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トップ特集・オリジナルコンテンツレーベル名鑑Volcano
レーベル特集
Volcano(ヴォルケーノ)Text by Harry Hawks
ジュンジョのレーベル、ヴォルケーノとハイ・パワー・サウンドシステムは「威勢のいいアルビノのアーティスト、イエローマンとティーンエイジャーのシンガー、バーリントン・リーヴィを含むオールスター・キャスト」で80年代早期のジャマイカの音楽シーンを支配した。
Volcano
設立地 ジャマイカ キングストン 
主要スタジオ
Channel One
設立者
Henry 'Junjo' Lawes
プロデューサー
エンジニア
Scientist
Lloyd James
関連レーベル
1960年に生まれ西キングストンのオリンピック・ウェイで育てられたヘンリー'ジュンジョ'ロウズ(Henry ‘Junjo’ Lawes)がグルーヴィン・ロックス(Grooving Locks)トリオのシンガーとして音楽ビジネスに足を踏み入れたのは1978年、そしてその時期彼は「音楽ビジネスの流れ」を彼に説いたシンガー/プロデューサーであるリンヴァル・トンプソン(Linval Thompson)に出会った。リンヴァルのこの早期の回想はジュンジョが早期ダンスホール期における最も重要なレコード・プロデューサーへ登りつめるまでの簡単な概要になっている。

「それから私はジュンジョ・ロウズに会った...それはバーリントン・リーヴィ(Barrington Levy)が業界に足を踏み入れる前のことだった。1978年...いや79年、私はジュンジョにトラックをいくつかあげ始め、それから彼はバーリントン・リーヴィに出会ったのだ。それから彼はバーリントンのヴォイシングをはじめ、ジャマイカ全土をマッシュアップし始めた...そしてイギリスに訪れ、グリーンスリーブス(Greensleeves)へとつながったわけだ」

1979年ジュンジョはバーリントン・リーヴィをチャンネル・ワン(Channel One)スタジオへ連れて行き、その後の数年間、70年代のルーツを基礎としたレゲエとその後に続いたコンピューターにより作られた音楽のギャップを上手くつなぎ合わせたレコード制作の長い航海に乗り出した。ジャマイカではヴォルケーノ(Volcano)、イギリスではグリーンスリーブスから、人気があると同時に影響力の強い彼のリリースは当時始まろうとしていたダンスホールの典型的なスタイルとなり、彼は他の誰も真似すら出来ないほど急速に大量のヒット・レコードを手にしていった。

グリーンスリーブス・レコーズは1975年に彼らのショップ第1号店を西キングストンのアーリングにオープンしたが、1977年にはショップが繁盛したシェパーズ・ブッシュのより大きな家屋へと移動し、自身のレーベルを始めた。このグリーンスリーブスはまずジュンジョとの関係を築き、ジュンジョの下でバーリントン・リーヴィが行ったレコーディングのリリースを行い、これは直ちに互いに有益な商売における関係へと発展しジュンジョの作品を国際的に広める重大な役割を果たした。またジュンジョの第1級プロデューサーとしてのステータスはキングストン、ロンドン、世界中へと認知されていった。

「グリーンスリーブスが俺に関心を持ち、俺たちは共にビジネスの中で成長していったんだ。俺たちの間にどんなことが起きてもそれを愛と取っていた...」ヘンリー'ジュンジョ'ロウズ

