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トップ特集・オリジナルコンテンツレーベル名鑑Aquarius
レーベル特集
Aquarius (アクエリアス)Text by Harry Hawks
ジャマイカ音楽の歴史上、ハーマン・チン・ロイは比較その名を知られていない状態に留まってきたが彼のアクエリアスとスコーピオの両レコード・レーベルが出す革新的な音楽は、遥か遠くまで共鳴し、その他多くの有名プロデューサーを差し置いてその重要性を証明した。
Aquarius
設立 1969年
設立地 ジャマイカ ハーフウェイ・ツリー 
主要スタジオ
Aquarius
Randys
設立者
Herman Chin Loy
プロデューサー
エンジニア
Calvin Robertson
Clive Hunt
Harman Chin Roy
Karl Pitterson
Mervin Williams
Steven Stanley
Willie Lindo
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元来、中国人は1838年の奴隷解放後、年季契約としてジャマイカにやってきた。即座に彼等の経済への貢献が認められ、契約終了後も多くは島に残った。しかしながら20世紀後半において中国人がジャマイカ音楽の成長に覆せないほど大きくもたらした影響は、実業家としてではなく必要不可欠な創造力としてであった。

フィル・チェン(Phil Chen)とチャン兄弟(Chung Brothers)、ジェフリー(Geoffrey Chung)とマイケル(Michael)、はとても影響力の強いセッション・ミュージシャンであり、ランディーズ(Randys)レコード・ショップとスタジオ17(Studio 17)のヴィンセント(Vincent Chin)とクライヴ・チン(Clive Chin)、チャンネル・ワン(Channel One)のアーネスト(Ernest)、ジョージョー(Joseph Hookim)、ケニス(Kenneth)そしてポーリー(Paulie)等のフーキム(Hookim)兄弟、オレンジ・ストリートのビヴァリーズ(Beverleys)のレスリー・コング(Leslie Kong)、ダイナミック・サウンズ(Dynamic Sounds)を運営するバイロン・リー(Byron Lee)は、音楽的にはドラゴネアーズ(Dragonaires)のリーダーとして活躍、そしてジャスティン'フィリップ'ヤップ(Justin Yap)による伝説のレーベル、トップ・デック(Top Deck)とチュネイコ(Tuneico)、これら全ては音楽業界において無くてはならない創造的かつ起業的な力であった。ハーマン・チン・ロイ(Herman Chin Loy)のアクエリアス(Aquarius)レコード・ショップ、レーベルそしてレコーディング・スタジオもまた、この特徴的な中国系ジャマイカ人による音楽的、そして商業的な偉業に欠かせないものであった。

「ハーマンは彼の25%にあたるアフリカの伝統が、ジャマイカ音楽とビートに深く根付いた理解を生んだと信じている。また、商業的な洞察力は彼の75%にあたる中国の血によるものと考えている」コーデル・ブラハム(Cordell Braham)

ハーマン・チン・ロイは1948年7月11日にトリラーニの穏やかな郊外で生まれた。その後クラレンドンへ移り、最終的には家族と共にキングストンで落ち着くこととなった。60年代初頭に彼はネヴィル・フー・ロイ(Neville Foo-Loy)と共に自身が手がける最初のレコード・ショップをダウンタウンの中心地キング・ストリート125番地にオープンし、ワン・ストップ(One Stop)と名づけた。ネヴィルはデリック・ハリオット(Derrick Harriott)のエクセルシオール・ハイ・スクールでの級友で、1966年にハーマンがハーフ・ウェイ・ツリー地区にあるKG'sに移った際、2人は物件をデリック・ハリオットに譲渡し、ワン・ストップはデリックズ・ワン・ストップ(Derrick's One Stop)となった。

「俺はディージェイとしてプレイしたかった、だから自らのレコード屋を離れてKG'sで働くことにした。彼は店の裏にLotus A Go Goと呼ばれているディスコを持っていて、俺はそこでプレイしたかったんだ。だからディスク・ジョッキーを始めてKG'sでレコードを売っていた。まぁ自分で言うのもなんだけど、俺は業界において最も優秀なレコード・セールスマンとして認識されていたよ」ハーマン・チン・ロイ

KG'sレコード・ショップのトップ・セールスマンはLotusやSpinning Wheelディスコでのレギュラーはもとよりインナー・サークル(Inner Circle)やナウ・ジェネレーション(Now Generation)等のライブにもまたディージェイとして参加、キングストンの音楽シーンにおいて最もセールス的に影響力のある人物の1人として急速に名をあげていった。彼はまた1969年にレコードのプロデュース業もはじめ、ロイド・チャーマーズ(Lloyd Charmers)を迎えて制作した'Shanghai'と'African Zulu'で最初のヒットを楽しんでいた。アストン'ファミリー・マン'バレット(Aston ‘Familyman’ Barrett)、アルヴァ'レジー'ルイス(Alva 'Reggie' Lewis)そしてグレン'カポ'アダムス(Glen Adams)らのミュージシャンが頻繁にハーマンの元へ足を運ぶようになった。

