Dread At The Controls (ドレッド・アット・ザ・コントロールズ)Text by Dub Store Sound Inc.
パンクスにも多大な影響を与えた伝説のレーベル
Dread At The Controls
設立 |
1978年 |
設立地 |
ジャマイカ |
設立者 |
Mikey Dread |
プロデューサー |
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エンジニア |
King Tubby |
関連アーティスト |
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シンガー、プロデューサー、ブロードキャスターとして活躍したマイキー・ドレッド(Mikey Dread)によって設立、運営されたレーベル。ドレッド・アット・ザ・コントロールズ(Dread At The Controls)はマイキー・ドレッド(Mikey Dread)が担当していたラジオ番組からスタートし、レゲエ・リスナーのみならず幅広い層に支持を得た。
プロデューサーのマイキー・ドレッドことマイケル・ジョージ・キャンベル(Michael Campbell)は1954年にポート・アントニオで生まれ、1976年に学校を卒業すると送信機のエンジニアとしてJBCラジオ局で働き始める。当時レゲエだけを放送する番組が無かったことに不満を感じ、局を説得し番組を担当するようになった。
彼が担当したドレッド・アット・ザ・コントロールズはその時間帯も斬新で、これまで夜の12時に放送が終了していた局内でその後4時間半に渡って放送、出来立てのアナログ盤やスペシャルを使った彼のセレクションはたちまち素晴らしい評判を築きあげ、特徴的なサウンド・エフェクトとマイキー・ドレッドのマニアックな発言が人気の要因となった。
2年後にはゴールデン・タイムでの放送をJBCに提案。しかし保守的だったJBCはこの提案に賛同せず、彼はJBCを離れレコード製作に時間を費やす様になっていった。JBCを離れる時点ですでにシンガー、プロデューサーとして評価されていた彼はすぐに活動を本格化し、リー・ペリー(Lee Perry)の元で製作した'Homeguard'やソニア・ポッティンジャー(Sonia Pottinger)との'Rootsman Revival'といったヒット作を生み出していった。
トレジャー・アイル(Treasure Isle)のスタジオでエンジニアの手ほどきを受けた後、カールトン・パターソン(Carlton Patterson)やキング・タビー(King Tubby)とのパイプを築いた彼はレーベル、ブラック・アンド・ホワイト(Black & White)から'Barber Saloon'をリリースした。
1979年には自身のレーベル、ドレッド・アット・ザ・コントロールズを正式にスタートし、アール・シックスティーン(Earl Sixteen)やロッド・テイラー(Rod Taylor)、エディ・フィッツロイ(Edi Fitzroy)、シュガー・マイノット(Sugar Minott)といったアーティストのプロデュースを行い、自身の'Love The Dread'や'African Map'、'Proper Education'といった楽曲を発表していった。これらの作品のBサイドには本人とキング・タビーによるダブ・ミックスが収録され、こちらも同様に大きな注目を集めた。アルバム'Dread At The Controls'や'African Anthem'ではラジオで使われていたエフェクトが多用され、独特な世界観を演出している。
またイギリスのパンク・バンド、ジョー・ストラマー(Joe Strummer)率いるクラッシュ(Clash)と活動を行ったり、ガンズ・アンド・ローゼス(Guns 'N' Roses)のギタリスト、イギー・ストラッドリン(Izzy Stradlin)とも楽曲製作を行うなど他ジャンルとのコラボも積極的に行った。
1982年にはChannel4が制作した番組「Deep Roots」のナレーションを担当。その翌年には「The Rockers Road Show」を受け持つなど幅広い活動を展開。自身の番組を通してアレサ&ドナ(Aletha & Donna)の'Uptown Top Ranking'、グレゴリー・アイザックス(Gregory Isaacs)の'Soon Forward'といった楽曲をプレイし、ヒットさせたことも有名である。
彼は2007年に脳腫瘍と判断され、6ヶ月後の2008年3月15日、54歳でこの世を去ったがジャマイカの放送局に計り知れない影響を与えた功績は今尚高く評価されている。
2009/10/27 掲載 (2014/04/16 更新)