ジュンジョは"ダンスホール"スタイルのリズムを生み出したとされる、モーウェルズ(Mowells)のリズム・ギターを担当していたエリック'ビンギー・バニー'レイモント(Eric 'Bingy Bunny' Lamont)とベース・ギターを担当していたエリック'フラバ'ホルト(Eric 'Flabba' Holt)により結成されたルーツ・ラディックス(Roots Radics)と親密に活動をしていた。彼らはジャマイカの軍隊にいた頃にドラムの叩き方を覚えたリンカーン'スタイル'スコット(Lincoln 'Style' Scott)をドラムに、ワイクリフィー'スティーリー'ジョンソン(Wycliffe 'Steely' Johnson)をキーボードに迎え入れた。またノエル'ソウェル'ベイリー(Noel 'Sowell' Bailey)とドワイト・ピックニー(Dwight Pickney)をギターに、キーボードの王者と称されるヴェテランのグラッドストーン・アンダーソン(Gladstone Anderson)を加えこの時代最高のセッション・バンドは完成した。ルーツ・ラディックスとマックスフィールド・アヴェニューでリズムを完成させた後、ジュンジョはキング・タビー(King Tubby)のドロミリー・アヴェニューのスタジオへ行きヴォイシングとミックスをしていた。ジュンジョは当初ミキシングにプリンス・ジャミー(Lloyd James)を雇っていたが、彼は少し前からタビーのテレビ・セットとアンプの修理を始め、彼のコントロール・パネルのスキルから直ちに"サイエンティスト(Scientist)"という異名を得たタビーの雇われエンジニアだったオヴァートン・ブラウン(Overton Browne)と活動を始めた。

成功ほど続いて起こるものはなく、レコーディング経験のない多くの新人から業界のヴェテランまでジュンジョのコネを通じて定期的にグリーンスリーブス・レーベルに姿を見せていた。イギリスで特定のアーティストが必要とされているときには電話を一本入れる、ジュンジョがそのアーティストをスタジオに連れてくるために必要なことはそれだけだった。グリーンスリーブスには市場から得た小売の経験を理解し、この知識をサウンド・ビジネス眼へと転換させる能力があった。彼らは客たちが何を求めているのかを知っていて、それをジュンジョのキングストンのコネを使って持ち込むことができ、それによりイギリスで一流のレコード・レーベルへと成長した。

ヴォルケーノ(とグリーンスリーブス)のヒット・メーカーのリストは80年代ジャマイカ音楽の名刺録のようなものだった。ジュンジョはイーク・ア・マウス(Eek A Mouse)、バーリントン・リーヴィ、フランキー・ポール(Frankie Paul)、イエローマン(Yellowman)の早期のキャリアにおいて重要な役割を果たしただけでなく、ジョン・ホルト(John Holt)、ジョニー・オズボーン(Johnny Osbourne)、リロイ・スマート(Leroy Smart)、トニー・タフ(Tony Tuff)やウェイリング・ソウルズ(Wailing Souls)ら往年のスターたちの人気を持続させるのにも一役買った。マイケル・プロフェット(Michael Prophet)やココ・ティー(Cocoa Tea)とのレコードはこの尊重を受けているヴォーカリストたちに全く新しいオーディエンスを獲得させ、ビリー・ボヨ(Billy Boyo)やリトル・ジョン(Little John)などダンスホールの若いスターたちに才能を発揮させる機会を提供した。ジャマイカ人ディージェイの2人組み、ミシガン&スマイリー(Michigan,Smiley)は"最も危ない病気"と延々と暗唱した'Deases'で彼ら1番のヒット曲をジュンジョのために録音した。イギリスの2人組みのディージェイ、クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)&ジェネラル・セイント(General Saint)の彼らが飛躍するきっかけとなったロンドンでヴォイシングされたヒット曲の一連の背景にはジュンジョがキングストンで制作したリズムがあった。ジュンジョはイエローマン、ファット・ヘッド(Fathead)、リトル・ジョン、ウェルトン・アイリー(Welton Irie)、ビリー・ボヨをフィーチャーし1982年10月にエーシズ・インターナショナル(Aces International)サウンドシステムを使用し録音された自身のライヴ・アルバム「A Live Session With Aces International」はクリスマスの時期に1番売れたLPだった。

しかしジュンジョは自身のスタジオを所有することは無かったがキングストン11、スパニッシュ・タウン・ロードはずれのマイリー・アヴェニューの家屋でスタジオを運営し、上記で触れたライヴ・アルバムの成功をもとに彼は1983年に自身のヴォルケーノ・ハイ・パワー(Volcano Hi-Power)サウンドシステムをスタートさせた。

「ヴォルケーノ・ハイ・パワーは一つのプロモーションの形だ。なぜなら今週10曲リリースしたとしても10曲全部ラジオでは流すことは無理なのだ。自分のプログラムでさえも7曲流すので限界だ。だからこのサウンドがプロモーションの手助けとなるわけだ。我々は1週間のうちの4夜もプレイするのだからな...」ヘンリー'ジュンジョ'ロウズ