「彼等は俺に彼等の持っていたリズムについて話してくれた。俺はその中からいいところを1つでも買ってその上にメロディーを乗っけてたんだ」ハーマン・チン・ロイ

実際、ハーマンが乗せたのはメロディーだけではなくディージェイとしての感嘆と、彼自身が考えるレコーディングにおいての"こう鳴るべき音"のビジョンを背景に用いられる冒険心であり、それらが発端から彼のプロダクションのキャラクターを具現化していった。

「俺は革新的なサウンドで実験していた。いくらかの時間と、考え方 -音楽、メロディー、ハーモニーそしてブリッジ。ほとんどのプロダクションはただ自然発生的だけど、俺の方法論は何かを書き出すということ。スタジオにいると心地いいし、お店の調子がいいときはヴァイブスによってスタジオに出入りしている。人助けが大好きだよ、最もヴァイブスが正しくないとダメだけどね」ハーマン・チン・ロイ

その後ハーマンはKG'sを離れ、自身のアクエリアス・レコード・ショップをハーフ・ウェイ・ツリーにあるRainbow、後のSkatelandの隣にオープンした。ジャマイカ音楽の歴史において、アクエリアス・ストア(Aquarius Store)を始め、鍵を握るレコード・ショップの重要性はしばし過大視される傾向にある。良いセールスマンはレコードを売ることも役立たずにすることもできたのだ。

「俺は客が望むものを売り、それによって音楽に貢献してきた。買い手がいなければそこには何もない、だがそれはお金の問題でもない。それは客を喜ばせることであり、そのサービスを提供することだ」ハーマン・チン・ロイ

自らのプロダクションに神秘的で、謎めいた感性を持たせるためにハーマンは彼のインストゥルメンタル楽曲に"オーガスタス・パブロ(Augustus Pablo)"といペンネームをクレジットしていた。ホレス・スワビー(Horace Swaby)によるとそれはハーマンがメキシコの雑誌の中で見つけたものであった。この痩せ型で物静かな青年が後にこの名前を譲り受けられ、ホレス・スワビーからオーガスタス・パブロに改名することとなる。彼の音楽はハーマンが初期段階から"オーガスタス・パブロ"の名前に意図していた全ての謎めきと、掴み所のない神秘性を具現化し、それを伝えた。

「パブロっていう名前を使っても、一度たりとも問題にはならなかったからね」ハーマン・チン・ロイ

ハーマンはホレス・スワビーが1971年にメロディカを持ってアクエリアス・レコード・ショップに訪れていた際に始めて出会った。彼の家族につながりがある友人の娘から借りたというそのメロディカは、楽器としては当時子供のおもちゃくらいの認識度しかなかったが、ハーマンの「弾けるのか?」という質問に応じ演奏したホレスに心を動かされた彼は、すぐに録音の為にスタジオを予約した。翌週ランディーズのスタジオ17でハーマンとホレスはヘプトーンズ(Heptones)の'Why Did You Leave'のカヴァーし'Iggy Iggy'を制作、2人はその後何年にも渡ってレゲエ界に著しく影響を与えることとなるサウンドを打ち立てた。既存のルールを全て破壊したこの歴史的セッションは、ジャマイカ音楽の全く新しい方向性を確立し、後に大いに影響を及ぼすミュージシャンの降臨を布告した。

アクエリアスは常に時代の一歩先を行くプロダクションだったが、ハーマンの曲の中で唯一海外でも成功を収めた'Rain'は伝統的な歌手による伝統的な歌であり、当初からメインストリームでの成功を意図して制作された。ハーマンはテープをイギリスに送り、レーベルのトロージャン(Trojan)によりUKリリースの為にその地でストリングスが加えられた。魅力的なアレンジはジェフリー・チャンが行い、元テクニークス(Techniques)のブルース・ラフィン(Bruce Ruffin)が美しく歌い上げたその曲は、10万枚以上の売り上げを記録し、1971年夏にはUKのナショナルチャートで19位を獲得した。

「...当時ちょっとそわそわしていたから、ハーマンが'Rain'を録音しないか?って提案してくれたときに"もちろん!"って思ったよ。その曲はホセ・フェリシアーノ(Jose Feliciano)のレコードのB面に入っていて、すごく良い曲だと思った、だからインナー・サークルと一緒にその曲をライブで演奏することにしたんだ... それから俺等はスタジオに行って録音したよ。それはさておきハーマンはテープをトロージャンに送った、そしたらトニー・キング(Tony King)がストリングスから何から付け加えたんだ。その後、この曲はヨーロッパ中で大ヒットしたよ... 」ブルース・ラフィン

デニス・ブラウン(Dennis Brown)は、キャロル・キング(Carol King)の'It's Too Late'を似たようなセンチメンタルなスタイルでカヴァー、ハーマンのアクエリアス・レーベルの為に歌ったが、普段彼とボーカリストとの作業はもっと冒険的であった。デニス・ブラウンは演奏にナウ・ジェネレーションを迎え、キャリアにおいて最も素晴らしいパフォーマンスのひとつをこの'The Song My Mother Used To Sing'で披露した。

