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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Alton Ellis
アーティスト特集
Alton Ellis(アルトン・エリス)Text by Harry Hawks
アルトン・エリスは間違いなくジャマイカ最高のソウルフル・シンガーであり、彼の独特の歌い方と作曲を通してジャマイカ音楽の発展に与えた影響は重要なものだ。
Alton Ellis
本名 Alton Nehemiah Ellis
出生 1938年9月1日
死没 2008年10月10日
出身地 ジャマイカ キングストン 
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1938年9月1日に西キングストンに生まれたミスター・ソウル・オブ・ジャマイカことアルトン・ネヒミア・エリス(Alton Nehemiah Ellis)はジャマイカ音楽であふれんばかりの情緒、横溢、愛など最も表現力に富んだ歌声の持ち主だけでなく、レゲエの歴史で最も素晴らしく記憶に残る曲を何曲も書いた。何よりも自分は人々が抱える諸問題の代弁者だと考えたがアルトンによる自己過小評価は他の成功した有名なパフォーマーよりもレゲエの骨組みを作り出した人物の典型だった。

アルトンは音楽家族の出身で彼の妹ホーテンス(Hortense Ellis)はヴェレ・ジョンズ・オポテュニティ・アワー(Vere Johns Opportunity Hour)において6度の準決勝と4度の決勝に進んだことがある。またアルトンはヴェレ・ジョンズの伝説的なタレント・コンテストで優勝した事あるがそれは歌唱力よりも優れたダンスの方が勝因となった。

「ダンスで2回ほどコンテストに優勝したが、それから歌に方向を変えた...当時、たくさんのハーモニー歌手たちは2人組だった。例えば、ヒッグス・アンド・ウィルソン(Higgs & Wilson)、ブルース・バスターズ(Blues Busters)、チャーマーズ(Charmers)、クラレンドニアンズ(Clarendonians)、そしてメロディアンズ(Melodians)などがいたな」

60年代初頭にアルトンはエディ・パーキンス(Eddy Parkins)とコンビを組んだ。胸を引き裂くようなバラード'Murial'を作詞した2人はクレメント'コクソン'ドッド(CS Dodd)のもとに持って行き、それを録音したドッドは自身のレーベル'Worldisc'からリリースした。その曲で大ヒットを飛ばした彼らは'My Heaven'を続けざまに発表。また彼らは似たような涙を誘うスタイルで'Let Me Dream'、'Love Divine'をランディーズ(Randys)のヴィンセント・チン(Vincent 'Randy' Chin)のためにレコーディングした。その時期キングストンで生まれようとしていた音楽シーンが長続きしようとは誰も思ってはおらず、一人前になった歌手たちは彼らの愛する音楽を共有し、地元の有名人以上になることは望んでいなかった。

「ゲットー出身の若者で、ラジオやテレビ、そしてクリスマスの朝の大きなコンサート出るということは本当に有名になるということだったんだ」

エディ・パーキンスはソロ活動のためにコンビを解消し、アルトンはドッドの一番のライバルであるデューク・リード(Duke Reid)のトレジャー・アイル(Treasure Isle)でアルトン・アンド・ザ・フレームス(Alton & The Flames)のリード・ヴォーカルとして活動を始めた。1966年、ロックステディが主流になってくるとアルトンはこの新しい音楽の中で文句なしのリーダーになり、トレジャー・アイルはトップのスタジオとレーベルの地位を確立した。ロックステディはシンガー主体となり、ザ・インプレッションズ(The Impressions)などアメリカのハーモニー・グループの影響を受け、ジャマイカ流のユニークなスタイルで自分たちを表現する機会を与えた。7インチでリリースされた'Rock Steady'はこの新しいスタイルの音楽を描写した最初のレコードの一つで、デューク・リードのもとで録音した長期に渡り聴き続けられている「Mr. Soul Of Jamaica」は専門家たちに決定的なロックステディのアルバムとしてふさわしい評価を受けている。

彼はジャマイカで現地の社会問題を映し出した歌を歌った最初のシンガーの一人であり、他がルード・ボーイたちの法律を無視した態度にどっちつかずの感情を抱いているとき、アルトンは問題の最前線に自身を置き、'The Preacher'、'Blessing Of Love'などのレコードを続けて発表し彼らの反社会的態度をとがめた。'Dance Crasher'で彼はルード・ボーイたちに人生の中で何か役に立つことをし、害を及ぼす暴力的な行いを犯す代わりに、地元の英雄のボクサー、バニー・グラント(Bunny Grant)のようになれと促した。しかし、アルトンが住んでいたキングストンの不安定な地域でその様な行為をおこなってしまったため彼はルード・ボーイたちの次のターゲットになってしまった。

「それから私は何度か脅迫された。トレンチ・タウンに住み、そういう環境の中で人々に囲まれ、アーティストであった私には簡単に手が届いたからだ。だからデューク・リードに私はそういうタイプの歌は差し控えたいと伝えたんだ...」

