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アーティスト特集
Culture(カルチャー)Text by Harry Hawks
2つの7がぶつかり合った1977年、カルチャーによる「ルーツ・レゲエ、預言、前兆、平和、愛、結束」の完璧な組み合わせはその日(1977年7月7日)の秩序となった。
Culture
メンバー Joseph Hill
Albert Walker
Kenneth Paley
活動期間 1976 ~ 2006
結成地 ジャマイカ キングストン 
「カルチャー。今では西インド諸島から生まれた文化的なレゲエ・ミュージック愛好家の多くにとって良く知られた名前である」

カルチャー(Culture)、本名ジョセフ・ヒル(Joseph Hill)は1949年1月22日、セント・キャサリン(St. Catherine)で生まれた。1968年、地元のザ・セレクテッド・フュー(The Selected Few)というバンドのメンバーになり、パーカッションを演奏、リード・シンガーだったフレディ・マッケイ(Freddie McKay)のハーモニーを歌った。同バンドはソウル・ディフェンダーズ(Soul Defenders)へと発展、スタジオ・ワン(Studio One)のハウス・バンドの一つとして定期的に録音を行なうようになると多くの演奏を担いブレントフォード・ロードからヒット曲を放った。これらにフレディ・マッケイの'High School Dance'や'Picture On The Wall'が挙げられるが、彼らは1972年コクソン(Coxsone/Studio One)から7インチでリリースされたジョセフ・ヒルのデビュー曲'Behold The Land'のバックを演奏した。

ソウル・ディフェンダーズが解散すると、ジョセフ・ヒルは北海岸のホテルを巡業ツアーするアーティストの様々なバンドで演奏するようになった。1976年、彼は従兄弟のアルバート'ランドルフ'ウォーカー(Albert 'Randolph' Walker)、そして友人のケネス・パレイ(Kenneth Paley別称KennethもしくはLloyd Dayes)とアフリカン・ディサイプルズ(African Disciples)を結成。3人組みはメロディーにマイナー・コードを使い、黒人史、文化、アフリカ帰還の歌だけに集中することでアメリカのソウル・グループからの影響下から脱しようとしたのだった。

同年、ジャー・ロイド(Jah Lloyd本名Pat Francis)は3人をブラッカ・モーウェル(Blacka Morwell本名Maurice Wellington)に紹介、ジョー・ギブス(Joe Gibson)お抱えのアレンジャーとして活動を始めた。当時、アフリカン・ディサイプルズはリタイアメント・クレセント通りで行われたオーディションで'This Time'を披露したという。ジョー・ギブスは彼らにカルチャーという名前を与え、彼のレーベル、ベルモント(Belmont)からすぐに'This Time'がリリースされた。ヘプトーンズ(Heptones)の'I've Got A Feeling'のヴァージョン'I'm Not Ashamed'、スタジオ・ワンのインストゥルメンタル曲'Heavy Rock/Our Thing'を使った'Jah Jah See Dem A Come'が大きな話題を呼び、マーカス・ガーヴィー(Marcus Garvey)によって預言された恐ろしい警告、最後の審判を意味する'Two Sevens Clash'でカルチャーは1976年、最も熱いアーティストとして注目を浴びることになった。

そして、カルチャーとマイティ・トゥー(Mighty Two)、さらにブラッカ・モーウェルはアルバム"Two Sevens Clash"の制作を開始した。彼らのデビューLPは国際的なベストセラーとなり、この年を代表するレゲエアルバムの一つとなった。このアルバムで新たに獲得したリスナーには、イギリスのパンク・ロッカーが含まれ、イギリスのクラブで'Two Sevens Clash'がひっきりなしにプレイされた。また、'Natty Dread Taking Over'と'Zion Gate'はジャマイカのチャートで1位を記録、カルチャーの'音'はどこでも耳するようになった。

「このグループのリーダーとして感じるんだ。この次のアルバムに対して莫大な意図があることを。でも、俺はただこのアルバムで踊って欲しいとはいわない。言葉を聞かなきゃ意味ないのさ、それは永遠に残るものだから」ジョセフ・ヒル

彼らのセカンドアルバム"Bloldhead Bridge"には"Two Sevens Clash"制作時のセッションで録音された楽曲、さらに'Zion Gate'や'Love Shines Brighter'といったヒットシングルが収録された。しかし、本作がリリースされたときに彼らはすでにジョー・ギブスの下を離れ、オレンジ・ストリートに拠点を構えたソニア・ポッティンジャー(Sonia Pottinger)のティップ・トップ(Tip Top)での活動を始めていた。マイティ・トゥーとの初期作における荒々しいエネルギーは絶妙に磨き上げられ、3人組はこれまでの挑戦的なアプローチを微妙に減らし、'Stop The Fighting'や'Natty Never Get Weary'といったヒット次々にリリース。ソニア・ポッティンジャーのために制作したLP"Harder Than The Rest"にはジョー・ギブスで制作した楽曲がティップ・トップのために再録音、収録された。1978年、ヴァージン(Virgin)の傘下レーベル、フロント・ライン(Front Line)から世界的にリリースされ、似た様なアルバム"Africa Stands Alone"がアメリカのアイプリル・レコーズ(April Records)から発表され、彼らの名声をさらに高める結果となった。同年4月、キングストンのナショナル・アリーナで開催された「ワン・ラブ・ピース・コンサート」でパフォーマンスを行い最後に'Stop The Fighting'を歌い、ジョセフ・ヒルが「武器に使われる金は貧しい人々に食べさせるため使われるべきだ」と訴えたことは彼らの評価を決定付けた。

70年代が終焉を迎え、ジャマイカのシーンがダンスホールに移り変わると多くのルーツ・アーティストが方向転換を行ったが、カルチャーは1982年に2人のバック・シンガーと離別するも狭き道をまっすぐと歩み続けた。リズムが変わればいつも通りジョセフ・ヒルはそれを取り入れた。デジタル楽曲としてブレイクしたウェイン・スミス(Wayne Smith)の'Under Me Sleng Teng'のリズムで、1986年エノス・マクリード(Enos Mcleod)プロデュースの'Capture Rasta'をミュージカル・トラック(Musical Track)から発表、どんなスタイルのリズムでも今まで同様に自身がオリジナルであることを証明した。しかし、ジャマイカでヒットを輩出した日々は過去の栄光に。しかし、真のルーツ・レゲエを歌う彼をクロスオーバーのリスナーは支持し続け、カルチャーの世界的な地位が下がることは決してなかった。ステージで魅せたカリスマ的なジョセフ・ヒルのライブ・パフォーマンスはいつも表現が豊かで熱心だった。熱心なリスナーのためにと楽曲制作を続け、世界中で通常1年に100公演ほどのツアーを行った。

すべての音楽キャリアをマーカス・ガーヴィー、ラスタファーライ、平和、愛、結束のメッセージを広めることに捧げた彼は2006年8月19日、ヨーロッパ・ツアー中にベルリンで亡くなった。

「まっすぐさ、躊躇はない、ジャー・ラスタファーライから素直に」ジョセフ・ヒル
2011/02/07 掲載 (2012/11/02 更新)
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