Keith Hudson(キース・ハドソン)Text by Jeremy Collingwood
プロデューサーからパフォーマーに転身したキース・ハドソンは1970年代にわたり、独特のスタイルを展開し、多くの楽曲を制作。メインストリームで成功することはなかったが多くのリスナーが収集する作品にアルバムやシングル盤が上げられる。42歳という早すぎる死にレゲエは1人の異端者を失った。
Keith Hudson
出生 |
1946年 |
死没 |
1984年11月14日 |
出身地 |
ジャマイカ キングストン |
関連アーティスト |
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ハドソンは自身の初期作であるケン・ブース(Ken Boothe)の'Old Fashion Way'でジャマイカナンバー・ワン・ヒットを手にすると、これまたディージェイの初期作であるデニス・アルカポーン(Dennis Alcapone)やUロイ(U Roy)による同カット曲でヒットを獲得した。インビディミィッツ(Inbidimts)やリバインド(Rebind)といったレーベルからハドソンは自身の音楽をリリースするなか、70年代初期にはアルトン・エリス(Alton Ellis)、デニス・アルカポーン、オーガスタス・パブロ(Augustus Pablo)、オードリー・ローリンズ(Audley Rollins)との録音を重ね、自身のボーカル作品も増えていった。彼は新たにバンドのソウル・シンジケイト(Soul Syndicate)を迎え入れることで、彼の音楽にさらなる滑らかさと甘美な音をもたらした。
70年代初期作で注目すべきは多数の発表されたディジー(Dizzy)&ザ・ソウル・シンジケイトによる'Riot(ヒュー・マセケラ"Hugh Masekela"によるヒット曲のカヴァー)'、パブロの名インストゥルメンタル3曲'Satan Side'、'Killer'、'Fat Baby'などのインストゥルメンタル楽曲の質で、一部のタイトルは様々なレーベルからイギリスでプレスされたものも多く入手が困難である。ヤマハのバイクS90への頌歌'Ace 90 Skank'では、スタジオにバイクを持ち込みエンジン音のオーセンティックな音を録音することでビッグ・ユース(Big Youth)をブレイクさせることに成功。
当時彼はゲットーの起業家であるキース・ホブソン(Keith Hobson)とも活動を行っていて、彼らはビッグ・スタイル(Big Style)、スタマ(Stamma)やアトム(Atom)からシングル盤をリリース。ホブソンが資金を提供し、ハドソンが制作技術面を担った。
1974年に発表されたファースト・アルバム「Flesh of My Skin Blood of My Blood」は傑作盤として正当な評価をされていて、楽器やボーカルの異常なミックスは驚くべきまとまりを聴かせる。黒人人種の悲しい歴史とその未来がハドソン独特の声に生きていると言えるだろう。翌年の1975年には「Pick A Dub」と「Torch of Freedom」2つのアルバムが続き、ロンドンではスモーカーにとって極上の傑作となるも、レゲエではよくあることだが両作品とも不十分な流通によって苦しめられた。ハドソンがニューヨークに拠点を移し、イギリスのヴァージン(Virgin)と契約を交わすと何かが彼の音楽キャリアで変わろうとしていた。
ヴァージンのために制作した「Too Expensive」は失敗に終わり、ハドソンは彼の新しいレーベル、ブランド(Brand)からダブ作品をリリース。もし、ハドソンの音楽が見つけるのが難しかったとしても、不定期ではあるがアメリカ盤でリリースが続き、彼の方向性はダブ・レゲエへと向かって行った。ミリタント・バリー(Militant Barry)をプロデュースするために再帰を果たすもそれは危ない橋だった。
1984年、ガンと診断され同年の末までに亡くなった。彼のユニークなスタイル、理解しがたいレーベル作品の一連、限られたリリースは今も入手することが難しく、最も入手困難リリース作品には高値が付けられている。
2017/12/27 掲載