Tenor Saw(テナー・ソウ)Text by Dub Store Sound Inc.
80年代中期から後期を代表するダンスホール・アーティスト。メロディーからキーをはずした歌唱スタイル、"アウト・オブ・キー"の代表格。フワフワと浮いているような歌唱スタイルと覚えやすいメロディーラインは聴くものを虜にする。
Tenor Saw
本名 |
Clive Bright |
出生 |
1966年12月 |
死没 |
1988年 |
出身地 |
ジャマイカ 西キングストン ペインアベニュー地区 |
80年代中期から後期を代表するダンスホール・アーティストとして知られる。
この時期のダンスホール・アーティストを象徴するレゲエ独特の意図的にメロディーからキーをはずした歌唱スタイル、"アウト・オブ・キー"の代表格。催眠術の如く、宙をフワフワと浮いているような中毒性のある歌唱方法と覚えやすいメロディーラインで聴くものを虜にした。
1984年、ジョージ・パン(George Phang)率いるレーベル、パワー・ハウス(Power House)からリリースされた"Queen Majesty"のリズムの'Roll Call'でデビューを果たす。1985年、コンピュータライズドと呼ばれるレゲエの革命となったリディム、"Sleng Teng"での'Pumpkin Belly'やシュガー・マイノット(Sugar Minott)が仕掛人のレーベル、ユース・プロモーション(Youth Promotion)からの'Lots Of Sign'、'Fever'などといった超ヒット曲を次々と飛ばした。
彼の1番の代表作は、85年ウィンストン・ライリー(Winston Riley)率いるレーベル、テクニクス(Techniques)からリリースされた"Stalag17"リズムの'Ring The Alarm'だろう。また、後にテクニクスからリリースされたヒップホップ・リミックスやブジュ・バントン(Buju Banton)との仮想共演で制作された'Ring The Alarm Quick'でよく知られている。
しかし、1988年アメリカ合衆国テキサス州ヒューストンにて腐乱死体で発見され、死因はひき逃げによる事故死とされたが他殺の可能性が濃厚だとも言われた。彼はわずか4年間という短い音楽活動期間で数々の名曲を残し、レゲエ業界に多大な影響を与えたが、22歳という若さでこの世を去った。
2007/05/21 掲載 (2013/11/21 更新)