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トップ特集・オリジナルコンテンツアーティスト名鑑Linval Thompson
アーティスト特集
Linval Thompson(リンヴァル・トンプソン)Text by Harry Hawk
もともとはルーツ・アンセムを歌うシンガーとして1970年尊敬されていたリンヴァル・トンプソンは最初の、また先進的なダンス・ホール・ミュージックのプロデューサーの1人としてのキャリアも成功させた。
Linval Thompson
出生 1954年10月12日
出身地 ジャマイカ キングストン 
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1954年にキングストンで生まれたリンヴァル(Linval Thompson)はタフなゲットー地区、キングストン13で育った。「真実を伝える音楽は自分の家族の中には無かった。私はこの恩恵と共に生まれた」彼が最初に音楽ビジネスに関わったのは歌うことでもなく、プロデュースでもなく近所のサウンドシステムを宣伝することだった。「ずいぶん前だが14、15歳だった私はダンスホールに出かけるようになったのだ。70年代の初期私は自分のエリアでダンスが続くように努め、私が初めて音楽ビジネスに関わったのはサー・パーシー(Sir Percy)という地元のサウンドシステムをブッキングしたときだった...自分のエリアでプロモーターになろうとしていた」

1968年リンヴァルの母親はニューヨークに移住、彼の父親、姉妹、兄弟の彼女のあとに続き移住した。その後リンヴァルも雇い先を求めアメリカに飛び立ち、彼が選んだキャリアは音楽だった。「私は狂ったように歌っていたよ!どこにいても歌っていた」しかし音楽ビジネスに介入することは容易ではなかった。「私はレコーディングすることにあこがれていたが方法を知らなかった」遂に彼は地元のシンガー、パトリック・アリー(Patrick Alley)に出会った。「彼は私をアート・クラフト(Art Craft)というブルックリンのスタジオへ連れていってくれ、そこで生まれて初めてのレコーディングをした。'There's No Other Woman In This World'という曲だった。皆は私がデニス・ブラウン(Dennis Brown)のように聴こえると言っていた。大体500枚くらいをプレスし、私が歌っているのをただ友達に聴かせるためにジャマイカに送り返したのだ。私はこの歌を気に入っていた。金の為じゃない」しかしこのレコードは節度に売れ、リンヴァルは「今この曲は見つからないだろう!」と語った。'スタマ'ホブソン('Stama' Hobson)と出会うことになる1974年のジャマイカへの帰国を前に彼は続けてニューヨークを拠点にしたレーベル、マーツ(Mart's)でレコーディングを行った。

「彼はノース・パレードにあるランディーズ(Randys)のスタジオ17に私を連れて行った。デニス・ブラウンは'Westbound Train'という楽曲で盛り上げていたから私は'Westbound Plane'という曲を思いついたんだ!この曲は飛んで行ったよ!皆はこんなことをし、デニス・ブラウンみたいなこの若いアーティストは誰だと不思議がっていたよ!プロデューサーたちはこの新しいアーティストと仕事をしたがったものさ!」

そしてリンヴァルはキングストンのトップ・レコード・プロデューサーたちと活動を始めオーガスタス・パブロ(Augustus Pablo)と今ではレアで捜し求められている'Natty Dread A Pressure Them'、オープンしたばかりのリー'スクラッチ'ペリー(Lee Perry)のブラック・アーク(Black Ark)スタジオでフィル・プラット(Phil Pratt)と共にレコーディングをした。「私はフィル・プラットと共にヒットした'Jah Jah Redder Than Red'と'Girl You Got To Run'という2曲をやった」この2枚はロンドンのレーベル、フェイス(Faith)からリリースされ、この若いシンガーの評判を高める手助けをした。それに続いたスクラッチの元で録音したブルース・リー(Bruce Lee)に捧げた'Kung Fu Man'はグローブ・インターナショナル(Globe International)からリリースされた。

キングストンのウィットフィールド・タウン地区に落ち着き、伝説的なプロデューサー、バニー'ストライカー'リー(Bunny Striker Lee)と共に驚きのヒット曲の連発を味わっていたジョニー・クラーク(Johnny Clarke)と友人関係を築いた。「それから偉大なバニー'ストライカー'リーの元へ行った。ジョニー・クラークは'Move Out Of Babylon'で大きな盛り上がりを見せていて、私達はよき友だった。私はいつも彼の近くにいて歌うチャンスをうかがっていたが、バニー・リーは毎日"次の日に戻って来い"と言うだけだった...彼は私を待たせ続けたが私は曲を作りたかった...」リンヴァルはストライカーのために歌う気があったものの、ストライカーは当然のことながらジョニー・クラークのキャリアをスローダウンさせることなどしなかったが彼はリンヴァルの時代がすぐに来るということを知っていた。

「ある夜、私たちはキング・タビー(King Tubby)のスタジオにいてジョニー・クラークのヴォイシングをしていたが私は歌ってはいなかった。私はまだ自分の出番を待っていた。私はバニーに"このリズムのトラックをくれないか?自分でヴォイシングをして自分のために使うから"と言った。するとバニーは"もっていきな"と言った。しかし自分自身でヴォイシングをしないといけなかったんだ!ジャーがリリックを授けて下さり私は'Don't Cut Off Your Dread Locks'を歌ったがバニーがそのトラックをくれなかった!その夜ヴォイシングをしたのはその曲だけだったが、次の日にはミックスをされたよ」