アルトンは1967年に強大な組織に成長したスタジオ・ワンを運営するコクソンに誘われ、ソウル・ヴェンダーズ(Soul Vendors)の英国ツアーのメイン・ヴォーカリストとしてケン・ブース(Ken Boothe)と共に抜擢され、デューク・リードの元を離れた彼はトレジャー・アイル在籍中のヒット曲をコクソンのために再録音した。ツアーは大盛況を収めアルトン、ケン、ソウル・ヴェンダーズはキングストンに凱旋した。アルトンはスタジオ・ワンにて一連のレコーディングをはじめ、それは彼の評判をさらに高めるものになった。この時期の彼の素晴らしい作品の一部は3つのスタジオ・ワンのすばらしいアルバム「Alton Ellis Sings Rock& Soul」、「The Best Of Alton Ellis」、「Sunday Coming」に聴くことができる。そのほとんどは彼の妻、パール(Pearl)に向けた自筆のラブ・ソングであり、妻と別れた時の悲痛に耐える気持ちを歌った彼の一番美しい曲'I'm Still In Love With You(I'm Still In Love)'はパールに対する直接的な訴えを歌ったものだった。

「私は社会問題に対する録音から一線を引き、愛情に満ちたサウンドに戻った。しかし、愛も事実であり、重大だ。私には座って、愛についての曲を書く方が他の事を書くよりも簡単だった。もっと感じることができ、もっと表現が出来たのだ。これが私の天性だろう。ほとんどの曲が私の人生のストーリーであり...個人的なものだ。」

60年代も終わりに差し掛かるとアルトンはフリーランスとして様々なプロデューサーのために録音を始めた。ウィンストン'テクニークス'ライリー(Winston Riley)のための'I'll Be Waiting'やクライブ・チン(Clive Chin)のランディーズでの'Too Late To Turn Back Now'などを含むロマンチックな曲を多数発表、そして社会的に現実味あふれる歌詞の'Back To Africa'と'Deliver Us'をロイド'マタドール'デイリー(Lloyd Daley)のために録音した。彼は再び反ルード・ボーイの姿勢に戻り、キース・ハドソン(Keith Hudson)のマフィア(Mafia)からリリースされた'Big Bad Boy'で彼らにもう一度警告を与えた。

1972年に彼はハーブ・アルパート(Herb Alpert)とジェリー・モス(Jerry Moss)のかの有名なレーベル'A&M'でレコーディングをするために渡英、'Sho Be Do Be Do (I Love You)'のリリース後、永住を決めたロンドンでは首都のレゲエ・シーンに絶大なる貢献を果たした。彼自身のレコーディングは質素だったが他のアーティストの教育を行い、その中には駆け出しの頃のジャネット・ケイ(Janet Kay)が "ラヴァーズ・ロックの女王"の地位に就くまでを含む。また彼が90年代に企画した復活祭の休日中にハマースミス舞踏会場で行われる毎年恒例のロック・ステディ・ギャラ・ショー(Rock Steady Gala Show)では60年代のジャマイカ最高のアーティストたちが次々とパフォーマンスを行った。2004年、アルトンは音楽業界での奉仕を称えられジャマイカ政府から国民栄誉賞を受賞した。その4年後の2008年10月10日、彼はリンパ腺がんにより西ロンドンのハマースミス病院にて他界した。

並外れたまでの愛と深い愛情をレゲエ愛好家たちに与え続けているが、レゲエ以外でも人々は原作者に気付かないながらも彼の音楽を聴いている。'I'm Still In Love'は1977年、アルテ・アンド・ドナ(Althea & Donna)がジョー・ギブス(Joel Gibson)のために録音し、世界的に大ヒットした'Uptown Top Ranking'に影響を与えるほか、2004年にはショーン・ポール(Sean Paul)とサーシャ(Sasha)が曲を使い、彼らのヴァージョンはビルボードに6ヶ月連続でチャートインした。アルトンのスタジオ・ワンでの別の大ヒット曲'Mad Mad'はミシガン・アンド・スマイリー(Michigan & Smily)がリズム'Diseases'としてヘンリー'ジュンジョ'ロウズ(Henry 'Junjo' Laws)のために歌を乗せ、80年代のダンス・ホールの定番になった。90年代にはKRS Oneやノートリアス B.I.G(Notorious B.I.G) などによりヒップホップのサンプル曲の定番ともなった。彼の作品が影響力を持ち、さらに独創的であると呼ぶにはこの事実が少なかれ暗示していると言えるだろう。

アルトン・エリスは偉人であるが、彼が残した数々の功績に見合った賞賛は得ていない。生前彼はこのような認識に対し誇りを持ってその欠如を受け止め、うんざりすることなく受け入れたが、他のジャンル音楽をやっていたら今我々が知っているような音楽の基礎を作り非常に強い影響力を持った人物として世界的に崇敬されていただろう。
2020/04/17 掲載
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