大成功を収めたサウンドシステムの登場と共にジュンジョの偏在性は今レゲエ・シーンの完全支配へと変わった。ヴォルケーノ・ハイ・パワーのディージェイ、チャーリー・チャップリン(Charlie Chaplin)、キャプテン・シンバッド(Captain Sinbad)、ランキン・トーヤン(Ranking Toyan)、そして無類のディージェイ、ジョジー・ウェールズ(Josey Wales)はマイクでライヴ・アンド・ダイレクトだけでなくレコードに置いても支配し、ジュンジョは彼が抱えるシンガーたちでもチャートのトップを取り続けた。ジュンジョは彼のアーティスト達との素晴らしい仕事上の関係を満喫していた。彼が彼らの努力と厳しい試練を理解していたのは彼の出身が、彼がいつも忠実であり続けた、彼が抱えていた大半のパフォーマーたちだけがこの上なく知っていたタフなゲットーがバックグラウンドにあったからだ。シンバッドは後年ジュンジョがいつも叙情的なインスピレーションと金銭的な報酬を自身のヴォルケーノのアーティスト達に快く与えていたかということを回想した。

「ジュンジョは俺の兄弟だった。彼は業界に溢れるほどのアイデアと共に現れた...とてもクリエイティブな人間だった。ヴァイブスを持ったこの男はトピックをくれ、そしてそれでおしまいだ。仕事をするには最適だった...彼は金の存在を気付かせてくれたジャマイカにおける最初のプロデューサーの1人だった」キャプテン・シンバッド

しかしゲットーの生々しい現実との危険な近接は次第にジュンジョに迫り、彼は1985年にアメリカで刑務所に入ってしまった。1990年に釈放された彼はココ・ティー、ジョジー・ウェールズやイエローマンと共に活動をはじめ、自身プロダクション・キャリアを立て直すことに成功したが1999年6月13日、北西ロンドンのハールスデンで殺害されてしまった。この事件は未解決のままになっている。ハワード・キャンベル(Howard Campbell)はジャマイカ・オブザーヴァー紙に最近こう執筆している。

「レゲエ界で最も素晴らしいプロデューサーだれかというのは昔から論じられてきた事柄だ。普通その中で注目される人物はクレメント・ドッド(CS Dodd)、リー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)、アーサー'デューク'リード(Duke Reid)らだ。しかし話がスタイルのことになるとだ、ヘンリー'ジュンジョ'ロウズと肩を並べられるプロデューサーはいない...」

「悲惨なことに、ロウズのライフスタイルは自身を破滅させることになってしまった。彼はアメリカで刑務所に入り、1999年にはロンドンで、暗黒街のやり方で殺されてしまった。ロウズは華々しかったことで人々心の中に残るだろう。彼のカスタムメイドのスーツ、フェルトの帽子、派手な車はダンスホール・ミュージックの大部分に今でも残るファッションの流行の傾向を打ち立てたのだ」ハワード・キャンベル

上記以外にもジュンジョ・ロウズは彼が作った音楽でも記憶に残り、ヴォルケーノのベスト作品を集めたコンピレーションも数え切れないほど発売されている。レゲエ・ミュージックに書かれた最も素晴らしい書籍の1つTero KaskiとPekka Vuorienの"Reggae Inna Dance Hall Style"はヴォルケーノ現象に焦点を当て、嵐の目となった1983年のキングストンで書かれた。この書籍は最近惜しみなく最新化され"Volcano Revisited"というタイトルで再度発売された。この書籍は一般的なダンスホール・ミュージックまたと特にヴォルケーノを理解するうえで必須であり、ヘンリー'ジュンジョ'ロウズの人生と作品を整然と記録している。

参考文献:
Steve Barrow & Peter Dalton: Reggae The Rough Guide Rough Guides Ltd. 1997
Howard Campbell: Unsung: The Law According To Junjo Jamaica Observer 2nd November 2012

Essential Further Reading:
Tero Kaski and Pekka Vuorinen: Volcano Revisited. Kingston Dance Hall Scene 1983 Eronen 2011

2013/02/14 掲載 (2013/10/18 更新)
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