ソニア・ポッティンジャー(Sonia Pottinger)のゲイ・フィート(Gay Feet)やケン・クーリ(Ken Khouri)のケントーン(Kentone)、バイロン・リー(Byron Lee)とロニー・ナズララ(Ronnie Nasralla)のガラ(Gala)といったレーベルのために録音を行なっていたテクニクスは1965年、ストレンジャー・コール(Stranger Cole)によってボンド・ストリートのデューク・リード(Duke Reid)に紹介されることになる。最初の大ヒットになったのがデュークのトレジャー・アイル(Treasure Isle)からリリースされスリム・スミスをリード・ヴォーカルに起用したスカの録音'Little Did You Know'だったが、スカからロックステディへの過渡期にあり、「ロックステディが重要な(成功への)鍵だった」。その後テクニクスはグループとして機能するようになり、成熟したヴォーカリストたちがリード・ヴォーカルとハーモニーのパートをかわるがわるに担当し、彼らは1967年までトレジャー・アイルでヒット曲を次々に放ったがスリム・スミスとフランクリン・ウェイトはグループを脱退しロイ・シャーリー(Roy Shirley)とユニークス(Uniques)を結成した。そんな彼らがバニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)のために'Let Me Go Girl'を録音しているが「あれは1967年で一番ヤバい曲だ!」とバニー・リーは当時のことを語っている。ロイ・シャーリーとスリム・スミスはソロ・キャリアを追及することになるのだが、しばらくしてユニークスはスリム、ロイド'チャーマーズ'タイレル(Lloyd Charmers Tyrell)、ジミー・ライリーによって再び結成された。
「ウェイラーズ(The Wailers)が最も人気のあるグループになるまではスリム・スミス・アンド・テクニクスだった」クレメント'コクソン'ドッド(CS Dodd)、ティモシー・ホワイト(Timothy White)著'Catch A Fire'より。
キメ細やかでソウルフルなファルセットで知られ、天性の才能を授かったシンガーのパット・ケリーはテクニクスに引き込まれ、グループはパットをリード・ヴォーカルに起用することでトレジャー・アイルで傑作と呼ぶに等しいヒット曲を制作し続けた。さらにブルース・ラフィンもシンガー・ソングライターとしてテクニクスに携わるようになりスリム・スミスが去った大きなギャップを埋めた。彼らがインプレッションズの'You'll ant Me Back'をカバーした'You Don’t Care'は大ヒット、続いて同じくインプレッションズの''Minstrel & Queen'をカバーした'Queen Majesty'でも彼らはカーティス・メイフィールドの楽譜を再度学びそのキャリアを成長させていった。この2曲は結果として彼らにジャマイカでの伝説的なステータスをもたらした。そしてパットはその後ユニークスとの活動を経てから、バニー'ストライカー'リーのもとで録音した'How Long Will It Take'でキャリアを躍進、ソロとしてキャリアを成功させた。
「ちょっとやらせてくれないか...と俺が彼らに説明するとみんなは拒否した」と語ったとウィンストンは1968年自身のレーベルを設立するために異例の手段を取った。彼は母親に金を借り、兄弟のバスター(Buster)とレーベル、テクニクスを設立、ウィンストンはとても重要な役割を担うようになり、当時のグループでプロデューサーとアレンジャーを務めた。歌うことも続け、タイロン・エヴァンス(Tyrone Evans)の在籍したシェイズ(Shades)やセンセーションズ(Sensation)など違うシンガーを使ったグループをウィンストンのレーベルであるテクニクスからリリースされた最初の曲はジョニー・オズボーン(Johnny Osbourne)による'Come Back Darling'とテクニクスによる'Who You Gonna Run To'で、両曲ともメジャーヒットを記録してからというものウィンストン・ライリーが過去を振り返ることはなかった。
ウィンストン・ライリーはキングストンのノース・パレードから入ったチャンセリー・レーンにテクニクス・レコード・ショップ(Techniques Record Shop)を1972年オープン、ジャマイカ音楽界で次々と成功を収めるスタイルと流行曲によってウィンストンは最前線に立つようになり、彼の比べることのできない音楽的な実験はいつもビジネスにおける妥協のない彼の洞察力を伴っていた。70年代初期に、テクニクスのようなソウルフルなハーモニー・グループが当時占めていたドレッド、ディージェイ、ダブといった要素からかけ離れていると理解した彼は当時のルーツ録音で最も鋭い楽曲を書いた。それらにジョニー・オズボーンの'Purify Your Heart'、インターンズ(Interns)の'Nothing Is Impossible'、ビッグ・ユース(Big Youth)の'All Nations Bow'テクニクスに在籍したマーヴィン・ブルックス(Morvin Brooks)による重苦しく呼びかけた'Cheer Up Black Man'などが挙げられる。また、ウィンストンは最もヘヴィーなダブ・アルバムの1つとされる「Meditation Dub」とさらに不滅で幾度となくヴァージョン化されてきた"Stalag 18"リズムを制作した。
80年代に入るとダンルホール・スタイルが取って変わり、ウィンストンもその激動の中心いた。彼の制作したジェネラル・エコー(General Echo)のLP盤「Slackest LP」は現在ダンスホール・ミュージック発展の後押しとなったと考えられ、重要な録音として認識されている。テナー・ソウ(Tenor Saw)が"Stalag"リズムを使った'Ring The Alarm'は大々的なヒットになり1985年に初めてリリースされてからというもの売上げが止まったことはない。フランキー・ポール(Frankie Paul)の初期作を手がけたのもウィンストンで'Wanna Say I Love You'や'You Are So Good To Me'を発表。また、80年代で最も面白ろ可笑しく印象的な作品の1つとも言えるスーパーキャット(Super Cat)の'Boops'を手がけたのもウィンストンだ。コンピューターがリズムを構築するようになるとデジタル・ダンスホールというジャンルを築いた1人であるワイクリフィ'スティーリー'ジョンソン(Wycliffe 'Steely' Johnson)との活動をいち早くスタートさせた。