「デニスは偉大なシンガーだった。アレンジを用いてリズムと共にホーン・セクションを賛美するといった形で、一種のオーケストラのような感じを出したかった」ハーマン・チン・ロイ

常に新しいトレンドに敏感だったハーマンは、ハーフ・ウェイ・ツリーのテンポに来る常連客の多くがダブのレコードを探しにきていることに気づいた。それによりハーマンはダイナミック・サウンドのスタジオでこの世で最初に作られたダブのアルバムと言われる作品をミックスしに行った。

「"Aquarius Dub"が最初のダブLPだった... 店にいるとみんな俺にダブのレコードはあるかと訊くんだ。彼等はそのレコードをサウンドシステムでかけていた、そのとき俺は自問したんだ、どうすればこういう音楽を手に入れてそれを売ることができるのだろう?って。だから俺はそのレコードを作るしかなかったんだ!俺はそれをエンジニアとミュージシャンの手を借りてミックスした。彼等に指示して自分の思い描いた音を手に入れた... 他のダブ・アルバムが出てきたのはその後の話だ...」

「もし普通のアルバムが4ドルだとしたら、俺はダブLPを6ドルで売った。値段は問題じゃなかった、だって彼等がダブを切りたかったらもっと高いからね、だから結果的にそれは安かった。だけどその後はみんなダブを出し始めた。俺がフェデラル(Federal)にスタンパー(量産用のレコードの型)を切りに行ったときなんてエンジニアが"これはなんの冗談?"って言っていたよ、でも結果的に彼らも後に自分たちのダブLPをだすことになるんだ」ハーマン・チン・ロイ

「Aquarius Dub」に収録されている'I Man'はオーガスタス・パブロによる'Cassava Piece'リズムでの最初の録音で、後にパブロ新時代の代表作、「King Tubbys Meet Rockers Uptown」の基礎となる楽曲である。この独創的なレコードは1975年、ロンドンでアイランド(Island)レコードが7インチでリリースし、ダブというコンセプトをジャマイカ外に広める要因になったと考えられている。

その後まもなくハーマンは"カリブ初の24トラック・スタジオ"をハーフ・ウェイ・ツリーのアクエリアス・スタジオにオープンするが、残念なことにそのスタジオを自らのパワフルなプロダクションに完全に取り入れることはできなかった。周りの人間はこのアクエリアス・レコーディング・スタジオの可能性をすぐさま感知し、バニー・ウェイラー(Bunny Wailer)は1975年8月、彼の生産的なアルバム、「Blackheart Man」をそこで録音、ミックス・ダウンした。ハーマンの多くの事業への傾倒が一定不変に彼のプロダクションへの妨げになっていったようだ。そしてスタジオは"コマーシャルやその他レゲエ以外の音楽"に使われていたこともしばしばだった。ハーマンを代弁すると、これは全くもってインスピレーションや興味が欠けていたということではない...

「俺は常にヴァイブスで満ち溢れている、ただ時間が無いんだ。これはけしからぬことだ」ハーマン・チン・ロイ

ハーマンの時間が空いたときに店のカウンターから出てスタジオに入る際の結果は常に著しいものであった。ダンス・ホール初期には「過去にアクエリアス・レコード・ストアで働いていた」タイガー(Tiger)自身のレーベル、ミュージックイズム(Musicism)の初リリースとなる'Knock Three Times'をプロデュースし、そのほかにもアール・シックスティーン(Earl Sixteen)、テリー・ガンジー(Terry Ganzie)、リトル・ロイ(Little Roy)、シュガー・マイノット(Sugar Minott)、ジョージ・ノックス(George Nooks)、トリスタン・パーマー(Triston Palmer)、リンヴァル・トンプソン(Linval Thompson)、その他大多数であり、ハーマン自身によると、中でも一番素晴らしいものはまだまだこれから出てくることになるという...

「人々の歴史は音楽によって語られる。俺は真実を探しているんだ。それが一番大切なことであり、もしそこに真実が無かったらそこに正義はない。俺は今まで出してきた音源よりもっと気に入っているものを持っている!俺が1番の気に入っているレコードたちはまだリリースされていないんだ...これは真実だ」ハーマン・チン・ロイ

参考文献:
Noel Hawks: Interviews with Herman Chin-Loy London UK/Miami USA 14th & 28th September 2004
Noel Hawks: Interview with Derrick Harriott London UK 22nd May 1998

Cordell Braham: Herman... Swing December 1971 to January 1972
Laurence Cane-Honeysett: Interview with Bruce Ruffin April 2001
Paul Coote, Noel Hawks, Dave Hendley & Chris Lane:
Interview with Augustus Pablo London 21st September 1996
Chris Lane: Interview with Herman Chin-Loy Kingston December 1973
Steve Milne: Kung Fu Reggae and the Chinese Connection (Part One) Full Watts Vol.2 No. 2
2013/04/26 掲載 (2013/10/18 更新)
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