レコードは大ヒットし、ストライカーのレーベル、プロフェッシー(Prophecy)からリリースされリンヴァルはジョニー・クラーク、コーネル・キャンベルに続く3人目のストライカーのヒット曲を生み出すヴォーカリストとしての仲間入りを果たした。リンヴァルのレコードの多くはラスタファリ信仰を称え、ストライカー・リーの海外との強力なコネクションにより国際的にリリースされた。「ストライカーはこの曲をイギリスに持って行きグロウネーション(Grounation)からリリースし、カウント・サリー(Count Sally)はその後同じ名前のアルバムをリリースした」その後リンヴァルはキングストンのトップ・サウンド・システム、ソーシャリスト・ルーツ(Socialist Roots)のために楽曲を録音し、その'Train To Zion'は彼らの代表的なトップ・アンセムになった。

1976年リンヴァルは自身のレーベル、トンプソン・サウンド(Thompson Sound)を設立、その2年後ロンドンでのリリースのためにセルフプロデュースした最初の3枚のLPをトロージャン・レコーズ(Trojan Records)とライセンス契約を行った。「レーベルをやりたかったからこれは私にとって必要なことだった。その次のレコーディングは"I Love Marijuana"というアルバムでそれをイギリスのトロージャンに持っていった...それからどこへ行っても見るようになった!私はダブ・アルバム"Nagrea Love Dub"を作り、それから作ったビッグ・ジョー(Big Joe)とのディージェイ・アルバム"African Princess"もトロージャンからリリースされた」

この時期リンヴァルはヘンリー'ジュンジョ'ロウズ(Henry ‘Junjo’ Lawes)と面識を持つようになり、リンヴァルの後援もありジュンジョは次の10年で最も成功したプロデューサーたちの1人になった。「それから私はジュンジョ・ロウズと出会った...バーリントン・リーヴィ(Barrington Levy)が現れる前のことだった。1978年から79年、私はジュンジョにトラックを少しあげるようになりそれから彼はバーリントン・リーヴィに出会った。それから彼はバーリントンを録音するようになり巷を盛り上げ始めた...それからイギリスとグリーンスリーブス(Greensleeves)のところへ行ったというわけだ」

レコード制作にますます関わるようになってきたリンヴァルは自身の目的のために豪華なミュージシャンたちと数々のスタジオで仕事を共にした。「私はスライ&ロビー(Sly & Robbie)と制作を始めたが、以前はルーツ・ラディックス(Roots Radics)とスライ&ロビーを使っていた。交互に使っていた...がルーツ・ラディックスの方がヒット曲が多かった!私はほぼチャンネル・ワン(Channel One)で録音をしてキング・タビーのところでミックスをしていた。違ったサウンドがほしくて時々私はキング・タビーのところ、また時々チャンネル・ワンとでヴォイシングをしていた」彼はまた音楽ビジネスにおいて自身初のレコードを作り最初にブレークをするまでどれだけ困難だったかということを覚えている。

「多くの才能と自分を急かしたくはなかった。私は今歌うことよりもプロデュース業に趣を置いている。自分でそうしようと思ったわけではなく、ただそうなってしまった。そうなってしまったから多くの人々は私のことをプロデューサーとして知っている...物事はそのように起こるのだ。ミステリアスでそれは私にとって本当に上手くいくのだ」

彼はイーク・ア・マウス(Eek A Mouse)、ディージェイのリー・ヴァン・クリフ(Lee Van Cliff)、パパ・トゥロ(Papa Tullo)などのニューカマーたちをレコーディングしたがアル・キャンベル(Al Campbell)やジョニー・クラークなどの人気が確立していたスターたちとも活動を行った。1982年、リンヴァルはこちらもすでに人気を博していたスターのフレディ・マクレガー(Freddie McGregor)に今日までトンプソン・サウンドで最もヒットした楽曲を贈った。「キングストンの港と船が私のストーニー・ヒルの自宅から見えるのだ、そこにフレディが来て"大きな船が港に泊まっている"と言った。その日の午後私たちはスタジオへ行き'Big Ship'を録音した。リンヴァル・トンプソンがプロデュースした彼1番のヒット曲だ!そして私たちはグリーンスリーブスのためにアルバムを演った...」このレコードは人気を博し、フレディは自身でプロデュース業を始めるときに自身のレコード・レーベルとレコーディング・スタジオを"ビッグ・シップ"と名づけたほどだ。

過去35年、リンヴァル・トンプソンは本当にジャマイカ音楽の行く先を形作る多くのことをしてきた。自身の古い作品と新しい作品の橋渡しに成功し、いつも現実を伝えるレゲエの"コンシャス"を 基にしたスタイルは、ダンス・ホール・ミュージックが確立される手助けをした...

「変化をする必要はあるがルーツを忘れてはいけない」リンヴァル・トンプソン
2018/12/05 掲載
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