライセンスしたのだがジミー・ラドウェイがその事実を知ったのはロンドンにテープのコピーを送ってからのことだった。テープはコピー作成の領収書と返却され、「コピー完了しましたが、レコードはすでに販売されています!」と明記されていた。これにめげずジミー・ラドウェイは活動を続け、1972年ジミー・ラドウェイの住んだデンハム・タウン・ストリートを拠点に会社を運営するCロイド・ジェントルス(C Lloyd Gentles)の助けを借りレコード・レーベルを設立。コミュニティーのウェリントン・ユナイテッド・ユース・クラブ(Wellington United Youth Club)の設立に貢献した博愛主義のミスター・ジェントルスはジミー・ラドウェイにフィ・ミ・タイム(Fe Me Time)の活動をスタートさせるために100ポンドを手渡した。「当時、もし100ポンドもらったとしたら、本当に多額の金だった」

フィ・ミ・タイムのデビュー・リリースはダイナミック・スタジオ(Dynamic)でエロール・ダンクリー(Errol Dunkley)によって歌われた'Black Cinderella'だった。これはジミー・ラドウェイがチボリ・ガーデンの若い女の子について歌った歌で、「歌の書いてあるメモ帳の最初に戻ったんだ」とこの曲は彼が初心に帰って制作したものだった。ジャマイカのRJRとJBC、2つのラジオ局で1位を獲得。「信じてくれ!わいろは一銭も払ってない...」そうして'ジミー・ラドウェイの時'が来るかのよう見えた。

'Black Cinderella'のリリースに2つの他ヴァージョンが続き、シーンで最も需要のあるアーティストたちがフィーチャーされた;ビッグ・ユース(Big Youth)の'The Best Big Youth'とオーガスタス・パブロ(Augustus Pablo)の'Cinderella'。ジミー・ラドウェイはホーテンス・エリス(Hortense Ellis)とダイナミックに戻り'Hell & Sorrow'を制作、このリズムで再びディージェイのビッグ・ユースが'Tribulation'を録音した。ジミー・ラドウェイは自身の背景であるゲットーでの経験と芸術学校で養った知識をプロデューサー/編曲者/作曲家という役割の中で組み合わせていった。「キーボードを少し演奏したんだ、作曲に使っていた...音楽について多くを教えてくれたトミー・マクック(Tommy McCook)が大好きだった。彼は自分の道を持っていたんだ。彼は尊敬しないといけない」と彼はトミー・マクックをセドリック・ブルックス(Cedric Im Brooks)同様に'The Great'と呼ぶ。「トミーはホーン演奏の多くを担い、音楽について多くを示してくれた。俺はジャズをたくさん聴いていたよ」

ジミー・ラドウェイの能力に好印象を持ったダイナミックは流通契約を結び、多くの作品がダイナミックの運営する参加レーベル、ジャガー(Jaguar)とライオン(Lion)からリリースされた。その後ノース・パレード17番地のランディーズ・スタジオで制作を開始、ある日彼がノース・パレードに座っているとリロイ・スマート(Leroy Smart)が曲を書いてくれと頼んできた。「親父さん...俺のために今曲を書いてください!」彼らにとってフィ・ミ・タイムの最初のレコーディングとなったのが'Mother Liza'、彼らはこの曲に続き'Mr. Smart'さらには'Mirror Mirror'の録音をした。これらの録音は一線を行くレゲエ歌手の中でリロイ・スマートの存在を確立する手助けになった。

1975年、ジミー・ラドウェイはマイクロン・レコーズ(Micron Records)へと移りピート・ウェストン(Pete Weston)と制作を続ける中、自身のレーベル、カプリコーン・ライジング(Capricorn Rising)を立ち上げた。「俺自身がカプリコーン(ヤギ座)だから名前が気に入った」と彼は回想する。このレーベルからの最初のリリースにはリロイ・スマートの'Mr. Smart'を新たにアレンジした'Happiness is My Desire'、デスモンド・ヤング(Desmond Youngの預言的な'Warning'などが挙げられる。ジミー・ラドウェイはデスモンド・ヤングを農業指導者として知っていたが、ある晩シェラトン・ホテルのショーでカリブス・バンド(Caribs Band)を率いてパフォーマンスしているのに驚き、感動した彼は'Warning'を録音するためにバンドメンバー全員をランディーズ(Randys)に招いた。歌はデスモンド・ヤング(Desmond Young)が書き、アレンジはジミー・ラドウェイが行い、ホーンのメロディはボビー・エリス(Bobby Ellis)、ヴィン・ゴードン(Vin Gordon)、リチャード・ホール(Richard Hall)によって埋められ、リズムはビッグ・ユースにとって傑作の一つとなった'Wolf In Sheep's Clothing'に使われた。そうして、'Warning'はジミー・ラドウェイにとって最大のヒット・レコードとなった。

当時ダブは未熟だったがピート・ウェストンはフィ・ミ・タイムとカプリコーン・ライジングのリズムをリミックスする重要性を見抜き、ダブアルバムをコンパイルするためこれまでに制作された最も重厚なルーツ・リズムの数々からなり、現在高い評価を得る決定的なカタログを保有するジミー・ラドウェイを説得したのだった。「'Dub I'はジョー・ギブス(Joe Gibbs)のエロールT(Errol Thompson)によってミックスされた...すべて1日でミックスされた。俺は期待していなかった。やった理由とすればピート・ウェストンがやるように説得していたから。ピートは素晴らしいビジネスマンでいつも先を見ていた。残念ながらマイクロンは数百枚をプレスしてすぐに閉業してしまったんだ。だからこのレコードに関して大きな期待は何も持っていなかった」この傑作ダブアルバムは「これまでにリリースされたダブアルバムの中で最もヘヴィーなアルバムの一つ」だと言われていて、長い年月を経て2008年プレッシャー・サウンズ(Pressure Sounds)から公式に再発盤としてリリースされている。

フィ・ミ・タイムは数えるほどの大々的なヒット曲を獲得するも、ジミー・ラドウェイは生き残るために必要となる十分は金を稼ぐことはできなかったようだ。音楽業界によって徹底的に幻滅させられた彼は引退を決意し静かな田舎へと移り住んだのだった(現在も彼はここに住む)。一時的に彼のレコードは著名人よりも売れたが報酬不足と音楽業界における裏表(不誠実性)は最終的に彼の独創性を証明する結果となった。

多くの有名レコード"プロデューサー"たちはレコード制作のためにスタジオに入ることはなかった。彼らは編曲/作曲/制作技術を知らず、楽譜を読むことすらできなかった。しかし、ジミー・ラドウェイは本物のプロデューサーとしてすべての制作過程に携わり、レコード制作のために無数の難題を乗り越え、初めから最後まで情熱を持ち続けた。彼の遺産はルーツ・ミュージックの良さと真実をすべて積み重ねたレゲエの傑作集である。
2011/03/02 掲載 (2014/04/15 更新)
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